花と蝶

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 小さな花が咲いていた。修養会施設の裏庭だった。参加者は散歩に出かけたが、私はパスして、夜の学びの準備と体力を守ることに専念した。それでもと思い施設の周りを散策。そんな私を慰めるように、道端に小さな花が咲いていた。見つめていると、どこからか蝶が飛んできて目の前の小さな花に止まって蜜を吸い始めた。小さな花、小さな蝶が一生懸命生きている姿は、すがすがしさと勇気を与えてくれた。ありがとう!

by minitayori | 2015-07-25 17:38 | Trackback | Comments(0)

「ミニタヨリ217」 ろう者部夏期修養会

「ミニタヨリ217」

 月曜から水曜まで、二泊三日で、小石川教会のろう者修養会に参加させていただいた。私が牧師になって始めた修養会。教会に集まるろう者の人々が、心を一つにすることができる場として計画された。
 それに通訳を志す人々も、ろう者との触れ合いの場として、この修養会が大切な役割を果たしてきた。これまで、ルーテル学院大学の福祉科の学生が何人も参加し、通訳者として育って行った。
 教会の礼拝で奉仕を続けている人、地域のろう者のために通訳者として奉仕をしている人。この交わりで志を一つにして、結婚に至った牧師夫婦や信徒の方もいる。
 今年で48回目になるが、私は自分の体力の限界を感じつつ、今年が最後のご奉仕になるかなと思いつつ参加した。引退してから何回か参加したが、今回は、中日に講演の働きをゆだねられ、一時間のお話をさせてもらった。
 原稿を暗記し、音声で話しながら、ろう者にわかりやすい手話で同時通訳する。目が悪くなったので、机に置かれた原稿はほとんど見えないから、お話の荒筋を頭に入れて、思い出しながら話し、同時に話す言葉を、どのような手話にすればろう者が分かってくれるか、その反応を見ながら、いろいろ手話を使い分けて話す。
 直立し、姿勢を正して、声と手で話す。思ったよりも体力を使った一時間だった。二時間までは余裕がありますと言われたが、五十分でギブアップした。
 ろう者の人々も、目で見て、頭で考えて理解してゆく。これくらいが丁度よかったようだった。
 五十回の記念の時にもと言われたが、二年後のことを約束できなかった。でも、このような時間を与えられて、幸せな、感謝一杯の三日間だった。このために支えて下さった方、また時間を与えてくださった牧師先生、招いてくださったろう者の人々にありがとう!と言いたい。
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by minitayori | 2015-07-25 17:30 | Trackback | Comments(0)

芙蓉

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 青空に高くそびえるようんに咲く芙蓉の花が、私は好きだ。心を明るくしてくれるような気がする。

by minitayori | 2015-07-25 17:23 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 

7月26日 聖霊降臨後第9主日 マルコ5:21-43
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5:22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」5:24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。
5:25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。
5:26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。
5:27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。5:28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。5:29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。5:30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
5:32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。 5:33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。5:34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」5:35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 5:36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。
5:37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。イエスは5:39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」 5:40 人々はイエスをあざ笑った。イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。5:41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。5:42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。人々は驚きのあまり我を忘れた。

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「礼拝に備えて」
今日の日課には二つの奇跡のお話が記されています。会堂司のヤイロの娘の癒し、そして12年間も出血が止まらなくて苦しみ、全財産を失ってしまった婦人の癒しの話。
ヤイロは娘の重い病を癒してくれるようにイエス様に頼んだ。
しかし、その途上で12年間も病気で苦しみ、全財産を失ってしまった婦人が、イエス様に触っていやされた話が挿入され、結局、イエス様は間に合わずヤイロの娘は死んでしまった。イエス様は「起きなさい」と言う一言で娘をいやされた。
 ヤイロはイエス様がすぐ来てくださることを願っていたのに、途中で婦人の出現で時間を取られ、結局は愛する娘は死んでしまった。この病気のために全財産を失った婦人も、イエス様の衣に触って病気がいやされた時、恐ろしくなり震えていたと記されている。とんでもないことを願ってしまった、やってしまった、と恐れていたのだと思う。
  マルコはこの場所にどのような意図で二つの奇跡の物語を記したのだろうか。ここで神学的な説明はできないが、言えることは、イエス様はどんなときにも最善を尽くしてくださる、ということ。
 しかも、会堂司という地位ある人にも、全財産を失った人にも等しく愛と恵みをもって、一番良いことをしてくださると言うことではないだろうか。願うことが、イエス様に受け止められることを信じて、任せ切れるかどうかではないだろうか。
今日の命は神様が必要としてくださって、与えてくださった命。み心のままになさってください、とイエス様を信じて任せ切って生きること、あなたにも神様はその様な信仰に生きることを望んでおられます。


by minitayori | 2015-07-25 17:19 | Trackback | Comments(0)

猫じゃらし

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 道端の雑草の中に懐かしい花?があった。昔、迷い込んできた子猫をこの猫じゃらしで遊んだことを思い出した。亡き父も、兄も、そして私も笑顔で遊んでいたっけ!

by minitayori | 2015-07-25 17:13 | Trackback | Comments(0)

