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礼拝に備えて 10月8日 マタイ福音書18章21-35節 



108日 聖霊降臨後第18主日 マタイによる福音書1821-35

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18:21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」

18:22 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。

「中略」

18:33 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』

18:35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。

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「礼拝に備えて」


 昔、神学校の先生から、赦すと言う言葉と、忘れると言う言葉とはよく似ていると言われました。なんとなくこの言葉が心に残っていました。ふと思い出して、スペルがうろ覚えなので、辞書を引こうと思ったが、残念ながら引っ越し段ボールの奥に入ってしまったようで見つかりません。もっともあの辞書の字は、今の私にはきっと見ることが出来ないでしょう。娘に確認して記しています。

 forgive=許す forget=忘れる・・この教えが今日の聖書の教えに深くかかわっていると思うのです。ペトロはイエス様に聞きました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と。ペトロが「七回までですか?」と聞いたのは、旧約聖書の教えに従って、最大級の忍耐の心を持って許すことを覚悟している自分を、イエス様に誉めてもらいたかったからなのかもしれません。

 しかし、イエス様は7回までですか?と問うペトロの心には、本当の赦しがない事を教えたかったのです。それは我慢をするだけで、その数を超えると7倍・8倍にして仕返しをするのが人間の心の醜さなのです。

 昔「491」と言う映画があったそうです。その意味は77倍、つまり、490回を超えた、許されざる事柄がある、と言う意味だったそうです。私は見られませんでしたが、これを聞いて思いました。許すと言う事は、本当は忘れる事ではないかと。神様は、人間の裏切りと言う罪を忘れてくださるために、そのすべてをイエス様の十字架に架けてくださいました。

 イエス様の十字架の故に、私達の全ての罪を忘れてくださったのです。
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帰って来た放蕩息子のことを考えてみてください。父の財産を使い果たし、ぼろをまとって帰ってきた息子を、父は「死んでいた息子が帰って来てくれた」と喜んだのです。これが御父、神様のお心です。この神様のお心の中に抱かれて、私達も忘れる愛を持てるようになりたいと思います。





 








by minitayori | 2017-10-07 20:16