16日復活の礼拝の聖壇の花

16日イースター礼拝の聖壇の花
聖壇の色が白になり、花も苦しみを表す紫から白に変わりました。
白は栄光の色。復活の朝、弟子たちが墓で見たイエスさまが葬りに
使われた白い布。山の上でモーセとエリヤと話した時の白く輝く衣。
その時、イエスさまはエルサレムでの受難を語られたという

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# by minitayori | 2017-04-22 22:18 | Trackback | Comments(0)

「みにたより300」

「みにたより300」

ブログで始めた「みにたより」も、今回で300回になりました。小石川教会で就任3週間目からはがき通信として始めてからですと、2300回目となります。途中で何回目か数え間違えたこともありました。目が悪くなって、少しづつ限界が見えてきましたのでどうしたものかと考えていると、誰かから励ましの手紙をいただいたり、「先生、ブログやめるとボケるから、やめたらだめよ!」とあたたかいお言葉をいただいたりして、今日まで来ました。ここまできたら、画面が見えなくなるまで頑張りましょうか。その前に文章が書けなくなるかもしれませんが、自分への挑戦ですね。

  今日も散歩に出かけました。曇っていましたが、前日公園で見たハナミズキの写真が撮りたくて出かけました。そうしたらいろいろな花が咲いていました。ポピーが自動販売機の横に小さく積もった吹きだまりの土の中に咲いていました。

初めてのお宅の庭に大きな白いクレマチスが咲いていました。菊の花も咲いています。皆、春を待ちかねていたようです。今日は残念ながら、小さなカメラだけ持って行ったので、きれいに撮ることができませんでした。きちっと焦点を合わせて写さないと花がかわいそう。またカメラ片手に晴れた日に行ってきます。

庭の花や植木鉢の花と違って、道端の花は特にかわいらしく、美しく思えます。置かれた場所で、誰に見てもらえなくても文句も言わないで、一生懸命咲いている、そんな花のいじらしさに心打たれるのです。e0191585_22035507.gif



# by minitayori | 2017-04-22 22:05 | Trackback | Comments(0)

白いクレマチス

真っ白のクレマチス
花ことばは「美しい心」。
イエス様に清められた美しい心いつも
持っていたいですね

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# by minitayori | 2017-04-22 21:58 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 4月23日 復活後第1主日 ヨハネによる福音書20章19-23節

423日 復活後第1主日 ヨハネによる福音書2019-23

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20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。

20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

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「礼拝に備えて」

 復活の日の夕方、イエス様を見捨てた弟子たちは、自分たちも捕まるのではないかと恐れて、多分、イエス様と最後の晩餐をした部屋に閉じこもり、戸のカギを閉めて震えていた。

 イエス様が復活された、というマリアの声を聞いて墓まで行ったが、イエス様は確かにいなかった。墓の中のイエス様と言う支柱を失って、一層の恐れが弟子たちの心に広がったのではないだろうか。さらに、イエス様の弟子達には、ご受難の前に「イエス様が死ぬのなら自分達も死にます」といったのに、イエス様を捨てて逃げた、自分の言葉と行為への自責の念があったのではないだろうか。

 家の戸を閉ざし、心の戸を閉ざし、恐れに震えていた弟子たちの所に、復活の日の夕刻イエス様は来られた。そして、弟子たちに声を掛けられた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 福音の証人として弟子たちに立ち直ってほしい。イエス様の願いが伝わってくる。

 弟子たちは、十字架の下にいた婦人たちから、イエス様の十字架上の最後の言葉を聞いたのだろう。それは「父よ。彼らをお許し下さい。彼らは自分が何をしているのか知らないのですから。」それはイエス様を処刑した兵士たちへの祈りだけだろうか、一緒にかけられた十字架の罪人たちのためだったのだろうか。いやそうではない。イエス様を捨てた弟子たちのための祈りであり、イエス様を銀貨50枚で売ったユダへの祈りでもあり、イエス様の道から常に迷い出続ける、私達への祈りでもあるのだ。この祈りの尊さを知った時の弟子たちの心を思うと、私の心も震える。
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イエス様は今も、私達がイエス様からはなれそうな恐怖や不安の中にいるとき、私の、あなたの近くに来て、「安かれ!」と語りかけてくださるのです。イエス様のお声を聞き逃さないようにしてください。


