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 一輪の桜の花。この古木の最初の花。誇らしげに咲いていた

by minitayori | 2014-03-29 20:17 | Trackback | Comments(0)

 「ミニタヨリー080」

 「ミニタヨリー080」
 やっと春らしくなりました。アパートの近くに川越街道が通っているが、この道を通る風がものすごい。台風並みの時がある。帽子は飛ぶし、寒さも並ではない。
 この街道の風も少し柔らかくなった。近くの家々の庭にいろいろな花が咲き始めた。春休みになった孫娘と3人で近くの光が丘公園に行ってきた。桜はまだで、本当にちらほらの花を探して走り回る孫娘を追っかけて、写真を撮ってきたが、疲れました。
 満開の桜より、古木に蕾を付け、一つ二つ咲く桜の花が孫娘には新鮮な喜びだったようである。
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 1月まで私のいたケアハウスの、入口の向かい側にあった、白いこぶしの花も満開でしょう。光が丘の校園並木には、白いこぶしの花が咲きみだれていた。小鳥が止まっているようで、美しく、可愛らしい、懐かしい花姿だった。
 次の日曜日は、私たちの教会の主任牧師が海外出張のために、同じ教会の会員である別の牧師が説教をされる。私には司式のお役が回ってきた。音をとり、声を出す。なかなかタイミングが難しい。
声も出なくなった。司式者として40年も続けてきたのに・・・。静かに一人の信徒として神様に仕えるようにとの神様のお心かもしれない。




by minitayori | 2014-03-29 20:11 | Trackback | Comments(0)

桜咲く!

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 近くの光が丘公園に孫娘に連れられて行ってきた。桜がまだ早いかな、と思ったが開花した花を探して走り回る孫娘についてゆくのが大変でした。孫娘は満開の花見ではなく、たくさんの蕾の中に咲く花を見つけるのがうれしそうだった。こういう楽しみ方もあるのだと、孫に教えられた。
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by minitayori | 2014-03-29 20:00 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて  2014・3・30 ヨハネ9:13-25

2014・3・30 ヨハネ9:13-25
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9:13 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。 14 イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。 
 18 目が見えるようになった人の両親を呼び出して、 19尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」 20 両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。 21 しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。」 24 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」
 25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
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「礼拝に備えて」
 信仰生活の中で起きる事柄を、全て理屈で解決し、回答することはできない。むしろわからないことの方が多く、結局は神様の恵みのご計画だった、と信じるしかない場合が多いのである。
 私が続けてきたろう者伝道の中で、耳の不自由な人が歌え、意味がわかる歌、また若い人々も歌え、共に意味を共有できるようなやさしい歌を手話に訳してみんなで歌った。
 ろう者のクリスマスの時など、100人を超える方が来てくれた。会員のろう者や健聴者が一緒に手話で賛美をし、青年の有志はパントマイムで劇をしてくれた。
 いつのまにか手話コーラスという名前がついて、歌う人たちは白いシャツと黒いスカートに統一し、ろう者の方がコサージュを作ってくださり胸に飾り、見事な手話付きのコーラスをするようになった。
 10数人で始まったろう者の礼拝が、健聴者と一緒の礼拝になり、通訳者や奉仕者が集まるようになり、珍しい教会ということで礼拝の人数も増えていった。そしてクリスマスには、100人を超える人が集まった。
 活気ある教会は健聴者のクリスマスにも受け継がれ、100人を超える礼拝をしたいと願って、毎年3000枚のクリスマスのビラを教会のある文京区千石の家々に配って回った。数年たつとどこにポストがあるかも自然と覚えたものだ。
 これも伝道師時代に宣教師から身をもって教えられた伝道方法だった。古き良き時代なのかどうかわからないが・・・。
 さて今日の日課には、生まれつき目の見えなかった一人の青年の処遇を巡って、何人かの人が登場している。ファリサイ派の人々、青年、その両親、多分親戚や友人もいたことだろう。
 不思議なことに誰も彼が見えるようになったことを喜んでいない。また不思議な出来事の中に、神様のみ手が働いていることに気が付いていない。そしてイエス様を非難しているのである。
 25節  彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
 私たちも、神様の御心を自分の知識の中で理解することはできない。結果として、神様の導きと助けがあったことを、かろうじて信じられ、感謝する程度の信仰しか持つことのできない私なのである。
でもそれを、イエス様は非難はなさらない。そのままを受け入れてくださる。
私も牧師生活40年、信仰生活に入って55年になるのだが、私のようなものが50余年、信仰者として曲がりなりにも生きてこられたこと、この事実の中に、神様が共にいてくださったことを改めて信じることができるのである。
 「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
 今、あなたが生きているということが、神様のお支えがあるという証拠です。神様に愛されている大切なあなたが!