ブーゲンビリア

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 近くのブチィックの看板娘ならぬ、看板花。この花の名前を聞いてからブティックのご主人とあいさつを交わすようになった。花の取り持つ縁でしょうか。

by minitayori | 2015-07-18 18:35 | Trackback | Comments(0)

ミニタヨリ216

「ミニタヨリ216」
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国会では、重要な法案が、強行採決されてしまった。日本中の各所で反対運動が起こっているのに、無視されてしまった。数の上での民主主義と言われれば、前回の選挙の時に、今の政府の思惑を見抜けなかった私達の責任も大きい。 次の選挙には心して取り組もうと思った。
前の戦争も、国民の意思等無視されて、戦争の深みにはまって行った。資源の乏しい日本では、鍋釜まで強制的に拠出された。
私の家は、豊橋で大空襲に合って命からがら逃げ出したが、その時、大切な物は家の庭にあった井戸の中に放り込んだ。落ちついてから家を見に行った父が、肩を落として帰ってきた。井戸の中に焼夷弾が落ちていて、丸焼けになっていたのだ。父が持ち帰った焼夷弾は、焼け焦げて、六角形だった。沢山まとめて縛るのに都合がよいからだと、大人が話しているのを聞いた。
確かに、田んぼの中に逃げて、空を見上げていた時、B29から落下傘につるされた大きなものが上空で花火のように爆発して、ばらばらと町に落ちてきて、一斉に紅蓮の炎があがった。あれがそうだったのかと思う。
年月は恐怖を忘れさせる。しかし、軍備を強固にすれば、張り合う国ができ、どこかで、小さな炎が大きな炎に広がってゆく。戦争の残酷さはどこでも同じ、弱い人が犠牲になる。
昔、私の家庭集会にバンコクの青年三人が出席し証をしてくれた。彼らの家族、祖父母が家族の目の前で日本軍の銃剣で刺殺された。その話を父から聞いて、日本を憎んだそうだ。しかし、イエス様に出会って、憎しみを愛に変えることを学び、今は平安を得ている、日本のために祈りたいと言ってくれた。
今もアジアの人々は、戦争の悲惨さを身近なものとして語り継いでいる。沖縄の人々は私の経験とは比べものにならないほどの悲惨な経験をしている。まだ家族の遺骨を探している人がいる。日本に、近隣諸国に、戦争の怖さ、悲惨さを目撃し、忘れることのできない傷として負い続けている人がいる。
戦後70年の平和憲法、いやこれからの恒久的に守らなければならない平和憲法こそ、日本の宝、贖罪ともいうべきものではないだろうか。大切にしたい。

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by minitayori | 2015-07-18 18:22 | Trackback | Comments(0)

ポピー

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 雑草の間に可憐な花が咲いていた。小さな花が互いに助け合って咲いていた。花も美しかったが、みんなで一緒に一生懸命咲いている姿が美しく思えた。

by minitayori | 2015-07-18 18:13 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて

7月19日 聖霊降臨後第8主日 マルコ4章35-41
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◆突風を静める
4:35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。 36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
4:37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
4:38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
4:39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
4:40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
4:41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

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「礼拝に備えて」
 信仰生活の中には、平安な時ばかりではなく、あらしの時も、沈没しそうになって絶望しそうになる時もあります。牧師も信徒も同じようにこのような時に遭遇することがあります。
 自分の力が全く何の役にも立たないとわかった時、実はその時こそ、イエス様を身近に感じる時なのです。
 弟子達も、平安な船旅の間は、イエス様の存在を忘れていたのではないでしょうか。多分イエス様の行いや教えや、素晴らしいことを語り合い、その雰囲気にのまれ、安穏としていたのではないでしょうか。
 しかし、しばしの平安は突然の嵐と大波によって打ち壊されました。自分の経験や知識によってはどうしようもない、自然の猛威の中にほんろうされます。その時、彼らはイエス様の存在に気付きます。
 事もあろうに、この非常事態にイエス様は艫の方で眠っておられました。『弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。』 なんとなく、この言葉にとげを感じます。弟子達のイエス様に対する非難、自分達の恐怖の状態を理解しないで寝ているイエス様への憤りを感じます。しかし、その心の裏側には、イエス様への甘えと、助けを求める心も見えます。
 嵐に合い、自分の無力さを知ったからこそ、イエス様を身近に感じ、心から助けを求めている弟子達の姿といえます。教会に、自分の信仰生活に、飽き足りなくなったりしている時は、イエス様から心が離れている時ではないでしょうか。
 彼らの姿は、2000年前の弟子たちの姿ではなく、今の私の姿であり、あなたの姿であるかもしれません。人生の嵐・荒波に合った時、イエス様に祈り求めましょう。イエス様はあなたの身近にいて、嵐を静め、荒波をなぎに変えてくださいます。イエス様はあなたが喜んで生きること、平安であること、祝福に満たされて生きることを望んでいてくださいますから。
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by minitayori | 2015-07-18 18:08 | Trackback | Comments(0)

残り少なくなったアジサイ

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暑さでほとんどのアジサイは枯れたが、近くの小さな雑木林にひと固まり咲いていた。雨の中とても美しく思えた。花が美しく思える日、何か心が豊かに思える。

by minitayori | 2015-07-18 17:59 | Trackback | Comments(0)