長年私の牧師室の書斎に飾ってあったイエス様の横顔。私の心を見続けていて下さいました。


# by minitayori | 2017-04-22 21:53 | Trackback | Comments(0)

ハナミズキ

ハナミズキ
きれいに咲いていたのですが曇り空で花がよく見えません。
晴れた日に、またきれいに映してお目にかけます。
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# by minitayori | 2017-04-22 21:41 | Trackback | Comments(0)

桜並木のトンネル道路

光が丘公園の桜並木
桜のトンネルのように見える。この道はどこに続いているのだろうか。
明るい未来へ続いていてくれるといいなーと思った。

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# by minitayori | 2017-04-15 17:58 | Trackback | Comments(0)

「みにたより299」

「みにたより299」

 先日、車で通過して見てきた、近くの公園(光が丘)の桜を、ゆっくり見たいと思って出かけた。歩いていける距離だが、弱くなった足腰の痛みを考え、バスで出かけた。

 バスは満員であったが、目の前のいすに座っていたご婦人が、杖をついてよろよろしながら立っている姿を見かねたのか、席を譲ってくれた。結構ですとお断りしようと思ったが、転んでからでは遅いと思ってご好意に甘えた。このバスは地域循環の公共バスで、小形のバスなので、小さなカーブでも立っていると危ない。申し訳ないと思った。この人も並んでやっと座っただろうに・・・。次のバス停で隣が空いたので、その人は笑顔を私に向けて席に着いた。私はありがとう!と小声で言って目的地に行った。

桜もきれいだった。もう散り始めてはいたが、新緑の葉がまばらに見えて、それもまた美しかった。青空もきれいだった。私の心も晴天だった。足と眼が弱くなったので、外に出るのが怖くなってきている。これではいけないと思うので、あまり人のいない所を選んで散歩して、足腰を強めていきたいと思っている。生きている限り、神様からどのような働きを示されるかわからないので、何とかお答えできるように、日々鍛錬して備えていたいと思っています。

アパートの裏庭にツツジが咲き始めた。寒い間は花が少なかったので寂しかったが、チューリップやサツキ、芝桜が一斉に咲き始めて、華やかになってきた。春を飛び越して夏が来そうな予報だが、折角の春の花、ゆっくりと咲かせてあげたい。また楽しみたいですね。e0191585_17372721.gif



# by minitayori | 2017-04-15 17:39 | Trackback | Comments(0)

キリエ 復活の朝

復活の朝
天使たちが

「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」

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# by minitayori | 2017-04-15 17:32 | Trackback | Comments(0)

4月16日 復活祭 ヨハネ福音書 20章1-18「復活の朝」


4月16日 復活祭 ヨハネ福音書 20章1-18

e0191585_16025858.jpg20:1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。:2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」

20:6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。:7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。:8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。:9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。 20:10 それから、この弟子たちは家に帰って行った。

20:11 マリアは墓の外に立って泣いていた。おられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」:16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。:17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」

20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。


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「礼拝に備えて」


 イエス様の復活の出来事は、私たち人間の理解を超えた出来事です。聖書はそのことを弟子たちの様子を通して正直に書いています。今日の日課の出来事の中で気になるところがあります。それは復活の最初の証人に選ばれたのがマグダラのマリアであったことです。

当時、女と子供の証言は裁判では採用されませんでした。それくらい低い地位にあるものと考えられていた人を、イエス様は大切な復活の証言者として選ばれたのです。実際、マリアの復活の証言を聞いた弟子たちは、信じようとはしませんでした。弟子たちはイエス様の姿が墓の中にないことは見て、「いない」ことは信じました。しかし、イエス様が約束された「復活」については、理解できなかったのです。理解しがたい事柄であったからです。

しかし、マリアは違いました。復活は彼女の理解を超えることでしたが、イエス様を愛し、「イエス様のご遺体を自分で引き取りたい」と願い出ます。イエス様への愛と信頼、涙を持って、彼女は自分のできることをしたいと願いました。その心の中で、復活の主に出会うことができたのです。

イエス様の復活は神様の業です。人間の小さな理解の中にとどまるものではありません。イエス様が、私たちのためになしてくださった全てのことの中に、感謝と共に身を置いたときに、初めて受け止めることができるものです。十字架は私のため、イエス様の死も復活も、それは私たちへの神様からの愛のプレゼントなのです。理解ではなく、感謝を持って受け、神様に愛されていることを喜んで日々をすごしましょう。

