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礼拝に備えて 10月2日  ルカ福音書17章1~10節

10月2日 聖霊降臨後第20主日 ルカによる福音書17章1~10節
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17:5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、:6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。:7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。:8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。:9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。
17:10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
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 「礼拝に備えて」
 私は、自分が召された仕事にふさわしいとは思えなかった。学歴も知識もない、しかも口下手で負けず嫌いで・・と数え上げれば、身はすくむ思いであった。聖書学院を出て、初めて教会で働き始めた時、3カ月余りでその教会の責任者である宣教師が、病気で帰国してしまった。それから次の宣教師が就任するまで、一人で教会を守らなければならなかった。
 日曜日は、教会学校から始まり、信仰入門の集まりを行い、礼拝では奏楽と司式と説教まで一人で行った。水曜日の聖書研究会も行った。聖書学院で学んだ知識は、3カ月で底をついた。絞り切った手ぬぐいのように、語る言葉を失った。こんな私がこの働きを続けられない、と聖書学院の先生の所に泣きついた。
 その先生は、ブルーの大きな瞳に涙をいっぱい浮かべて、私の手を握り、「よかったね・・。そのままの弱い心を、神様にゆだねて生きるのですよ。神様がいつも一緒にいてくださるから・・」と涙を流して祈ってくださった。
 神学校を出て牧会に出る時も、こんな自分が、初めて教会に来る人にみことばを語り、もしその人が失望し、つまずいて二度と教会に来なくなったらどうしようと思うと、説教壇に立つのが怖かった。いつしか、説教前の讃美歌を歌う時に脈拍を数え、首にかけた十字架を握りしめ、「主よ、助けてください。」と祈り、説教壇に立つ時には、首にかけたストールに手を触れて上がるようになった。
 授按の時に、宣教師の先生が、卒業生にストールを贈ってくださった。その時、「これは『クビキ』、イエス様と一緒に説教壇に立ち、イエス様のお心を語る口になりなさい。」と言われたのを思い出していた。
 口で語り、手話で同時通訳をして語った20余年、たどたどしい言葉になり、手話も十分ではなかった。今思うと身がすくむ思い。それは、通訳がつく様になった最後の6年になっても変わらなかった。脈拍を数え、ストールに触って、イエス様のお心を語る口になろうと願ってきた。
 逆にいえば、私の人生は弱かったが故に、力がなかったが故に、神様に頼り続けた人生であったように思う。よい僕ではなかった。神様に迷惑ばかりかけてきた自分であったと思う。神様は沢山の信仰の友を与えてくださり、出来の悪い僕を支えてくださった。
 それを、今感謝を持って振り返ることができる自分であることが嬉しい。自分一人では何もできなかった。でもそれを支えてくださった沢山の信仰の友の力があった。そのお蔭で神様の僕であることができたことを、今感謝をもって振り返っている。

by minitayori | 2016-09-30 17:32