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by minitayori | 2014-03-29 19:48 | Trackback | Comments(0)

ピンクのボケの花

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 近くの公園にきれいに咲いていたピンクのボケの花。いろいろな種類があるのですね。
競い合わず、自分の美しさを誇らしげに咲いていた。

by minitayori | 2014-03-29 19:35 | Trackback | Comments(0)

白い椿の花

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 いつもの散歩道に白い椿の花が咲いていた。寒さにせっかくの花のも枯れかかったものが多かったが、その中からより美しいと思うものを見つけ出して写した。この花は家の前の駐車場の片隅にあった花でした。よく頑張った!

by minitayori | 2014-03-22 21:58 | Trackback | Comments(0)

「ミニタヨリ079」

「ミニタヨリ079」
(マザー・テレサの「主よ、私は信じ切っていました」より)

主よ、私は思いこんでいました。私の心が愛に漲っていると。
でも心に手を当ててみて、本音に気づかされました。
私が愛していたのは、他人ではなく他人の中の自分を愛していた事実に。主よ、私が自分自身から解放されますように。

主よ、私は思いこんでいました。私は与えるべきことは何でも与えていたと。
でも、胸に手を当ててみて、 真実がわかったのです。
私の方こそ与えられていたのだと。
主よ、私が自分自身から解放されますように。

主よ、私は信じ切っていました。自分が貧しい者であることを。
でも、胸に手を当ててみて、本音に気づかされました。
実は思い上がりと妬みとの心に、私がふくれあがっていたことを。
主よ、私が自分自身から解放されますように。
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以前に曽野綾子さんが紹介されていた本にあった文章です。昔の事で本の名前は忘れてしまったが、気になって、文章を書き写しておいた。今改めて読み返して、あのマザーテレサが、このような祈りをされたと知って、打ちのめされる思いがした。この祈りは自分自身が祈るべき祈りであると思った。
 もうひとつ、最近救われた思いになった詩を紹介します。

                      
                                    河野 進牧師

主イエスさま 谷をさらに下りねばなりませぬか。
お返事はきこえませぬ では もっと下ります。
どちらを向いてももう下りられませぬ。ここならよろしいでしょうか。

主はきびしくおこたえなさいます。
謙遜には谷底はありませぬ。わたしの十字架に会うまで下りてきなさい。

by minitayori | 2014-03-22 21:51 | Trackback | Comments(0)

ヤコブの井戸べで

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               ヤコブの井戸べにて
今週の聖書の場所をキリエにしたもの。

by minitayori | 2014-03-22 21:43 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 2014・3・23ヨハネ4:5-26

2014・3・23ヨハネ4:5-26
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4:5 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。6そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
 13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
 24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」 25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」 26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
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「礼拝に備えて」命の泉を求めて
 
「人は一人では生きられない。多くの物や人に支えられて、生かされ、生きている。その恩に報いるただ一つの道は、人を生かし、物を生かすことである。」
54年前に、勘当した息子(私)にはじめて送ってくれた父からの手紙の内容だ。たった一枚の筆書きの手紙だったが、父の思いを知って涙した。聖書学院の食堂で皿洗いのアルバイトを終わった後だった。
達筆な筆書きの字は未熟な私には読みづらいものだったが、身の程知らずに、無鉄砲に牧師になろうとして家を飛び出した息子への父の願いだと思った。
もう一通、神学校に入った時に送ってもらったやはり筆書きの手紙があった。「波紋」という題の詩だった。意味は小さな小石でも、水の上に落ちれば波紋を作る、その波紋はどこまでも広がってゆく。
小さな小石でも、愛を広げる人になれと、父は言いたかったのだろう。この二つの詩は今でも心に残っている。この父からの贈り物を、私は牧師生活の中でたびたび思い出した。その都度身が引きしまる思いがしたものだ。
さて、次週の日曜の聖書の日課には、一人の異邦人の女とイエス様との会話が記されている。愛を求めてやまなかったこの婦人は5回もの結婚をして、夫と別れ、まだ懲りずに別の男と暮らしている。孤独に耐え得ず、愛されることを求めて生きる一人の女性の悲しい姿が見える。。
イエス様が「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と言われたのは、誰が責任を持って愛してくださっているかを伝えたかったのだと思う。
神様こそ、命をかけてあなたを愛された。神様に愛されることを求めなさい。神様はその求めに応じるためにイエス様を十字架に付けられた方だから。心を神様に向けていよう。きっと心は愛で満たされるから。

by minitayori | 2014-03-22 21:38 | Trackback | Comments(0)

白い花のクリスマスローズ

 長女の家の鉢植えのクリスマスローズがよく咲いている。前号との薄紫と、今回は真っ白な花が咲いていた。みていると不思議な気持ちになる花です。e0191585_21283698.jpg

by minitayori | 2014-03-22 21:29 | Trackback | Comments(0)