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# by minitayori | 2017-04-15 17:23 | Trackback | Comments(0)

キリエによる受難

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〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕
  ルカ福音書23:34



  イエスは大声で叫ばれた。

「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。ルカ福音書23:46


# by minitayori | 2017-04-15 17:05 | Trackback | Comments(0)

私の通う池袋教会の4月2日の聖壇の花

私の通う池袋教会の4月2日の聖壇の花
紫はスイートピー、花ことばは「優しい思い出」イエス様の
ご生涯を思い出すように、とのメッセージでしょうか。
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# by minitayori | 2017-04-08 17:10 | Trackback | Comments(0)

「みにたより298」

「みにたより298」

 水曜日は私のリハビリの日だが、幸か不幸か備えつけの機械が一つ壊れて時間ができたので、職員の粋な計らいで、近くの公園にある桜のトンネルをドライブして帰ることになった。急な変更で、残念ながらカメラを持っていなかったので、満開の桜のトンネルを写すことができなかった。

 次の日は通院の日で、帰りに桜並木を見に行こうと思ったが、病院から駅までが、春嵐のために帽子は飛ぶは、マスクまで風で飛びそうになるという初めての経験をして、慌てて帰ってきた。金曜日は雨と言う予報だったが、午後は、風は強いものの晴天だった。桜のトンネルを写しに出かけたかったが、リハビリと通院で腰の痛さが限界だったので、近くの公園に散歩に行って来た。そんな私を慰めてくれるように、公園の真ん中に一本の桜の木が満開になっていた。

 満開の桜を、美しい青空を背景に写すという事は、写真を撮る者にとっては夢。以前にいた所に桜の名所があった。ある日、曇空だったが、他に時間が取れなかったので、友人と桜見物に行った。満開の桜はきれいに見えたが、写真に写してみると、花は曇天の中に溶け込んで、黒い幹だけが写っていた。雨が降ってもライトアップされた桜は見えるが、青空を背景に写した桜はまた格別です。

 今週は良いプレゼントをいただいた。来週は花吹雪だろうが、もう一度公園に行って、ブランコにでも乗りながら桜を楽しんでこようと思っている。近くにいろいろな花が咲き始めた。カメラ片手の散歩に精を出して、健康につとめます。e0191585_16243630.jpg


 あなたの心に喜びの花が満開になりますように。いやこれからも咲き続けますように。


# by minitayori | 2017-04-08 17:04 | Trackback | Comments(0)

道端のスミレ

スミレ
公園に行っての帰り、満開の桜の満足して帰ってきたら、
アパートの入口の壁にくっつくように菫の花が咲いていた。
風に吹かれて集まった少しの土で一生懸命咲いている小さな
花に見つめられているように思えた。
おかれた場所で、一生懸命咲いている花がいじらしかった。

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# by minitayori | 2017-04-08 17:01 | Trackback | Comments(0)

例は尾に備えて 4月9日 枝の主日 マタイ福音書21章1-11節

49日 枝の主日 マタイによる福音書211-11

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21:1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。:3 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」:4 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。:5 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」

21:6 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、:7 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。:8 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。:9 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」:10 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。:11 そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。

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「礼拝に備えて」

 聖書の個所を読むとき、その時々のイエス様のお心を考えることにしている。特に聖書のお話を手話に変えるようになって、言葉の変換ではなく、自分が感じ取った出来事の、心を伝えるというように心がけてきた。

 今週の聖書にもいろいろ気にかかることがある。一つは「子どものロバ」に乗って入城されたこと。弟子たちがその上に自分の上着をかけ、群衆が自分の上着を道に敷いて、イエス様はその上を歩いて行かれたこと。

 群衆が「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と叫んだこと。

 まず、こどものロバ、誰も乗ったことがないロバ。この言葉の裏には、神様へのお捧げものの儀式がある。イエス様はご自身を神様への捧げもの、人々の救いのために神様に捧げる犠牲として捧げられるために、誰も乗ったことのないロバに乗ってエルサレムに入られたのだ。

