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礼拝に備えて 7月24日 ルカ音書10章38~42節

 7月24日 聖霊降臨後第10主日 ルカ福音書10章38~42節
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10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

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 「礼拝に備えて」
 今週の日課は、マルタとマリアという姉妹が、立ち寄られたイエス様を、全く違う方法で歓待したお話が記されています。忙しくごちそうを作る姉のマルタ、イエス様のそばに座って、イエス様のお話を聞きいるマリア。マルタは忙しさのあまり、イエス様にイライラをぶつけてしまい、イエス様にいさめられました。
どこの教会を見ても、一番忙しく働いているのは婦人会。(最近では女性会と言っている教会が多いようですが。)確かに、教会の歴史は婦人たちの奉仕によって支えられてきた、とも言えるのではないかと思えるほどです。イエス様の亡骸を墓に葬ったのも婦人たち、復活に最初に出合ったのも婦人たち。つまり、婦人たちの、イエス様に対する愛と献身の結果ともいえます。パウロを支えて、ピリピに教会を作る礎を作ったのも、ルデアという婦人でした。この女性は、その後もパウロの伝道を、献身的に支えたことでも有名です。
私が牧会したある教会は、フィンランドの婦人たちの献金によって作られたと聞きました。決して豊かではない国のご婦人たちは、乏しい中から献金し、支えてくれていました。昔、招かれて訪問した、北の国フィンランドでの話では、ずいぶん長い間、日本の人々の魂のために祈り、宣教師が働く費用を献金し続けたのです。ある村で挨拶をする機会が与えられました。挨拶の後、50歳くらいの男性が、涙を浮かべながら近づいてきて、大きなグローブのような手で私の手を握り、「祖母の時代から90年、日本の魂のために祈り続けました。その日本から牧師が来てくれたことを、今は天国にいる祖母も母も、きっと喜んでいます。神様が私達の祈りを聴いてくださった」と言ってくださいました。
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 決して豊かではない小さな村の人々が、冬の間編み物をし、バザーをして、日本のために献金してくれたことも聞きました。自分の家庭を豊かにするためよりも、イエス様の大きな愛に応えることを第一にしていることを知り、感動し、感謝しつつ帰国しました。
 今日の日課で、マルタとマリアの姉妹の、イエス様に対する心の様子が記されています。姉のマルタは、イエス様が来てくださったことを喜び、ご馳走を作ってイエス様をもてなすことに心を注いでいました。あれこれ作ってイエス様に喜んでいただきたい、と思っていたのでしょう。
 「忙しい」と言う日本語は、心を亡くすという文字で作られています。イエス様をもてなすということに一生懸命になり、イエス様が喜んでくださることは何かを、考えるゆとりがなくなってしまいました。妹のマリアが、イエス様の足元に座ってイエス様のお話を聞いている姿が腹立たしくて、もてなすべきイエス様に向かって文句を言ってしまったのです。「悩み」=心+凶になってしまいました。
 十字架の前の大切な時間を裂いて、この姉妹の所にイエス様が来られたのは何のためでしょうか。このイエス様のお心に心を向けるべきではなかったでしょうか。マルタがイエス様のためにご馳走を作り、歓待したいという事は彼女の精いっぱいの愛情の表現だったでしょう。そのことを否定しているのではありません。その忙しさゆえに、イエス様を喜ぶ心、イエス様のお心に向かい合う心を亡くしてしまったことが問題なのです。
 ある教会に赴任した時、婦人たちが朝早くから来て、昼の御馳走を作っていました。礼拝のぎりぎりまで準備をして、前奏が始まるころ礼拝堂に入ってきます。心忙しくて、礼拝への備えも難しい様子でした。私は、ご婦人たちに感謝しつつも、自分の魂のために、前奏の前には礼拝堂の席につける範囲の食事にすることを提案しました。ご馳走でなくてもよいのです。近くでおにぎりを買って来てもよいのです。イエス様が一番喜ばれるのは、心静かにみ言の前に立つという事ですから。
 ご婦人たちは、誰かがそう言ってくれるのを待っていたそうです。ゆっくり心を整えて礼拝をしたいと、ずっと皆さんが思っていました。でも、少しずつ前よりも良いものを、と思うようになってしまったのですね。 私達もいつもイエス様に心を向けて、イエス様が今喜ばれ、求められることに心を注いでいきたいと思います。


by minitayori | 2016-07-23 20:34