夕顔

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花が枯れ始めた、さみしい庭に、突然咲き始めた夕顔。
文字通り、夕暮れから三時間くらい咲いてしぼんでゆく。
写しながら、「ありがとう!」思わず囁いた。

by minitayori | 2012-07-28 22:07 | Trackback | Comments(0)

ミニ006

2012・7月29日(日)聖霊降臨後第9主日 マルコによる福音書5:21-43 聖書 :  マルコによる福音書5:21-43 
5:21 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、イエスは湖のほとりにおられた。22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。」24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。
33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」 35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。

(ミニタヨリ=礼拝に備えて)
主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。これは日課の旧約聖書、哀歌3:22に記される神様の約束の言葉。信仰とは、このお約束を心に深く受け入れ、今を生きることではないか。「念じる」とは、今に心を集中して大切に生きること、と説明していた方がいた。福音書の日課には、ヤイロと長血で苦しんでいた女性のお話が記されている。ヤイロは娘のために、また長血の女の方が、絶望のどん底で、今と言う時に出会ったイエス様に、必死の思いですがりついて行く。ヤイロも病気の女性も、今、イエス様からの救いをいただくこと、その一点に心をおいていた。神様を信じると言うことは、今の時の一点に心をイエス様に向け、神様の憐れみを求めて必死になることではないだろうか。
 教会に集うと言うことも、そう言うことではないだろうか。み言を聞き、聖餐にあずかると言うことは、「神様、あなたのみ言とあなたのみ業のみに、わたしはわたしの救いを見ています」と言うことではないだろうか。真剣に、必死の思いで神様の前に出てみよう。あなたの心に、イエス様はきっと答えてくださるから。ヤイロと病気の女に語ったように。 
あなたがイエス様の救いを心から求めるなら、あなたも同じ言葉を聞ける。「あなたの信仰があなたを救った。勇気を持って立ち上がり、わたしの与えた道を歩きなさい」と。

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断想」
・酷暑の夏がやってきた。子供たちの夏休みも始まった。水の事故や熱中症が懸念される。ケアハウスでは、頻繁にその予防が語られる。思うに、事故は過信から始まるように思う。自分は大丈夫だ、と思うことは、肉体の弱さ、もろさに気付かない人の愚かさではないか。
・私もかつて若さを過信して、大病を経験した。肉体は時と共に弱まってゆく。しかし、それをマイナスにとらないで、弱さも一つの恵み、力と受け止めて、自分に与えられた道を歩みたい。
・ケアハウスの近辺の花も、この酷暑に「まいった!」と言うようにしぼんでいる。そんな中で咲く夕顔の花は、花の命のはかなさを教えているが、それだけに美しさと感動を与えてくれる。

by minitayori | 2012-07-28 22:03 | Trackback | Comments(0)

夏にも負けない強い花

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夏の暑さにも負けず、青空に向かって堂々と伸び、満開の花を咲かしていました。

by minitayori | 2012-07-28 21:56 | Trackback | Comments(0)

創世記手話聖研3課1617より

3課1617創世記手話聖研より
16.彼らは、「神様を愛し、信頼し、喜んで従う」と言う立場からではなく、自分の欲望から「木の実」を見たのです。すると、それは、食べるに良く、目には美しく、賢くなるに好ましく思えたので、彼は取って食べた、のです。ここで用いられていることばはみな「彼ら」が主語になっている事に注意して下さい。
17.彼らの心が自分中心になってしまった時、「神様への服従」は失われてしまいました。それとともに、神様との調和も失われてしまったのです。そこから、人間の不幸が始まり、苦しみの始まりがあったのです。神様の命令に対する「反抗」こそが、聖書で言う罪となったのです。