 それだけではなく、ロバの子は背が低くイエス様がまたがってエルサレムに入られ、群衆の中を歩かれると、群衆と同じ目線になったのではないかと思われる。馬に乗って上から見下ろす救い主ではなく、群衆と同じ目線に立たれる救い主として、今も私達の所に来てくださる。また、群衆の汗と涙の染みついた上着の上にまたがり、群衆の服を敷いた道を歩まれた。イエス様は、私達の汗と苦しみと涙と悲しみのただ中にいてくださるのだ。何と心強いことだろうか。

また、群衆は「ダビデの子ホサナ!」と、強力な王である救い主の到来を喜んでいた。しかし、イエス様はその群衆の心の中にある叫び、あと数時間で、イエス様を「十字架につけよ!」と叫ぶであろう人間の弱さを知っておられた。その群衆を見つめつつ、そのただ中を歩かれたのだ。弟子達もやがて、イエス様を「知らない!」と言い、イエス様を裏切ってしまう。弟子のひとりユダは、銀貨30枚でイエス様を敵の手に売ってしまった。イエス様は何と言う孤独の中におられたのだろうか。それでもイエス様は最後まで群衆を、あなたを愛し続けてくださった。今日の枝の主日(受難主日)、このことを深く覚えたい。


# by minitayori | 2017-04-08 16:55 | Trackback | Comments(0)

近くの公園の桜

近くの公園にあった満開の桜
桜は青空に映えますね

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# by minitayori | 2017-04-08 16:50 | Trackback | Comments(0)

3月26日 の池袋教会聖壇の花


3月26日の池袋教会ッ聖断の花



3月26日 の池袋教会聖壇の花
ボケの花を中心に
ボケはバラ科の花で、実が瓜に似ている。木になる瓜で「木瓜」と
呼ばれていたものが「ボケ」に転読したともいわれる。悪い意味で言
われたものではないようで安心しました。紫の花の名前も教えていただ
きましたが、すっかり忘れてしまいました。やはりボケでしょうか。


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# by minitayori | 2017-04-01 18:20 | Trackback | Comments(0)

「みにたより297」

「みにたより297」

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 寒暖の差の激しさにもかかわらず、桜の花は満開に近づいてきたようです。近くを歩いていたら、桜のつぼみも膨らんでいましたし、八重椿も雨にぬれて寒そうでしたが、力を得たように元気に咲いていました。いつもお花の写真でお世話になっている庭のあるお宅の前に、建築の告示の看板が出ていました。平屋の家で懐かしさを感じ、小さな庭に、手入れされたきれいな花が咲いていたが、間もなく建築でなくなってしまうのでしょう。三階建の集合住宅になるらしいのだが、庭は残らないだろうなー。

 壊される前に写真を撮らしていただこうか。クロッカス、ミヤコワスレ、蝋梅等々立派な花が咲いていたが、寂しくなります。そんなことを思っていたら、長女が自分で丹精込めて育てたクリスマスローズの花束を持ってきてくれました。鉢植えの花を切り取ってくれたのです。美しいうちに何枚か写真に写しましたので紹介します。

 嬉しい時に花を見れば、花は優しく微笑んでくれ

 悲しい時に花を見れば、花は共に悲しんでくれる。

 寂しい時に花を見れば、花はにこやかに励ましてくれる。

 カメラをもって散歩しながら、花と語り合い、慰められている日々も、最近は足腰が弱くなって近くしか行けなくなりましたが、遠くの方で、待っているからと呼びかけてくれる声が聞こえるような気がするので、元気を出してまたカメラを肩に散歩に出ます。

 神様に生かされている小さな花に、勇気を貰いに行きたいと思って出かけます。

桜の花一つ一つ、それぞれ表情があります。満開の花を見ていると、昔幼稚園の運動会で、はつらつとしていた園児一人一人の顔を思い出します。

 「みんな違って、みんないい!」あなたも神様の目から見れば「わたしの愛する子!」なのです。今を喜んで生きていきましょう。


# by minitayori | 2017-04-01 18:02 | Trackback | Comments(0)

黒色のクリスマスローズ

黒色のクリスマスローズ
めずらし色だそうです。品種改良でできたということで、少し他の色より
ひ弱な感じがします。もう少し鮮明に写せるとよかったのですが、花は
一生懸命咲いていてくれ、カメラも友人から頂いたよいカメラなのですが
技術の方が今一つ足りなかったようで申し訳ない。花言葉は「共に楽しむ」

