10月8日の聖壇の花

10月8日の聖壇の花
菊の一種でピンポンマムという新種の花でささげられていた。
新しい花で私の図鑑にはない花でした。きれい!

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# by minitayori | 2017-10-14 17:59 | Trackback | Comments(0)

「みにたより324」

「みにたより324」

病気と言う字は、病と気との言葉で出来ていますね。病を持っていてもその日を輝いて生きることが出来ますし、その生き方が人に感動を与え、他の人にも自分に喜びを与えます。

私は最近、身体の衰えや記憶力の衰えに負けそうな時があります。私がその様な状態に陥ると、必ず電話をくださり、励ましくださる方がいます。本当の心の友と言うのでしょうか。

その方は次々に大病を患いながらも、奇跡的に人に感動を与える大きな働きをして居られます。まさに私とは反対に、心が神様に満たされ委ねて、輝いて生きておられると、いつも自らを恥じています。

病にはかかっても、心を強く持って病気にはなるなと、よく病院訪問の時に励ましの言葉としてお話してきました。今その言葉を自分自身に語りながら、生きています。私は引退して、カメラを持って散歩に出るようにしました。野の草、道端の花を見ていると、いろいろなことを教えられます。

誰も見ていなくても、自分の置かれた場所で一生懸命咲いている小さな花。誰もかえり見てくれない様な花に、もっと人目につく様な所に咲いていたら、と見ていると、花が「ここは神様が置いてくださった所、ここで一生懸命咲きます。」と語っている声が聞こえたようでハッとしました。

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どんな状態であれ、そこが神様のみ心によって与えられた所、大切なことは置かれた場所で感謝しながら、「今」を自分の出来ることを精一杯しながら生きることだ、と何度も学ばされました。


 


# by minitayori | 2017-10-14 17:53 | Trackback | Comments(0)

シンフォルカルポス

シンフォルカルポス
珍しい花、お花の担当の方が花屋さんに着ておいてくれた。
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# by minitayori | 2017-10-14 17:47 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 10月18日 マタイ福音書20章1-16節

1018日 聖霊降臨後19主日 マタイによる福音書201-16

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20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。

20:2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。:3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、:4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。:5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。:6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、:7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。

20:8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。:9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。:10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。

20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。

20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。

20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』 20:16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

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「礼拝に備えて」

人生の中で、神様に不満を言いたい時がなかったでしょうか。こんなに神様に仕えてきたのに、今の不幸は一体どうしたことだろうか・・など考えたことはなかったでしょうか。家族が病気になった時、仕事がうまくいかなかった時、また自分が身体が衰えてきて思うような働きが出来なくなった時、などなど。

でも命や健康は、神様からの恵み。今までどれだけ感謝もしないで神様からいただいた恵みを無駄に使ってきたことを自分では気がついてはいない。しかし、神様はすべてをご存知で今日まで黙って支えてくださった、その恵みを思い出すことが必要なのです。

今日の聖書では、ブドウ園の農夫が、一日1デナリで雇われ、朝から時間差を持って雇われた人がいた。彼らは皆、主人から一デナリのの約束をしていたが、長時間働いた農夫から不満が出た。働く時間が少ない人と同額であることが不満であったのです。仕事が与えられ、主人の約束通りに支払われたその恵みに気がつかないのです。人生の中で元気で働ける時も、病気の時も、老いて働けなくなってっも、神様は今日と言う日の報酬は同じ恵みを与えてくださっています。生きている事、今与えられている恵みを感謝を持って受け止めて、その心を祈りの中で神様に返すことです。

不満の心で今与えられている素晴らしい時を見過ごすことがないように、神様とイエス様に従って精一杯生きていたいですね。そんなあなたを神様はきっと支えていてくださいます。苦難の時を喜びの時に変えてくださいます。信じて今日と言う日を精一杯生きてください。神様が共に居てくださることを信じて!