<手話訳>
>16.彼らは、「神様を愛し、信頼し、喜んで従う」と言う立場からではなく、
* 彼ら(男女) 神様 大切 思い 委ね 喜んで 従う 違う

>自分の欲望から「木の実」を見たのです。すると、それは、食べるに良く、
*自分 思い 中心 木の 実 見た。  その 時 それ 食べる おいしい

>目には美しく、賢くなるに好ましく思えたので、彼は取って食べた、のです。
*目に きれい 賢く なる 良い 思った だから 彼ら 取り 食べた

>ここで用いられていることばはみな「彼ら」が主語になっている事に注意して下さい
*ここで 書いてある 言葉 みな 彼らが 主に なっている 注意 見てください

>17.彼らの心が自分中心になってしまった時、
*彼ら 心 中 自分 中心の 思い 一杯 変わった 時

>「神様への服従」は失われてしまいました。
*神様に 従う 心 失っった。

>それとともに、神様との調和も失われてしまったのです。
*それ 同時に 神様 仲良し(心合わせる) 関係 無くなる

>そこから、人間の不幸が始まり、苦しみの始まりがあったのです。
*その時 から 人間の 不幸 始まる 苦しみ 始まった。

>神様の命令に対する「反抗」こそが、聖書で言う罪となったのです。
*神様 命令 対する 反抗 行為が 聖書 教える 「罪」 である。

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(手話訳から一言)
 教会に行くと、罪とかあなたは罪びとです、と言われて、怒って帰ってしまった、と言う話をよく聞きます。一般に「罪」とは(悪いことをした)と考えるから、自分は悪いことをしていないと反発をします。確かに、まるで聖人のようだ、と言われる人がいます。しかし、その人も神様から見れば、罪びとなのです。どうしてでしょうか。神様が座るべきところに自分が座っているからです。
 人間の和が壊れる時、大体自己中心の心が出ている時です。神様との関係もそうですし、自分の中でもそうです。自分がもっと偉いはずなのに、愛されるべきなのに、尊敬されるべきなのに、世の中は自分を大切にしてくれない。そんな思いが、自分を傷つけ、他人を傷つけていないでしょうか。
 あの時、ごめんなさいと言っていたら、仲たがいをしなかったのに、いやな思いをしなくて済んだのに、と後悔することがあります。「自分と言うプライドが言わせない」それが人間の弱さです。聖書ではそれを罪の実である、と教えるのです。神様にも、自分自身の良心にも従順に、謙遜に生きることが必要なのです。人間の心にだれもが持っている「自己中心」の心を反省しつつ、それがどのようにしたら無くなるのか、聖書は教えてくれます。その答えはイエス様の十字架です。それは神様への絶対的な従順です。あなたと私に代わって成し遂げてくださったのです。イエス様、あなたのみ業を感謝して、わたしのものとしていただきます。そう祈って見てください。

by minitayori | 2012-07-28 21:53 | Trackback | Comments(0)

初めての花

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近くの散歩道の垣根の下に、珍しい花が咲いていた。星がとてもきれいでした。

by minitayori | 2012-07-28 21:49 | Trackback | Comments(0)

バラの涙?

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雨上がりを待って、庭を散歩した。暑さで枯れてしまった花が多いが、ひときわ目を引く真っ赤なバラを見つけた。なぜここに咲いているのだろうか、と思ったが、この花は私のほうを見ているようだった、雨のしずくが涙の様に見えた。イエス様の愛の涙のしずくでしょうか。

by minitayori | 2012-07-21 21:12 | Trackback | Comments(0)

ミニタヨリ005

・礼拝への黙想 7月21日
・マルコ福音書4章35-41節
7月22日(日)聖霊降臨後第8主日 マルコによる福音書4:35-41
4:35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。 37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
38しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。 40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」 41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

****************
・イエス様は群衆が押し寄せてきたので舟の上からお話をし、その後、弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と言って舟を出させた。
・弟子たちの舟が湖の中ほどに来た時、突風が吹いて、波は荒れ、舟の中には水が入り、沈みそうになった。弟子たちの心は恐怖で一杯になった。
・ところがイエス様を見ると艫の方で眠っていた。弟子たちは、自分たちの苦難に気付かないイエス様に腹を立て、文句を言った。
・しかし、イエス様は起き上がり、弟子たちを叱られた。「わたしが一緒にいるのに、何を恐れるのか」と。そして海を鎮められた。
・私たちの人生は「向こう岸に向かう舟の中」にある。嵐もあれば突風にも会うだろう。しかし、その舟にはイエス様が共にいます。イエス様の声が聞こえます。「安心しなさい、わたしが共にいる。」
忘れずに!

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「つれづれに」
・清瀬は静かな、自然の多いところだ。近くに雑木林もあり、このケアハウスも広大な敷地の中にある。四季折々に咲く草花に目を楽しませてもらい、心慰めてもらっている。
・豪雨もなければ、台風にもめったに合わない。この4年ほどで一度庭の木が折れ、近くの自然林の大木が折れた台風があった。各地の災害の知らせに心を痛めつつ、祈り、我が身の静かな日々を感謝する。
・しかし、感謝しつつも、我が身の衰えが感じられる日々も始まった。身体の衰えは、自分のできることの限界を教えてくれる。声も出なくなり、目も悪く、楽しみの切り絵にもなかなか取りかかれない。
・でも「失う」ということは老いの恵み。今まで与えられているのに使わなかった恵みに気付き、それを使える喜びを見出している。そして、ふと思った。失うのではなく、熟成しているのではないかと。弱さと言う室(むろ)の中で、委ねられている力を熟成させ、豊かに用い、生きていきたい。
・老いの坂は、希望への坂。神様の約束を信じて歩む坂。それも今になって実感できる幸いかもしれない。未来に希望を持ちつつ、過去の様々な出来事を思い出し、嵐の時、大波の時、沈没しそうになった時、そこに必ず神様の支えのみ手があったことを思う。そして同時に多くの人々の支えをいただいた。今改めて感謝している。

by minitayori | 2012-07-21 21:04 | Trackback | Comments(0)

