礼拝に備えて 7月23日  マタイ福音書10章34~42節

7月23日  マタイ福音書10章34~42節

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10:34 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。:35 わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。

10:36 (略)

10:39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

◆受け入れる人の報い

10:40 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。

10:41 (略)

10:42 はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

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「礼拝に備えて」

 イエス様の弟子になると言う事は、イエス様のように生きることだと言われます。言葉で言うのは簡単ですが、決して簡単なことではありません。しかし、イエス様は、自分と同じように生きるということを望んでおられるのではなく、イエス様が神様のお心を、ご自分の十字架として、受け止められ、その様に生きられたように、イエス様は弟子たちに、それぞれ自分の十字架を負って生きるようにと望まれました。

 それは、私達、つまりイエス様の弟子としてイエス様に従って生きようとする者は、神様の御心を自分の立場で受け止め、精一杯生きていくことではないかと思うのです。イエス様の十字架は、私達のために十字架上に命を捨てると言う事でした。大きな愛を持って。

 「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」この生き方は、「迷子の羊を探される善い羊飼い」のお話の中に、また「放蕩息子の帰還を喜ぶ父」の姿の中によく表されています。この地上にある全ての人が、神様の愛される人々、つまり弟子であることを覚えて、愛を持って互いに仕え合うことを神様は望んでおられるのです。

先日、日野原先生が105歳で召されたと言う事を報道で知りました。100歳を超えてからも、近くの学校でしばしば講演会を開き、子供たちに命の尊さを語っていたそうです。

 良く通る声で、「あなた方は命を与えられている。その尊さを覚えて欲しい。同時に、命を与えられていることは、時間を与えられている事です。その時間を、人のために使う事を考えて欲しい。」と語られていました。時間を人のために使うと言う事は、自分の命を人のために捧げると言う事ではないでしょうか。被災者のためにボランティアで働くことも、貧しい人のために働くことも、家族のために祈ることも、自分の大切な時間を使う事であり、命を捧げることだと思います。生きているという事は、時間を与えられている事、それを神様のみ心のた
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めに用いるためには、み言葉から神様のみ心を絶えず聞き続けることが必要であることを改めて思いました。



by minitayori | 2017-07-22 20:01 | Trackback | Comments(0)

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