# by minitayori | 2017-10-14 17:43 | Trackback | Comments(0)

ルリマツリ

ルリマツリ
教会にゆくときのバス停の病院の小さな花壇に咲いていた
薄紫の清楚な花。花言葉は「同情」。びゅ院に来る人?
いや道行く人すべてへのメッセーイジ

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# by minitayori | 2017-10-14 17:38 | Trackback | Comments(0)

10月1日の聖壇の花

10月1日の聖壇の花
この日の花は誕生日に当たる人に渡された。私の妻が2日の誕生。
大きな花束を持って地下鉄に乗って帰ってきた。暑い日曜だった。

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# by minitayori | 2017-10-07 20:32 | Trackback | Comments(0)

「みにたより323」

「みにたより323」

 聖歌521番“キリストにはかえられません”

 アメリカで最も愛されているゴスペルシンガー、と言われるジョージ・ベバリー・シェーは、あの名曲“キリストにはかえられません”の作曲者でもある。2002年、九十二歳になるこの老人は、五万人の会衆を前に、“キリストにはかえられません”を力強く歌った。豊かな人生の秘訣をインタビューに答えて次のように語っている。e0191585_20182449.jpg



「私は一九〇九年、オンタリオ州のウインチェスターで生まれました。父は牧師でした。当時は六人兄弟。朝になると、母はよく、“歌いつつ歩まん”など古い聖歌を歌って子どもたちを起こすのです。ですから、讃美が生活の中に自然に溶け込み、私は本当に聖歌が好きな子どもになっていました。     sある日曜の朝、私の机の上に一編の詩が置かれていました。ピアノの前に座った瞬間、あのメロディが心の中にあふれてきたのです。私が最初の一節とコーラスの部分を弾き終えた時、母が目にいっぱい涙をためて部屋に入って来て、私をしっかりと抱き締めたのです。母は、当時、二十三歳の私の信仰を心配して、この詩が私の人生に影響を及ぼしてほしいと願っていたようです。ですから、この日曜の朝に、最もふさわしいことが起こったのです。私を変えたこの一編の詩は、レア・ミラーというクリスチャンが書いたもので、母が私のために持ち帰り、机の上においてくれたものでした。“キリストにはかえられません”という詩だったのです。」

私は21歳の時に、この讃美歌に出会いました。聖書学院の学生の時、男女4人のコーラスを作り、いろいろな教会の伝道集会で奉仕をしていました。歌いつつ、何度も涙をし、新たな思いをもって神様に仕える決心を確認したものです。ぜひ皆さんも歌ってほしいと思います。


# by minitayori | 2017-10-07 20:25 | Trackback | Comments(0)

ホトトギスのつぼみ

ホトトギスのつぼみ
道端の小さな花壇にホトトギスのつぼみを見つけた。これから
寒風の秋を迎え、寒い冬を過ごすためにか、コンクリートの壁
に囲まれていた。自然の花の知恵でしょうか。初まで頑張れ!

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# by minitayori | 2017-10-07 20:23 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 10月8日 マタイ福音書18章21-35節 



108日 聖霊降臨後第18主日 マタイによる福音書1821-35

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18:21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」

18:22 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。

「中略」

18:33 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』

18:35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。

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「礼拝に備えて」


 昔、神学校の先生から、赦すと言う言葉と、忘れると言う言葉とはよく似ていると言われました。なんとなくこの言葉が心に残っていました。ふと思い出して、スペルがうろ覚えなので、辞書を引こうと思ったが、残念ながら引っ越し段ボールの奥に入ってしまったようで見つかりません。もっともあの辞書の字は、今の私にはきっと見ることが出来ないでしょう。娘に確認して記しています。

 forgive=許す forget=忘れる・・この教えが今日の聖書の教えに深くかかわっていると思うのです。ペトロはイエス様に聞きました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と。ペトロが「七回までですか?」と聞いたのは、旧約聖書の教えに従って、最大級の忍耐の心を持って許すことを覚悟している自分を、イエス様に誉めてもらいたかったからなのかもしれません。

 しかし、イエス様は7回までですか?と問うペトロの心には、本当の赦しがない事を教えたかったのです。それは我慢をするだけで、その数を超えると7倍・8倍にして仕返しをするのが人間の心の醜さなのです。

