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日曜日の聖書から一言(池袋教会にて)

2010・7月4日(日)聖霊降臨後第6主日 ルカによる福音書9:18-26
9:18 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
19 弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」
20 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」

         花の名前を 知らない   そのことが
         今朝は ばかに嬉しい
        
         花だって たぶん     自分に 付けられている
         名前を          知らないで咲いている
                     (星野富広さんの詩集より)

    聖書より一言
 イエス様は、弟子たちに「人々はわたしのことを何と言っているか。」と尋ねたあとで、「それではあなた方はわたしのことを、何者だと言うのか。」とお尋ねになった。
イエス様を知るということにはいろいろな形がある。常識的に、キリスト教の教祖、とか、立派なお話をして下さる教師、奇跡を行う不思議な方などなど。しかしそれはイエス様がお求めになるような知り方ではない。
 長い間聖書を読み、暗記するほどに良く知っている人がいた。しかし、聖書の知識が増えても少しも心に平安が得られない。その人は宣教師のところに相談に行った。宣教師は、「君ね、家の外にいても家庭の温かさを受けることはできないよ。戸をあけて、家の中に入って、家族と交わり、家族と同じものを食べてはじめて家族になれるのだよ。イエス様はね、君に『いつまで寒い外で待っているのか、入っておいで。』と待っていてくださいますよ。」
 彼は勇気を持って、神様の家族になろうと決心し、洗礼を受けた。聖書を知識として頭で理解するのでなく、聖書が神様のお言葉として、心に迫ってきた。イエス様の十字架のできごとが「わたしのための愛の業」。聖書の教えがイエス様の愛のことばとして心にしみとおってきた。神様に命を与えられ、神様の愛の中にいるそのことを頭ではなく心で理解できて、彼はイエス様のことをもっと親しく感じ、イエス様に従うことが嬉しくなったと語ってくれた。
 イエス様が弟子たちに願っている知り方は、イエス様の愛のお心を、あなたの心の深いところで知って欲しいということなのです。

by minitayori | 2010-07-01 21:16