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# by minitayori | 2017-04-01 17:52 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 4月2日 ヨハネ福音書11章17-53節

4月2日 四旬節第5主日 ヨハネによる福音書1117-53

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11:17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。:18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。:19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。:21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。:22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」

11:23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、:24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」・・・・
 略

11:53 この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。

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「礼拝に備えて」

 1週間に一度、通所リハビリで、機能訓練のために11種類のマシーンを使って身体を動かしてきている。いつもは動かさない身体を動かすので、最初は関節が音を立てたり、筋肉が悲鳴を上げたりしている。しかし、1時間もたつと体が慣れてくるのか、少し楽しくなる。それでも3時間くらいになると、息切れがして来て、休息やむなしと自分で決めて休んでいる。

 準備体操の頃から息切れがすることもあるが、中には楽しみにしているマシーンもある。それはそのマシーンの近くに、シニアのためのクイズの本があるからだ。

サブタイトルに「認知症予防のために」と書いてあったが、結構面白い。その冒頭の所にシニアのための十カ条と言うのがあって、何回か全部覚えようと努力しているのだが、家に着くころにはすっかり忘れてしまっている。やはり認知症予防の本なのだな、とつい思ってしまう。

 今日の準備をしていて、その中の一つに「常識と非常識」とがあることはよく知られている。しかし、多くの人はもう一つ「未常識」があるのを忘れている、という項目があったのを思い出した。常識も非常識も人間の知恵や知識、経験の中から作りだされている人間と人間との間での話になる。しかし、私達は人間の常識を超えた神様の世界があることを心に覚えておかなければならない。

 今日の日課では、イエス様がラザロを生き返らせた出来事が記され、その周りに、信じたマルタとマリヤ、ユダヤや人々、そして、イエス様の力を恐れてイエス様を殺そうと考えたファリサイ人のお話が記されてる。未常識な出来事を、喜んで神の業として受け入れた人と、自分達の名誉のために、未常識な力を否定しようとした人々の姿が記されている。

 私はどちらに入っているだろうか。未常識、人の思いを超えた力にゆだねて生きているだろうか。それとも自分の身におこる出来事を、自分の常識の中で仕分けして生きているだろうか。未常識の出来ごとに、全てを支配される神様のお力にゆだねて生きる生き方をしていきたいと願っている。

 今私の横では、マタイ受難曲の音楽が流れている。不勉強で今の音楽がイエス様のご生涯のどの辺の出来ごとを語っているのか分からないが、この音楽がイエス様のご生涯に心を向けてくれていることは事実です。

 ヨハネ11:40イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。

 マルタに言われたイエス様のお言葉をいつも心に留めて、望みをもって生きて行きたものです。


# by minitayori | 2017-04-01 17:41 | Trackback | Comments(0)

白いクリスマスローズ

白色のクリスマスローズ
先日池袋で世界の花展覧会をしていたが、人込みを歩くのがつらいので
あきらめていた。クリスマスローズの特集ということで残念に思ってい
たが、近くの長女の家で鉢植えに咲いた花束を持ってきてくれた。赤、
白、紫、そして黒いクリスマスローズも入っていた。みな仲良くです。


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# by minitayori | 2017-04-01 17:31 | Trackback | Comments(0)

19日の聖壇の花(八重のトルコ桔梗)


19日の聖壇の花
八重のトルコキキョウの紫が美しく礼拝を整えていました。
紫はイエス様が鞭打たれ、茨の冠をかぶせられた後。紫の衣を着せられ
ユダヤ人の王、と嘲笑され、十字架に向かわれたことから、イエス様の受
難を表す色と考えられています

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# by minitayori | 2017-03-25 16:15 | Trackback | Comments(0)

「みにたより396」

「みにたより396」

河野進牧師の詩に「ぞうきん」と言う詩があります。

「ぞうきん」

困ったときに思い出され

用がすめば

すぐ忘れられる

ぞうきん

台所のすみに小さくなり

酬いを知らず

朝も夜も喜んで仕えるe0191585_15172343.jpg

ぞうきんに

 近頃やけにこの詩が頭をよぎります。自分がまだこの境地に至っていないことを思い、悲しくなることもあります。親しく語る人も少なくなり、手紙も電話もなくなり、それに代わって散歩の中で草花と語り合い、空の雲を見上げて、心慰められています。それでも、祈りの中で語り合えるイエス様を、身近に感じられる自分の幸せを思わされています。