 昔「491」と言う映画があったそうです。その意味は77倍、つまり、490回を超えた、許されざる事柄がある、と言う意味だったそうです。私は見られませんでしたが、これを聞いて思いました。許すと言う事は、本当は忘れる事ではないかと。神様は、人間の裏切りと言う罪を忘れてくださるために、そのすべてをイエス様の十字架に架けてくださいました。

 イエス様の十字架の故に、私達の全ての罪を忘れてくださったのです。
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帰って来た放蕩息子のことを考えてみてください。父の財産を使い果たし、ぼろをまとって帰ってきた息子を、父は「死んでいた息子が帰って来てくれた」と喜んだのです。これが御父、神様のお心です。この神様のお心の中に抱かれて、私達も忘れる愛を持てるようになりたいと思います。





 








# by minitayori | 2017-10-07 20:16 | Trackback | Comments(0)

彼岸花

彼岸花
近くの畑で見つけか。熊本にいたとき田んぼのあぜ道に
群生しているのを見て美しいと思った。それまではなんとなく
色合いや名前から好ましく思えなかったが、田んぼの中の群生
している花を見てから、好きになった。ふしぎな花です。

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# by minitayori | 2017-10-07 20:02 | Trackback | Comments(0)

フウセントウワタ

9月24日の池袋教会聖壇の花
フウセントウワタ
花なのか良く分からないが、花図鑑にはこのように載っていた。
花ことばは(楽しい生活)神様を心に楽しい生活をしましょう。

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# by minitayori | 2017-09-30 21:07 | Trackback | Comments(0)

「みにたより322」

「みにたより322」

 八木重吉と言う詩人の詩に「みんなもよびな」と言う詩がある。最近、特に思い出されるので紹介しよう。

「さて あかんぼは なぜに あん あん あん あん   なくんだろう? 
ほんとうに うるさいよ
  あん あん あん あん

うるさかないよ、うるさかないよ。よんでいるんだよ。かみさまをよんでいるんだよ。

みんなもよびな、あんなにしつこくよびな」

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 先年ある方から、八木重吉のご夫人のとみ子さんは、私が通っている池袋教会の会員であられた、という話を聞いて、余計に親しみを感じるようになった。池袋教会の会員であられた岡安先生の講演の中でお話されたとのこと、私はその講演会に出られなかったので、ゆっくりお話を聞きたいと思っていたが、その先生も御病気で帰天されてしまった。それはともかく、私もこの八木重吉の詩が好きで、数冊持っており時折読んでいる。

 今日紹介した「みんなもよびな」は、今、我が家に8月に生まれた孫が、しばらく一緒に住んでおり、朝に夕に、そして真夜中でも、遠慮なく泣き声をあげている、という現実の中で、思いだしたものである。

 腕の中で涙を浮かべて泣いている幼子は、お乳が欲しいのか、おしめを替えて欲しいのか、ともかく心の願いを訴えて全身で泣いている。

あんなに熱心に、神様に心の飢えを訴えているだろうか。心の願いを正直に求めているだろうか。幼子の泣き顔に、そう問いかけられているような気がした。


# by minitayori | 2017-09-30 20:58 | Trackback | Comments(0)

カランコエ

カランコエ
道路沿えにある小さな花壇に咲いていた花。もっと
きれいだそうだが時期を過ぎたか、少し色が落ちていた。
それでも今が盛りと咲いていた。
その時々、最後まで今が盛りであるはず。
今を精いっぱい生きていきたい。
花ことばは「おおらかな愛」どんな愛なのだろう

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# by minitayori | 2017-09-30 20:46 | Trackback | Comments(0)