カサブランカ

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昔は高価な花であったそうだが、今はお葬儀の花によく用いられる。ユリが復活を意味するからだろうか。しかし、このカサブランカは香りが非常に強くて、この花に囲まれているとめまいがしたものだ。それも懐かしい思い出だが、教会の横にきれいな色をしたカサブランカを見つけ、うれしくなりました。

by minitayori | 2012-07-21 20:59 | Trackback | Comments(0)

3課1415創世記手話聖研より

3課1415創世記手話聖研より
14.アダムとエバは、「食べると死ぬ」と言う、神様の警告をおもいだしつつも、「決して死なない、かえってそれを食べると、神様のようになることを、神が知っているから禁じたのだ」というヘビの誘惑のことばの方に、より強く引かれてしまったのです。アダムとエバは、神様の命令よりも、誘惑のことばに従ってしまったのです。
15.彼らの心には、神様を愛し、従う心がなくなりました。かえって、神様を非難する心が生まれて来ました。いつのまにか、彼らの心の中心は、神様ではなく、自分の心、自分の思いになってしまったのです。「神様に対する、悪い反抗」、「罪」がはじまったのです。

<手話訳>

>14.アダムとエバは、「食べると死ぬ」と言う、神様の警告をおもいだしつつも、
アダム(男) エバ(女) 「食べる 死ぬ」 と言う 神 命令を 考え けれど

>「決して死なない、かえってそれを食べると、神様のようになることを、
*「大丈夫 死なない 逆に それ 食べる 神様 同じ なる

>神が知っているから禁じたのだ」というヘビの誘惑のことばの方に、
*神 知っている だから 食べる だめ といった」 この 蛇 誘惑 

>より強く引かれてしまったのです。アダムとエバは、神様の命令よりも、
*強く 引き込まれ た。 アダム エバ(男女) 神様の 命令 より

>誘惑のことばに従ってしまったのです。
*さらに 蛇 誘惑の 言葉に ひかれ 従った。

>15.彼らの心には、神様を愛し、従う心がなくなりました。
*結果 男女(彼らの意) 心 神 大切 する 心 無くなった。

>かえって、神様を非難する心が生まれて来ました。いつのまにか、
*逆に 神様を 悪く思う 心 始まった。   知らない 間に

>彼らの心の中心は、神様ではなく、自分の心、自分の思いになってしまったのです。
*彼らの 心 中心は 神 忘れ  自分自身 心 自分の 考え 中心 に変わった。

>「神様に対する、悪い反抗」、「罪」がはじまったのです。
*「神様 向かう 悪い 反抗」=「罪」手話の意味 が始まった。

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(手話訳より一言)
 蛇の誘惑は、まことに巧妙で、無理やりにではなく、人間が自分の心を少しずつ神様から離れて行くように、心の中心を変えるように誘惑してきます。イエス様のご受難の時にイエス様を銀貨30枚で売ってしまったユダの心。裁判の時に、イエス様を心配して裁判の行われる庭にまで入り込んだペトロは、寒さに耐えきれず、焚火のそばに引き寄せられて、
「あなたはイエス様の弟子でしょう」と言われ、3度もイエス様を否んでしまいました。最後にまイエス様と全く関係ない、イエス様なんて知らないとまで断言してしまいました。自分を大切にする心、それがペトロをイエス様から離し、否定してしまったのです。
 罪と言うのは、神様中心ではなくて、自分中心になった時に生まれる人間の身勝手な心の事なんですね。そのように考えて、教会の「罪」と言う言葉を作りました。一般には罪とは悪い人が腹巻にナイフを隠し持っている動作。また、警察につかまっている動作で表してます。最初この言葉に違和感があり、「罪」とはなんだろうと考えて創世記の学びから「罪」と言う手話をつくりました。反抗の手を伸ばして、神様に握手を求める動作は、信仰の姿ではないでしょうか。この言葉についてはまた改めて説明します。

by minitayori | 2012-07-21 20:53 | Trackback | Comments(0)

大きなユリ

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敷地の中にある清瀬病院の前に、背よりも高いユリの花があった。天高くにそびえ、見事に花を咲かせていた。ユリは復活のシンボル。復活の喜びが天あることを示しているようだ。

by minitayori | 2012-07-21 20:47 | Trackback | Comments(0)