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礼拝に備えて 1月28日  マルコ福音書1章21-28節

128日 顕現節第4主日 マルコによる福音書121-28

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◆汚れた霊に取りつかれた男をいやす

1:21 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。

1:22 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。

1:23 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。

1:24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」

1:25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、

1:26 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。

1:27 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」

1:28 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

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「礼拝に備えて」

 今日のみ言葉の中でイエス様が会堂に入って会教えられた時のことが記されている。人々はイエス様の教えを聞いて、イエス様のお言葉を通して権威あるものとして教えられるイエス様のお姿に驚かれた。その権威とは何だろうか。ヨハネによる福音書記者はイエス様についてこう証している・「「1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

 イエス様のみ教えの中に示される恵みと真理とに触れたからこそ、人々はイエス様を信じ、イエス様のみもとに集まってきたと思うのです。それは言葉ではなくイエス様の人々に対する、偏見のない愛、として示されています。洗礼者ヨハネの問いに対して、マタイ福音書記者は「11:4 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。

目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。とイエス様がいらっしゃる所に愛があり、愛が実現され、そこに福音(良き知らせ)があり。福音を通して神様のお心に会える喜びが生まれる、その様に考えると、イエス様のお心を伝えることこそ、説教であり牧会であると思うのです。

 イエス様の存在は、教会の交わりの中にも存在します。勿論福音の説き明かし(説教)の中にも、祈りつつ教会に集う会衆の心にも存在するものだと思うのです。教会はこのようにして権威ある神様のみ言としてこの世に力ある存在となるのではないでしょうか。


by minitayori | 2018-01-27 22:18