「礼拝に備えて」10月1日 聖霊降臨後17主日 マタイ福音書18章15-20節

101日 聖霊降臨後17主日 マタイによる福音書1815-20

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◆兄弟の忠告

18:15 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。

18:16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。

18:17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。

18:18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。

18:19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。

18:20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

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「礼拝に備えて」

 教会に与えられている職務と言おうか権限は大きい。以前、教会に遣わされた牧師が一国一城の主になったようだと言われた時期があった。戦国時代でいえば一国一城の主は、委ねられた国土とそこにいる民のために命を賭して守る者であった。民に仕える者であった。しかしある時期から、国や民から富を搾取して、自分の栄華の道を歩み始めた。一部の人であったろうが。私が神学校に入って、最初に遣わされた教会の老牧師が、しばしば神学生であった私を食事に招いてくれた。インスタントラーメンがほとんどだったが、その都度に語られる言葉は、それからの私の人生の中で大きな力となった。

「牧師は仕える者、魂の救いのために生涯をかけて仕える者となれ。」等々。この教会を離れる時、面白い事を言われた。「信徒を信用してはいけない、友達の様に思ってはいけない。自分にゆだねられた羊として、イエス様にならってどこまでも愛すること、これにつきる」と教えられた。

 それからもうひとつ、「転任をして教会を離れたら、元の教会に顔を出してはいけない。五年、出来れば十年は顔を出してはいけない。」この意味は、当時はよくわからなかったが、次第に理解できるようになった。「信徒の方々は、長い牧会のよしみで前任者にいろいろ相談に行く。前任の牧師はよくわかっているから、新任の牧師より適切なアドバイスが出来る。すると新任の牧師と信徒の方々との距離が縮まらないで、教会に問題が起きることがある」と言う事だろう。

 私自身は信徒の方の声は、「称賛」よりも「非難」の中に、神様の忠告があると思ってきた。非難する心が共に祈る心に代わり、共に神様の愛を伝えて行く仲間となる。その幸を数え切れないほど経験させていただいた。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」愛の祈り、人の救いとなる祈りと行いが出来る様な教会でありたいと願っている。

 

# by minitayori | 2017-09-30 20:38 | Trackback | Comments(0)

紅葉?

紅葉?
もみじではないが裏庭の木の葉が紅葉していた。たぶんバラの
この葉だと思うが、紅葉を見ると秋を思い出される。

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# by minitayori | 2017-09-30 20:32 | Trackback | Comments(0)

池袋教会の聖壇の花


池袋教会の聖壇の花
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# by minitayori | 2017-09-23 22:09 | Trackback | Comments(0)

「みにたより320」

「みにたより321」

 今日の社会の最大の病気は、ハンセン氏病でも結核でもなく、心の病、自分はいてもいなくてもいい、だれもかまってくれない、みんなから見捨てられていると感ずることである。

また、最大の悪は、愛の足りないこと、神からくるような愛の足りないこと、自分のすぐ近くに住んでいる人が、搾取や、権力の腐敗や、貧しさや、病気におかされていても無関心でいること。

「病気の人、苦しんでいる人にとっては、すべての人がいたわりと慰めの天使でありますように・・・」(マザーテレサの語録)

 なぜか今日はこの詩を思い出した。詩と言うよりもマザーテレサの語録の中の一節だが、何冊か持っていたので、読みなおそうと思ったが、すでに誰かの手に渡ってしまっているようで見つからなかった。私が伝道師の頃は、食費をけずって信仰書を買った。神学校の時には、アルバイトで得たわずかなお金を持って、神田の古本屋めぐりをしたものだ。当時は日本語で書かれたキリスト教書籍が少なかったから。牧師になって、少しの小遣いを貰うと、キリスト教書店に出かけてやっと出始めた本を買い集めた。転勤のたびに処分しそうになったが、これまで大切に持ってきた。
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難しい本よりも、信徒向けに書かれた本によって私は信仰を養われ、その喜びを礼拝で語って来た。この本もその中の一冊だ。繰り返し読んで、黄ばんでぼろぼろになるほどの本もあった。その大半は最後の任地を去る時に、信徒の方々に貰っていただいた。時々あの本をもう一度読んで、教えを請いたい、初心に帰って学びたいと思う事もある。それでも心打たれた言葉は、書き留めておいた物が少し残っているので、読み返し、信仰の初心に帰っている。信仰生活の折々に、自分を見つめ直してみるのも良い事です。老いてくると、とても懐かしく、神様の深く貴い導きを感じます。

 

 


# by minitayori | 2017-09-23 22:05 | Trackback | Comments(0)

カーネーション?

