11月26日 池袋教会聖壇の花





11月26日 池袋教会聖壇の花
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by minitayori | 2017-12-02 20:50 | Trackback | Comments(0)

ルターの紋章

「きよせたより330」

  ルターの紋章
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ヴィッテンベルグにあるルターの記念館の「カテリーナの入り口」にルターの浮き彫りがかかっている。その浮き彫りの中には「穏やかにして信頼しているならば、力を得る」という銘が刻まれている。

その反対側に、石で刻まれたルターの紋章がある。その銘刻にはVIVIT=主は生きたもう」と言うキリスト信仰の一貫した確信が記されている。ルターは自分の紋章について「私の神学の記章」と言っているが、彼自身が書いた以下の文章は、宗教改革の全教理の要約として役立つことが出来た。

  

「ルターが友人に送った葉書に書かれている文」

 「第一に、自然な色のハートの中に黒い十字架があるが、われらを救い給う十字架の主を信ずる信仰を思い起こさせるものである。なぜなら、心から信ずるものが義とされるからである。それは黒い十字架、肉を殺し、苦痛を与えずにはおかないものであるが、ハートの色を自然に残しているし、我らの人間性を破壊するものではない。つまり、その十字架は生命を殺すものではなく、かえって保つのである。なぜなら、『義人は信仰によって生きる』からだ。しかし、『十字架につけられた主を信じる信仰によって』である。このハートは白いバラの花の真ん中にはめ込まれている。これは信仰が、喜びと慰めと平安をもたらすものであることを示す。要するに、信仰はわれらを愉快なバラの野に運び込む。その平安と喜びはこの世の平安や喜びとは違うので、バラは白であって赤ではない。白は霊とすべての天使たちを表す色であるからだ。

 バラのおかれている背景は空色である。それは、魂と信仰のその様な喜びが、来るべき天の喜びの始めであり、その喜びは、事実もうすでに今のわれらの喜びの中にすでに現在し、信仰によって受けることができ、しかしながら、いまだあらわになっていないことを示すものである。*このルターの紋章に用いられたバラは、またクリスマスを表すシンボルでもある。救い主の予言を表している。そしてこの白いバラはクリスマスに咲くと言われている。クリスマスの只中に、十字架を思うルターの信仰を、私たちも学びたいものです。 (参考資料絵画によるルターより)


by minitayori | 2017-12-02 20:40 | Trackback | Comments(0)

近くの生垣の紅葉

近くの生垣の紅葉
木にあるときは木に連なり、
風に吹かれ落ちれば大地にゆだねる。
いつも今が一番美しいのでしょうね。

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by minitayori | 2017-12-02 20:32 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 12月3日 マルコによる福音書11章1-11節



123日 降臨節第1主日マルコによる福音書111-11

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11:1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、11:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。:3 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』といったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」 11:4 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた:5 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。:6 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。:7 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。:8 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。:9 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。:10 我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」:11 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。

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「礼拝に備えて」 イエス様とはどのようなお方なのだろうか?マルコはその福音書の中でイエス様をどのような方として描こうとしているのだろうか?私はいつも聖書を読む時に、聖書の言葉を通してイエス様のお姿とみ心を聞き、読み取ろうと努力している。多分切り絵を作る時の習性かもしれないが。

 この時、イエス様はどんな眼差しをしておられただろうか。その眼差しでイエス様のお心が分かるようにと考える。しかし、今までの作品で、そのお心が表せたものはほんのわずかにすぎない。でもその様なものが完成すると、絵を見てくれる人にイエス様のお心が伝わる、と思って努力してきた。
 今は体力も、視力も衰えてきてなかなか作成に取り掛かれないが、あと何点かは作成したい作品がある。さて今日のエルサレム入城のイエス様のマルコの描写の中に、私はいくつかのメッセージが示されているように感じます。
 群衆は強い王、自分達を解放してくれる王の到来を待っていた群衆は、借り物の子ロバに乗ってよろよろと入城されるイエス様のお姿に戸惑いを感じたであろう。しかしロバは平和の象徴だった。イエス様は力ではなく愛による平和な国の到来を、このお姿を通して示していた。
 さらに子ろばの背に乗ったイエス様は、丁度群衆と同じ目線で群衆を見ておられた。私はここにも心惹かれる。群衆と同じ目線でその苦しみや悲しみを見つめてくださるイエス様のお姿に、いつも身近なイエス様を感じるのです。
 しかも、イエス様は「:8 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。」イエス様は群衆の汗と涙、苦しみと悲しみの染みついた上着をご自分の歩む道として選ばれたのです。その様に思う時、私はイエス様がとても身近に感じます。私と同じ目線に立って様々な悲しみや苦しみを見つめていてくださるイエス様。また苦しみや悲しみ、悩みや孤独のただ中に共に歩んでくださるイエス様のお姿を感じるのです。
 まだこの場面のキリエを作っていませんが、頭の中だけでこのイエス様のお顔、目線を感じています。多分もう作れないでしょうが、頭の中だけで描いています。







































by minitayori | 2017-12-02 20:28 | Trackback | Comments(0)

スイセン

スイセン
飯田の教会にいたとき、園庭の雪の中からスイセンの花が
出てくると春が近いこと知り、心温かくなったのを思い出
します。東京は、いよいよ寒い冬が来ることを覚悟します。

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by minitayori | 2017-12-02 20:07 | Trackback | Comments(0)