そういえば昔、私が育った家には、何通りかのぞうきんがありました。それぞれに持ち場があって、仕事場の大切な台を拭くぞうきん、床を拭くぞうきん、玄関の窓ガラスを拭くぞうきん。みんな黙ってその場その場で用いられていました。どのぞうきんが貴いのではなく、用いる人と場所によって変わっていたのです。どれもぼろぼろになって絞れなくなるまで使ったものでした。当時はぞうきんでも貴重な布だったから。

 今の自分に当てはめながら、「朝も昼も、与えられた場所で、喜んで仕えるぞうきんになろう。神様が必要としてくださるのだから」と思っています。

 


# by minitayori | 2017-03-25 15:56 | Trackback | Comments(0)

イエスさまと目の不自由な人の癒し

イエスさまと目の不自由な人の癒し(キリエ)
このキリエは、イエス様の癒していただいていながら、任せきれない
人間の弱さを表しています。彼は生きるすべの杖を親指一本でつかんで
います。その弱さを聖霊の力が励まし支えて下さっています。

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# by minitayori | 2017-03-25 15:50 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 3月26日  ヨハネ福音書9章13~25節

3月26日  ヨハネ福音書9章13~25節
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9:13 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。14 イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。15 そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」

9:16 ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。

9:17 そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。

9:21 しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」

9:22 両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。

9:23 両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。

9:24 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」

9:25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」

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「礼拝に備えて」

 今日の聖書を理解するためには、どうしても障害者問題を抜きにしては考えることができません。目の見えない人が、当時の世間でどんな状況に置かれていたかです。

 「この人が目が見えなくなったのは、親が悪いのですか、それとも誰か罪を犯したのですか。」この言葉は、弟子たちがイエス様に尋ねた言葉です。同じような考え方は日本にもありました。私は自分の生活の中で体験しました。40年間の、ろう者伝道担当牧師としての働きの中でも、何度も体験しました。

 イエス様のお考えは違いました。「この人が見えなくなったのは、神様の栄光が現れるためです」とおっしゃいました。

 旧約聖書では、神にささげる物は瑕疵のないものだけと考えられていました。障害を持っているという事は満足なものではない、瑕疵のあるものと考えられて軽蔑されていたのです。

 人の一生を考えてみましょう。人生90年と考えて、誕生の最初は、食事もできず排泄も自分ではできません。人の助けなくしては生きられないのです。そして70~80歳になって身体が衰え、身体だけではなく頭の方も幼子帰りをします。貴いのは心身ともに健康な時だけだと考えれば、自分の人生の三分の一は、生きる意味がない事になってしまいます。

 その障害を取り去って、今生きていることを通して神様の栄光を表すように用いてくださる方がいる、そう思うと、体が動かなくなっても命ある限り、生きることに意味を見出すことができるのではないでしょうか。日課の目の見えない人は、「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」と、彼を蔑視する人々に答えました。

私達も、どんな状態になっても、今日の命を与えてくださった神様に感謝しながら「ただ一つ知っていることは、今生かされていることです」と、信仰と感謝をもって生きたいと思います。神様が今日の命を与え、用い、神様の栄光を表してくださいますから。


# by minitayori | 2017-03-25 15:34 | Trackback | Comments(0)

裏庭の桜

練馬は桜の開花が遅いのかな?
と思っていたら身近なところで咲いていた。アパートのyら庭に
大きな桜の古木があったが、先日庭師が入り剪定され、幹ばかりと
思っていたらたくましく咲いていました。裏庭に入れないので、
小さな望遠で写したのではっきりとは見えにくいのですが、お許しを!
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# by minitayori | 2017-03-25 15:26 | Trackback | Comments(0)

3月12日の聖壇の花


3月12日の聖壇の花
礼拝の前の静寂の中、祈りつつ真剣に花と向かい合っている。神様に
ささげる花。後ろから見ていると花と語りあいつつ活けているようだった。
その人の祈りが聞こえる。

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# by minitayori | 2017-03-18 13:27 | Trackback | Comments(0)

「みにたより395」

「みにたより395」

 最近、自分の歩き方がおかしく感じるようになった。脊柱管狭窄症と坐骨神経痛が悪化してきたのかもしれない。なんとなく右足の感覚が薄くなってきたように感じる。身体の移動で足を開いたつもりが、体重を支えるほどには動いていなくて、転倒しそうになったりする。