カーネーション?
クロッカスの咲いていた雑草の生い茂る中に咲いていた。
花を見た限りにはカーネーションしかもい浮かばなかった

静かな荘厳さというか懸命に咲いている花の真剣さようなも
のを感じた。

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# by minitayori | 2017-09-23 21:55 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 9月24日  マタイ福音書18章1-14節

924日 聖霊降臨後16主日 マタイによる福音書181-14

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18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。:2 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、:3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。:4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。:5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

◆「迷い出た羊」のたとえ

18:10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。

18:11 人の子は、失われたものを救うために来た。

18:12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。:14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

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「礼拝に備えて」

 ここでイエス様は、上に立つ人々がいつも心得ておかなければならない事を、弟子達に教えている。いやそれは世界のすべての指導者、上に立つ者へのイエス様の教えとして受け止めなければならないと思う。

 世界の国々が、弱者の事を忘れたかのような政治を行い、自国の人間以外は人ではないように傲慢に振る舞う姿も見られる。日本でも「仕事人」内閣が誕生したのに、何もしないうちに国会(衆議院)を解散するといううわさがあり、国民の命をゆだねた国会議員達は、浮足立って、政治の空白が生まれつつある。また年金の操作ミスで多くの人に年金が支払われず、すでに亡くなった方も多くいると言う。

 イエス様は弟子たちへの心得として、一番弱いと考えられていた幼子を例えにあげて、自らを低くし幼子の様な心で人に接し、また幼子(弱者)を常に宝として受け止めるようにと弟子達に言われた。

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 善い羊飼いは、迷子になった小さな羊を探して、見つけるまで探しに行くと言われた。残された99匹の羊と比べれば、一匹の小羊は小さな価値しかないかもしれない。しかし、何もできなくても神様はその存在を貴いものとして見つめていてくださる。

 何が出来るかではなく、ただその存在が尊いと言う事を、私達も常に自身に対しても他者に対しても持っていたいと思う。


# by minitayori | 2017-09-23 21:46 | Trackback | Comments(0)

クロッカス

クロッカス
裏の庭にも道端にも花がすくなった。雑草の一角にひっそりと
咲いていた白い清楚な感じの花でした。
クロッカスに似ていますが?

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# by minitayori | 2017-09-23 21:38 | Trackback | Comments(0)

月10日の池袋教会のっ聖壇の花

9月10日の池袋教会のっ聖壇の花
いろいろな意味が込められています。祈りとともに。

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# by minitayori | 2017-09-16 22:07 | Trackback | Comments(0)

「みにたより320」

「みにたより320」

「みにたより」も320回になりました。私が牧師になって、小石川教会に就任してから始めた「みにたより」ですが、飯田教会、熊本教会と続いて、1900回余となりました。引退してからも、区切りのよい時までと、2000回まで頑張りました。その後ブログに変更して、礼拝に参加できない方々には、23回まとめて送付しています。

読んでくださる方々がいて、今までに25000人を超えていることになります。私自身は目がかすみ、指先も動きが悪くなって、間違いも多くなりました。今は家内が校正を助けてくれていますが、いつまで続けることが出来るだろうかと、弱気になることがあります。その様な弱気になった時、なぜか、読者の方から励ましの手紙やメールをいただくのです。

自分のためではなく、待っていてくださる方々のためと思い続けています。ブログはわたしの生きている証、喜びとなるようにと考えています。責任逃れのような気もしますが、お許しください。

