野菊

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 施設の入り口にあった小さな花。野菊。「野菊のごとき君なれば」、どこかで聞いたことのある言葉をふと思い出して、写真に撮った。地味な花だが、文句ひとつ言わないで、毎年同じところに咲いている。この花ひとつにも神様はみ心をとめておられ、このように美しく飾っている。ほめる人が少なくても、自分の花を美しく咲かせているのが、けなげに思える。

by minitayori | 2013-11-30 20:48 | Trackback | Comments(0)

「キヨセタヨリ065」 クリスマスと靴下

「キヨセタヨリ065」  クリスマスと靴下
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 クリスマスイヴの夜、靴下を吊り下げ、クリスマスの25日の朝起きると、願い通りの、あるいはそれ以上の素晴らしいプレゼントが置いてある。プレゼントを待つ喜びを幼いころ経験された方も多いかと思います。この靴下を吊り下げるという習慣は、聖ニコラウスの伝説に由来するようです。ある貧しい貴族に三人の娘がいました。しかし、彼女たちを結婚させるためのお金がありませんでした。それを知った聖ニコラウスは、金貨の包みを、夜ひそかに、貴族の家の煙突から投げ込みました。その金貨は暖炉に干してあった靴下に入り、このお金で無事長女は結婚できたというのです。そして次女、三女にもニコラウスは同じようにプレゼントし結婚できたというお話しです。

 わたしの最後の任地になった熊本で、赴任して最初の年の24日の早朝、一人の熱心なご婦人が急逝された。この方は愛する孫のために毎年靴下を編んで、プレゼントを入れ、手渡すのを楽しみにしていた。23日の夜、プレゼントを準備をしているときに倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
 その話を聞いて、改めて靴下とクリスマスの意味を考えさせられた。この婦人が孫に送りたい大切なことが、この靴下に編みこまれていた、そう感じた。

 日本キリスト教団牧師が著書の中で、この靴下をぶら下げることに、なぜ靴下なのかということに触れられていた。靴下というものはすぐ汚れるもので、時には自分で見たくないような、自分でもいやになることがあるが、そんな自分の醜さや汚れや悲しみを代表するものだと言われる。そして、「そのただ中に来て下さるお方がいる。それがクリスマス、つまりイエスキリストの誕生であり、クリスマスツリーに吊された靴下を見たら、そこにプレゼントが入っていて贈られるように、実は私の心の汚れや悲しみのただ中に、自分でも触れたくないような、そんなただ中に来て、決して責めず、決して無視せず、そのままあるがまま、そっくり受け入れて下さるのです」とクリスマスの意味を語られました。
婦人の孫への本当のプレゼントは、全てを受け入れてくださるイエス様の愛、そのメッセージであったと思う。
お孫さんたちは今は立派に成長し、祖母を喜ばせる働きをしていると聞く。ふと思い出したシーンです。

by minitayori | 2013-11-30 20:41 | Trackback | Comments(0)

白いサザンカ

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 白いサザンカ、私の好きな色のサザンカです。赤いサザンカの中に遠慮しながら何本かの白のサザンカがある。咲いてみないとわからないが、清楚で美しい。

by minitayori | 2013-11-30 20:36 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 2013・12・1 マタイ21:1-11

2013・12・1 マタイ21:1-11
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21:1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、 2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。
7 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 8 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。 9 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」 10 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。 11 そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。

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「群衆の服の上を歩かれる救い主」
クリスマス・シーズンが始まった。もっともデパートではクリスマスは真っ盛り。間もなく歳末の大売り出しになる。
 クリスマスは、キリスト・ミサが元の意味で、救い主礼拝のこと。
その最初のクリスマスは、羊飼いと、東方の博士たちが礼拝に来ただけという、真にシンプルなものであった。
 イエス様の誕生は、家畜小屋から始まり、十字架でこの世の御生涯が終わった。そのために来られたという。
 イエス様の御降誕には、二つの意味があると言われる。一つはその誕生。もう一つは、もう一度来臨される時があると言うことの予表の意味。その時には、世への審判がある。そのための準備をしなさい、と教える。
 25日の前4つの日曜日がその準備の時。教会の聖壇の色が紫になる。それはイエス様の苦難を表し、世の終わりの時に備えてイエス様の十字架を、私のための十字架であった事を受け入れ、準備をしなさいと言うことを教えている。
 その十字架への苦難の道の始まりが、今日の日課の聖書に示されている。人々はイエス様のエルサレム入城を,歓喜の声をあげて迎えた。「ダビデの子ホサナ!」と叫びながら。
 しかし、イエス様はロバの子に乗り、よたよたと入城された。ロバの子に乗ったイエス様は、ちょうど人々の目線と同じ高さに居られた。しかも、王の入城には赤いじゅうたんが敷かれるそうだが、イエス様は群衆の汗と涙のしみ込んだ上着の上を歩かれた。
 このことは、イエス様がいつも人々と同じ目線に立ち、人々の悲しみや苦しみの中にいる方であることを示している。
 公生涯のはじめに、イエス様はヨルダンの河に入られ、洗礼を受けられた。人々の罪を嘆き、清めの儀式の中に入られ、「これはわたしの愛する子」と言う、神のお言葉をいただいた。
 罪の嘆きの中に、弱さの中に、イエス様は救い主としておられると言うことです。悲しみ、悩み、弱さに絶望するあなたと共にイエス様はいてくださいます。今も!
 勇気を出しなさい。イエス様が一緒にいてくださいます。

by minitayori | 2013-11-30 20:32 | Trackback | Comments(0)