 これも今までの経験の中にはない新しい経験だ。知人に尋ねたら、大腿骨骨折でもすると大変だから気を付けるように言われた。その帰り道、広い通りの横断歩道の信号が赤に変わりそうになったので、走って渡ってしまった。勿論三本足だった。待っていてくれた車に手を挙げて感謝の意を表しながら渡ったが、さすがに息切れがした。こういう時は、信号を一回待つ勇気をもつことが必要であることを、改めてかみしめた。待っている自動車のためにも、自分のためにも、心の余裕をもって生きることが必要であると自戒した。自戒しつつ、卑屈にならず今と言う時を楽しめるような心をもっていたいと思う。

高齢者の中には、教会に来ても話し相手がなくて、寂しそうに帰ってゆく人もいる。イエス様に出会った喜びと、信仰にある家族に出会った喜びはあるのであろうが、自分の生きている世界を共有できる人がいたらと思いつつ、寂しく帰ってゆく人もいるのだろう。

今年亡くなられたお医者さんで、高齢になって時々しか教会に来られなくなった方がいた。この方は教会に来られるときは、高齢のご婦人たちと必ず昼食を一緒にして帰っておられた。このような配慮が必要だと思う。それは高齢者だけではなく、若い人々にも心を開いて話し合う時が、時には必要ではないかと思う。

そんなことに皆が気づく、心の豊かさのある教会になってほしいものです。e0191585_11120793.gif


# by minitayori | 2017-03-18 13:21 | Trackback | Comments(0)

キリエ イエス様とサマリアの女







イエス様とサマリアの女

女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」

イエスは言われた。
「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」


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# by minitayori | 2017-03-18 13:16 | Trackback | Comments(0)

3月19日 四旬節第3主日 福音書4章5~26節

3月19日 四旬節第3主日 福音書4章5~26節

e0191585_11131548.jpg4:5 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。

4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。

4:8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。

4:9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。


4:13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

4:15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

4:25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」 4:26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

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「礼拝に備えて」

 何年か前に、山手線に乗って渋谷に行った。車内で何気なく都留市の広告を見ていた。すると面白い広告の文字が目に入ってきた。それはひらがなで「であいであい」と書いてあるあけだった。スポンサーの名前が分からないままに、その意味を考えていた。「であいであい?」何だろうと思っていると、不思議なことに気がついた、「であいで、あい」」とも読めるのだ。

 その時渋谷について電車を降りる時に、この広告が「旅の出会い」を表現しているものとやっとわかった。しかし、自分が考えていた「出会いで、愛」と言うのもいいなとも思っていた。

 今日の日課で、イエス様はヤコブの井戸のところで、一人のサマリヤの女と出会っている。この女性は不幸を背負い、町の人々からつまはじきにされていた。通常は朝早くか、夕方涼しくなってから水を汲みに来るのにこの女性は日中、多分炎天下一人で水を汲みに来ている。人々と会いたくない、会えない事情があったのだろう。しかも聖書はサマリヤの女と記している。ユダヤ人から軽蔑されていた名前だった。

 その女性とイエス様は出会った。イスラエルにとっては歴史的に由緒あるヤコブの井戸のほとりで。イエス様はサマリアの女の人の境遇を瞬時に知り、声をかけられた。悲しみと孤独の中にいるこの女の人は、イエス様との出会いの中で、人を差別しないイエス様の愛、神様の愛をすぐに感じ取ったであろうと思われる。彼女は心の底からキリストと言われる救い主が来られることを信じ、出会いを願っていた。自らの悲しみと孤独の中でその願いは切実だったろう。イエス様は心貧しく、救い主との出会いを望む人に言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

今もあなたに語りかけておられる。苦しい時、孤独に感じる時、イエス様と「出会いで、愛。」あなたも経験してみませんか。


# by minitayori | 2017-03-18 13:11 | Trackback | Comments(0)

教会の帰りに見た河津桜

教会の帰りに見た河津桜
花の満開も過ぎているようだったが、新芽の葉が花を支えるように美しく
彩っていた。自然の織りなす美しさですね。人もかくありたい。
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# by minitayori | 2017-03-18 11:37 | Trackback | Comments(0)