次週の聖書からの短い説教です

e0191585_21131994.jpg3月21 日(日)
「つばき」

木は自分で
動きまわることができない
神様に与えられたその場所で
精一杯枝を張り
許された高さまで
一生懸命伸びようとしている
そんな木を
私は友達のように思っている
       星野富弘さんの詩集より


 聖書: ルカによる福音書20:9-19
10収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。 13そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』14農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』 
15そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。

み言より一言 「人生の決算期」

 私たちは神様からの預かり物。一つとして自分で得たものはない。体も命もそうだ。
神様が心を込めて造って下さり、神様の愛のご配慮の中で生きるようにと日々支えていてくださる。しかし、その人生には限りがある。預かったすべてを神様の前に差し出し、お返ししなければならない時が来る。人生の決算期が来る。そのとき神様は私たちにどう生きてきたかを問われる。それは恐ろしいことだ。人は知らなくても自分は知っている自分の汚さがある。またその自分も知らない心の汚さを神様はすべてをご存知である。
とても神様の前に出られる自分ではない。どうしようかと、逃げ場のない恐ろしさを感じる。しかし、聖書をみるとこの主人《どうしようか》と惑い悩んでおられる。ここに神様の愛のお心が示される。このことを忘れてはいけない。
 そして結局愛する息子(イエス様)を送る。
 そのイエス様は、人間のどうしようもない、おろかさと、罪の深さを全部担って十字架に係り、清算をしてくださった。私たちはイエス様が清算して下さったしるしの十字架を身に受けて、おろかさのまま、罪深さのまま神様の前に立とう。イエス様と共にたつあなたを、神様は「私の愛する子」と呼んでくださるでしょう。

by minitayori | 2010-03-18 21:15 | Trackback | Comments(0)

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