   『訪ねるキリスト』

見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。 〈ヨハネの黙示録三・二〇〉

クリスチャンの詩人の河野進という牧師が書いた『今あなたは微笑んでいますか』という詩集があります。その中の『訪ねられる』という詩を紹介します。

訪ねられる  

主イエスは毎日一軒一軒訪ねられる。

あなたがたは今、信仰の家にいますか

あなたがたは今、祈りの家にいますか

あなたがたは今、喜びの家にいますか

あなたがたは今、奉仕の家にいますか

あなたがたは今、伝道の家にいますか

あなたがたは今、感謝の家にいますか

あなたがたは今、希望の家にいますか

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 *主よ私の所に今、おいで下さい。心を開けてお待ちしてい
ます。

 


# by minitayori | 2017-09-16 22:03 | Trackback | Comments(0)

オンシジウム

オンシジウム
聖壇の花に添えていけられった花。メインではないがこの花の
花ことばは「神秘的な愛」神様の深い愛のお心を教えています。

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# by minitayori | 2017-09-16 21:54 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 9月17日 聖霊降臨後第15主日 マタイ福音書16章13-20節

9月17日 聖霊降臨後第15主日 マタイ福音書1613-20

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16:13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。:14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます

16:15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」:16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。:17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。:18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。

16:19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

16:20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

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「礼拝に備えて」

イエス様は、旅の途中で弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と、お尋ねになりました。弟子たちは「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と答えました。

イエス様は人々の評判を気にされたのでしょうか。そうではありません。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という、弟子たちへの質問の答えを聴くために、お尋ねになったのではないでしょうか。

この質問は弟子たちへの質問であると同時に、今教会の信徒である私達への質問でもあるのです。私達は日常の生活の中で、自信を無くしたり、様々な問題にぶつかった時に、イエス様を忘れて自分だけですべてを解決しなければならないように思ってしまうのです。頭の中では、イエス様を「わたしの主」とは思っていても、日々の様々な問題の中には居てくださらないように思ってしまうのです。そしてイエス様不在の思いわずらいの中で、日常の問題に直面して悩んでいます。

弟子達も、同じような経験をするであろうと思われたイエス様は、その様な時にこそ、イエス様があなたにとってどんなに大切な方であり、あなたのことをどんなに心にかけていてくださるかを、考えて欲しかったのです。神様は放蕩息子の帰りを、「死んでいたのに生き返った」と喜んで迎えてくださる方なのです。またいなくなった小羊を、どこまでも探し出してくださる方なのです。

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私達はどんな時にも、「あなたこそ生ける神の子、私の救い主です」と、告白できる信仰を持って生きて行きましょう。




# by minitayori | 2017-09-16 21:48 | Trackback | Comments(0)

トルコ桔梗

トルコ桔梗
いろいろな色のトルコ桔梗がありますね。図鑑で探すのは大変。
一つ言えることは「みんな違って、みんな良い!」

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# by minitayori | 2017-09-16 21:27 | Trackback | Comments(0)

9月3日の聖壇の花

9月3日の聖壇の花
カーネーションを中心に飾られた。赤白だけでなくいろいろな種類があることを知りました。赤の花ことばは(母の愛)

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# by minitayori | 2017-09-08 22:40 | Trackback | Comments(0)

「みにたより319」


「みにたより319」


 今年は、私達の教会の大先輩、マルティン・ルターの宗教改革500周年を迎えて、様々な行事が計画されている。ルターは沢山の書物を残したが、大半は彼の講義の受講者によるノートから生まれたものだと言われる。最近になってたびたび耳にする言葉がある。

その言葉とは「マルティン・ルターはかつてこう言っています。『たとえ明日この世界が滅びることを知っていても、それにもかかわらず、私は自分のリンゴの木を植えるだろう』」というものである。

 この言葉は、将来に対する希望が消えつつあるように見えるときに、人々になお可能性があることを、希望があることを強調し、勇気を与えた。私はこの言葉を聴いたとき、すぐに神様のお心とイエス・キリストの出来事を思った。天地宇宙を創造された神は、イスラエルをはじめとして多くの人々に愛のみ手を差し伸べた。ある時には指導者を与え、また、神の聖なるご意志を語る預言者を立たしめた。

ある時には優しく、ある時には厳しく。にもかかわらず人間は、神のみ旨を痛めるような行為をたびたび繰り返してきた。それにもかかわらず、神は神の御子イエス・キリストをこの世に与えられた。ヨハネ3:16節に、「神はそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。み子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と記されている。

