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礼拝に備えて 7月20日(日) マタイ10章34~42 キリストにある平和を

7月20日(日) マタイ10章34~42
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10:34 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
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「礼拝に備えて」
愛を語り、教えられてきたイエス様が、この場ではむしろ逆の事を教えておられます。人間とは、「人の間」と書きます。
しかし、この人間関係ほど難しいものはない。「人に対して好き嫌いを言ってはいけない。」伝道者になるときに、聖書学院の卒業式で先生が語ってくれた。病気の人を訪問したり、教会によい感情をもっていない人を訪問する時、家を出るとき、その家の前に立って玄関のベルを押す時、先ず一呼吸置いて祈り、イエス様が共に居てくださるようにと願った。
若い時に、ある結核病院に入院している人を訪問した。ベットの横に座り、聖書を開き、祈るつもりだった。しかし、その人に拒否された。
「私は中学の時に入院し、十年の間、聖書を読み、祈ってきた。今あなたから、聖書のお話を解説してほしいとは思はない。ただ、あなたがどのようにイエス様との間、神様との間に平安をもっているかを話してほしい」と。
ショックでした。その様に考えたことがなかったからだ。私は、しばらく祈りの時をください、と病室の外に出て、庭で祈った。多くの病棟が立ち並んでいる中庭だった。
祈っている時、私は自分の心の中の傲慢さを教えられた。10年もの間、この病室の中で死と向き合い、苦しんでいる人。私は仕事として訪問している。彼女はそのことを嫌ったのだと気がついた。
こんなときにイエス様ならどうされるか、教えを請うた。傲慢な自分が打ち砕かれた。涙が流れた。もう一度、病室に入った。不思議に今度は彼女がほほ笑みながら、手を出してくれた。彼女の不安と苦しみを受け止めさせて下さいと祈りつつ、青白い細い手を握りしめた。
愛するとは、相手を理解すること、理解するとは、相手を受け入れることだと教えられた。それから時間のある限り訪問した。いつも微笑んで迎えてくれた。
「あなたの一番好きな聖書の個所を教えてください。」「苦しい時に、どんな聖書の言葉で慰められましたか。」
彼女からの質問の方が多かった。私も家を勘当されて、やっとの思いで伝道師となり、教会で働き始めたばかり。仲間として、苦しみの時に与えられた聖書の言葉を語った。
数か月して、彼女の母親から、「病院訪問はもう結構です」とお断りの電話があった。その前日、彼女は召されたのだった。この経験は牧師になってから、いつも思いだされた。
イエス様の与えられる平和は、仲良しになることではない。相手を大切に思い、自分のように愛することだ。このイエス様に従って初めて得られるものであることを教えられた出来事でした。


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by minitayori | 2014-07-19 17:28