人気ブログランキング | 話題のタグを見る

礼拝に備えて 6月21日 聖霊降臨後第4主日

6月21日 聖霊降臨後第4主日 安息日の主と共に生きる
礼拝に備えて 6月21日 聖霊降臨後第4主日_e0191585_11582028.jpg
◆安息日に麦の穂を摘む  マルコ2章23~28
2:23 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。
2:24 ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。 2:25 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。 2:26 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」
2:27 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。
2:28 だから、人の子は安息日の主でもある。」

礼拝に備えて 6月21日 聖霊降臨後第4主日_e0191585_11594543.jpg

「礼拝に備えて」
 律法を厳守していたファリサイ人たちは、イエス様の弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食しているのを見てとがめた。律法厳守こそ最も尊い信仰のあるべき姿と思っていたファリサイ派の人々は、弟子たちやイエス様の生き方を容認できなかった。
 むしろ、罪を犯していると責めた。このファリサイ派の人々の考えに対して、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」と答えられた。これはファリサイ人たちだけではなく、これから宣教に出て行こうとする弟子たちへの教えでもあった。
 弟子たちはユダヤ教の中に育って、律法の大切さを教えられて育ってきた。私達、現代に生きる世の中にも道徳とか規範がある。  昔、東京に出てきて初めてある教会に行った時、ご婦人たちが紋付の羽織を着て礼拝や聖餐式に参列しているのを見た。壮年紳士達は、どんなに暑くても背広、ネクタイをして、礼拝に出席していた。インターンの時、一度だけその教会で説教をすることが許された。未熟な若い青年の説教に誰も来ないのではと思っていたが、いつものようにそうそうたる紳士、ご婦人達が、ネクタイをし、羽織を着て、姿勢を正して聞いていてくださった。
 私はこの時思った、この方々はイエス様を十字架に付けるほどに私達を愛してくださった神様の前に、精一杯の身づくろいをして出ているのだと。その気持ちを私は忘れないように努力してきた。
 自分と神様の間での信仰の、緊張ともいうべき姿。しかし、それが自分と神様ではなく人に向けられると混乱が起きる。
私が牧会していた教会で、ある時大学生が、若者の好む汚れたジーンズで聖餐式に出てきた。いやな顔をする人もいた。陰で非難する人もいた。時代が変わってきたなと思った。私は彼に、せめて、洗ってきれいにしてから神様の前に出るように、着るものではなくて心の準備が必要だと話した。次からは聖餐式のない時でも、良く洗った、さっぱりした洋服で礼拝に来るようになった。
 安息日は、今は私達には日曜日の礼拝になるが、神様がイエス様を十字架に付けてまで愛を示してくださる日。十字架によって示してくださる神様の愛のお心をいただく日。愛と感謝にあふれた日。その様な日として、喜んで参加し、感謝しつつ帰ることができるようにしたいものです。

by minitayori | 2015-06-20 12:00