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礼拝に備えて 9月27日  マルコ9章30-37

9月27日 聖霊降臨後第18主日 マルコ9章30-37
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9:30イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
9:31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。 :33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。:34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

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「礼拝に備えて」・・イエス様の心・人の心・・
 イエス様は旅の道すがら、ご自分がやがて苦しみを受け、十字架にかかり、死なれることを弟子たちに話された。これを聞いた弟子たちは、それがどんな意味を持つか恐ろしくて聞けなかった。
 彼らは、今まで何度も、イエス様がエルサレムに上られる目的が受難であることを教えられた。しかし、弟子たちは、違ったふうに受け止めていた。エルサレム入城は、イエス様が王となる時、メシアとなるときと考えていた。彼らの関心はイエス様の心と一つになることではなく、自分の心の欲望が実現することであった。
 イエス様は幼子を抱かれ、弟子達の真中に立ち、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」と言われた。
 イエス様の弟子とは、自分の栄達ではなく、助けを本当に必要としている人に手を差し伸べる、憐れみと優しさを持つ者である、と教えられる。
 この教えは、今の私達の教会にも語られるイエス様の願いではないだろうか。教会学校を通して幼子に福音を伝えることは、実りが遅いと敬遠され、障害者はなおざりにされている。高齢者は家で祈ることしかできないし、足の悪い人は教会の階段を上がることができない。このような現実を教会はどう受け止めているだろうか。
 このようなことに痛みを感じなくなったら、教会にはイエス様の心は失われたと言わざるを得ない。世界に出て行って、全ての人に福音をつたえよ・・とイエス様は弟子達に、いや教会に命じられた。このみ言に生きているかどうか、自分の心に自問自答をし続けたいと思う。


by minitayori | 2015-09-26 19:57