清瀬にも紅葉が

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 清瀬の施設にも紅葉がやってきました。つかの間の美しさですが、みんなでほめてあげたいと思います。今が一番美しい時。いつも自分に対してそういえるものでありたいですね。

by minitayori | 2013-11-30 20:24 | Trackback | Comments(0)

赤いバラ

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 落ち葉の舞う施設の庭。秋のさみしさを彩るように、少しの紅葉が見えてきた。葉が落ちて何となくさみしげな庭に、一本だけ、バラの花が咲いていた。青い茎、葉、そしてみごとな花。
真っ赤なバラは、西洋ではイエス様の十字架の血潮を意味するそうだ。いばらに刺されたイエス様のお顔に流れる赤い血潮が、あなたへの愛を示している。


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   赤いバラ
 赤いバラを、あなたにあげよう。 飾ってごらんあなたの胸に。
 イエスさまが、十字架の上で、流してくれた 真っ赤な血潮が
 あなたの心で、激しく燃えて、愛の命が 目覚めるように。

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*若い時に、仲間と一緒にギターで歌ったフォークソングです。

by minitayori | 2013-11-23 20:47 | Trackback | Comments(0)

キヨセタヨリ 064 「秋」

「キヨセタヨリ064」
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 リルケの詩
秋 (形象詩集ー富士川英郎訳)

木の葉が落ちる 落ちる 遠くからのように
大空の遠い園生が枯れたように
木の葉は否定の身ぶりで落ちる

そして夜々には 重たい地球が
あらゆる星の群から 寂寥のなかへ落ちる

われわれはみんな落ちる この手も落ちる
ほかをごらん 落下はすべてにあるのだ

けれども ただひとり この落下を
限りなくやさしく その両手に支えている者がある

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・私の好きな詩のひとつです。世のはかなさ、もろさをひしひしと感じるこの頃ですが、この詩の最期の言葉にいつも励まされています。

・けれども ただひとり この落下を
限りなくやさしく その両手に支えている者がある
・この「者がある。」という言葉に、リルケは自分の信仰を表しているのではないでしょうか。
・私たちの最後の希望は、「インマヌエル」、神共に居ますというお約束のもとに来られたイエス様にある。
・イエス様ご自身も、最後に弟子たちに「見よ、私は世の終わりまでいつもあなた方と共に居る」と約束されました。
・ヨハネ黙示録では、新しいみ国では、「神様が人と共に住み、人は神と共に住む。」と約束され、全ての人の涙を神様がぬぐってくださると記されています。
・世界の終わりは、神を求めるすべての人にとっては、全てを引き受けてくださる神様のみ手の中の安らぎの時。
平安! 感謝!

by minitayori | 2013-11-23 20:32 | Trackback | Comments(0)

キリエ「再来を望みつつ」

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 このキリエは共に働いてくださる、助け主「聖霊を待ち望む弟子」の姿を想像して作りました。混沌の霧の中で迷う羊のような弱い弟子たちに、神の助け主は降り、宣教の働きを助け導きました。今も願うものと神様の助け主はともにいてくださいます。

by minitayori | 2013-11-23 20:23 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 2013・11・24 ルカ21:5-19

2013・11・24 ルカ21:5-19  
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21:5 ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。6 「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」 7 そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」
 8 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。9 戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」
18 しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。19 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

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「礼拝に備えて」<髪の毛一本をも>
 教会の暦は一年の終わり、いわば年末を示している。この時、教会では、世の終わりの時を考える。
 いろいろなことを考えると、この世も終りに近づいているような様相を示している。政治も自然界も複雑怪奇になってきている。こんなときにどのような心で過ごすべきだろうか。

 昔のことになるが、東京で仕事をしているときに、故郷の母と兄弟とその家族をデズニーランドに招いた。ついでに東京タワーを案内した時、弟の息子(当時4歳くらいだったと思うが)がタワーを見上げて、後ろにひっくり返りそうになった。母も東京の人の多さと建物の大きさ、車の多さに、口あんぐりでした。
私が初めて東京に出ることになった時の東京の知識は、ラッシュアワーの電車で、ボタンが取れたり、靴が脱げたりする光景だった。神学校に入って、最初に文京区の教会に行った時、ボタンが取れないように、ビニールのジャンパーと運動靴でしっかり足を縛って、脱げないようにして出かけた。 しかし、電車はすいていて、恥ずかしかった。日曜の朝だったから。

今弟子たちのエルサレムでの驚きの姿を読んで自分のことを思い出した。田舎のガリラヤ周辺から都のエルサレムに出てきて、その美しさに度肝を抜かれている様子が見て取れる。
けれども、その様なこととは比べ物にならない驚きの時が来る。しかし、どのようになっても、「あなた方の髪の毛一本もなくならない。」イエス様が守ってくださるという約束の中に今私たちがいることを忘れてはいけない。何が起きても恐れるな、これがイエス様にある者の心得である。

by minitayori | 2013-11-23 20:13 | Trackback | Comments(0)

パンジー

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 施設の入居者のご婦人が丹精込めて植え続けている幾種類かの花。このパンジーはよく知られているのでうっかり見過ごしてしまうが、改めて写真にしてみると、見事な色艶です。この花特融の咲き方をしています。

by minitayori | 2013-11-23 20:05 | Trackback | Comments(0)