今私達は、かつてない危機に直面している。愚かな一人の独裁者のために、世界中が戦争の危機の中に置かれている。戦争の醜さ、怖さを知らない世代の増えた中で、その危険はいっそう増しつつあるような気がする。

 しかし、信仰者として今私が考えるべきことは、神は人間がどのような状況であったとしても、「罪深さにおぼれていても」人間を愛されたことである。神は人間がキリストにあって新たに生きる事を願って、リンゴの木ならぬ「福音」を人間に植えてくださったのだ。

 マザーテレサは、今自分が手を差し伸べている人が、どのような反応を示そうがお構いなく、キリストの愛を注いだ。明日をも知れぬ病める人に、それこそリンゴの木ーーキリストーー神の愛ーーを植えた。

 私たちの教会に託されていることはなんだろう。時が良くても悪くても、福音を述べ伝える、未来のためにリンゴの木を植えること、この社会の人々のキリストにある魂の救いを願い続けること、なのではないだろうか。神様の創られたこの地球を美しく保ちたい。
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 しかし、それでも人間の英知を集めて、戦争の愚かさを繰り返してはならないと切に願う。







# by minitayori | 2017-09-08 22:33 | Trackback | Comments(0)

百日紅の花

百日紅の花
整形病院の帰り道には、朝顔や名前の知らない花などが時々
咲いているが、朝顔は私が通るころには枯れてしまい花がない
とさみしく思っていたら、百日紅の花がきれいに咲いていた。

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# by minitayori | 2017-09-08 22:23 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 9月10日  マタイ福音書15章21-28節

9月10日  マタイによる福音書152128
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15:21 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。
15:22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。:23 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」:24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。:25 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。:26 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、:27女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
15:28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

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「礼拝に備えて」
 今日の日課ではカナンの婦人のお話が中心になっている。弟子達とイエス様が地方を回って神様のお心を伝えている時、一人の婦人が近寄って来て「わたしを助けてください」と願った。娘が悪霊につかれて苦しんでいた。家族に病を持つ、心に病、障害を持っている人の生活は、普通の人には想像を超える苦しみと不安を持っている。その心の苦しみを持って教会の門をたたく人は多い。その時、教会はどんな対応をするだろうか。今日の聖書ではそのことが問われているような気がする。
 弟子たちは追い払ってください!と頼む。イエス様は「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。ここだけ読んでいると、イエス様は何と非情な方だろうと思ってしまう。しかし、この婦人はそれでもひるむことなく、イエス様にすがりつく。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」イエス様はこの婦人の信仰をよしとされた。この婦人の信仰を引き出された、と言うべきかもしれない。
 昔、伝道師の頃、初めての教会、沼津教会で洗礼準備会を持った。20歳の若さであったが、宣教師もいなくなってしまった状態の中で、自分が洗礼の準備として学んだ小教理問答書を、一生懸命一緒に学んだ。4人の若い女性が洗礼を決心し、宣教師の赴任を待って洗礼式を行った。
 その後も、一緒に聖書の勉強をしたいと言うので、学びの会を作った。この学びの会に、女性達は話合って名前を付けたいと言ってきた。そして選ばれたのが「子犬の会」。飢えた子犬のように、主人の食卓から落ちるみ言を求め続ける信仰を持ちたい、と言う意味であると説明してくれた。
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 その話を聞いて私も感動し、自分も一生子犬の会の一員でいたいと思ってきた。みことばを思い続ける、求め続ける、飢えた子犬のように。今もそのように生きようと改めて思う。もう50数年も前の話だが、彼女たちの信仰が続いていてくれることを祈りたい。
















# by minitayori | 2017-09-08 22:13 | Trackback | Comments(0)

かぼちゃの花

かぼちゃの花
裏庭のわずかな畑?に、かぼちゃの木が一本、花が一輪。

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# by minitayori | 2017-09-08 21:50 | Trackback | Comments(0)