朝顔

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 すじ迎えのお宅の大きくない庭にいろいろな花が咲いて、楽しませてもらっている。今は桔梗が咲いているが庭の奥のほうなので写せない。この朝顔は、数日前の青天の日に写したもの。命の尊さを天に向かって叫んでいるよう。一生懸命咲いています、と神様に叫んでいるような気がした。

by minitayori | 2015-08-29 20:21 | Trackback | Comments(0)

「ミニタヨリ215」

「ミニタヨリ215」
 私の故郷は、愛知県の渥美半島の、真中近くにある城下町である。自然の豊かな土地で、田んぼや川があり、田んぼではタニシを取ったり、イナゴを取ったり、ドジョウを取ったりして遊んだ。また川では、泳いだり、魚を釣ったり、仕掛けを掛けてウナギを取ったりした。
 タニシは、せりと共に味噌あえにして夕食に出た。たまにウナギが捕まると、お店に売りに行って家計の足しにしたものだ。戦災で焼け出された家族は、両親は大変な苦労をしたようだが、私は自然の中でいろいろ楽しい思い出を作ることができた。
 夜なべをして縫物の内職をしていた母は、私が目を覚ますといつも仕事をしていた。徹夜の時もあったようだ。その母の肩をたたきながら、大きくなったら母さんに、りんごをまるごと食べるように買ってあげるからね、と約束した。しかし、考えてみるとその約束は果たしていない。
 その田舎は、今はすっかり変わってしまった。何年か前から、帰省は墓参りのためだけになってしまった。昔あんなに広いと思っていた道の小さいこと、大きいと思った家並みの低いことに驚かされた。昔泳いだ川は、小さな流れになっていた。故郷が変わったのではなく、私の故郷への思いが、望郷の思いの中で膨らんでいるからだろうか。
 故里は遠きにありて思うもの・・。でも、やはり故郷の思い出は秋の青空のようにさわやかなものだ。
それは私が働いてきた3つの教会の町にも言える。懐かしい思い出、語り合った仲間、祈りあった友がいる。最近、人生を振り返る時が多くなった。そして、様々な時に与えられた友人や、交わりを通して与えられた恵みを思い出しながら、感謝の思いに満たされている。
 そして残された人生を、いかに豊かに生きるか、何をすることが神様に喜ばれるのかを考えることが多くなった。私にしかできないことがあると思うので。

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by minitayori | 2015-08-29 18:08 | Trackback | Comments(0)

聖壇にささげられた花

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 先週の礼拝堂に飾られたお花。大好きなブルーの花に惹かれました。ユリと花の名前を聞いたのですが忘れてしまいました。トルコキキョウと聞いたような気がしますが、洋物でしょうか。

by minitayori | 2015-08-29 18:04 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 8月30日 聖霊降臨後14主日 マルコ7:1-15

8月30日 聖霊降臨後14主日 マルコによる福音書7:1-15
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7:1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。:2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。
7:3 ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
7:4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――
:6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
:8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」:9 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。」
7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。
7:15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」・・・・略

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「礼拝に備えて」
 私が昔修業した仕事は、表具師または経師師と言われる仕事だった。その仕事の内容とは別に、いろいろ学ばなければならないことがあった。その一つを紹介します。
 茶室掛けの、表装した軸物を持って依頼主に届けるときに、白足袋をはいて尋ねる。大体茶室に招かれ、その床間に軸物をかけ、お客さんの了解をもらって帰るのだが、多くの場合、その場で一服、とお茶を出される。
 職場ではしばしば親方が茶をたて、飲ませてくれ、いろいろ話してくれた。飲み方はわかっているつもりだったが、茶室でご馳走になるのは初めて。
最初の時、どうしてよいかわからず、固まっている私の様子を見て、その依頼主はにこにこしながら、形式にこだわらずお抹茶の苦さの中に、甘さがあることを感じられるように、楽しんで飲むのが、一番お茶に対して正しい礼儀だからね、と教えてくれた。
 後で、牧師になって、ろう者の会で、会員の婦人のご奉仕でお茶を学ぶ機会があったが、結構厳しい規則、手順、動作があるようだ。私達に教えてくださったご婦人は、「動作はお茶を楽しむ、その雰囲気を作る、味わうために少しづつ決まって行ったものです。全ての動作は『抹茶がおいしかった』 と言える心が一番大切なものですよ、と教えてくれた。
 今日の日課で、イエス様がパリサイ派の人々に教えているのは、規則にとらわれて、規則の本質を忘れていることの愚かさである。「教会は・・ねばならない。」の世界ではなく、イエス様が行われたように、愛を持って仕える世界を作る所です。
 キリスト者が生きる世界は、日本では厳しい。家族の目、周囲の目、職場の目、その中でキリスト者として生き行くことは決して楽なことではない。それでも、キリスト者はイエス様の心、愛を持って仕える続けることが必要です。忍耐を持って。
 私達がそれができない時、共にいてくださるイエス様が、隣人、家族を愛していてくださることを覚えていたい。
 マザーテレサは、テレビのインタビューで「あなた方はよく素手で重い皮膚病(インドでは伝染すると言われていた)の人を抱えることができますね。彼らの肌をさすることができますね。その手を握ることができますね。」と尋ねられた。
 彼女は笑顔で、「私達の前に、イエス様がその人を抱きかかえてくださいます。私達は彼らに触る時、イエス様の手に触れることができる喜びを得ているのです。」と答えた。テレビの司会者はその意味がわからずに、別の話題に変わってしまった、と聞いたことがあるた。
 私達はみ言葉を実行する時、イエス様に触れる喜びを、イエス様と共に生きる喜びを、味わっていきたいですね。どこででもイエス様は一緒にいてくださる。心が折れそうになる時、一番大切なことを思い出そう。イエス様がこの人をどう思っていてくださるか、を考えよう。
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by minitayori | 2015-08-29 17:56 | Trackback | Comments(0)

ブドウの実

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 近くのレストランの壁に見事なブドウの実がなっていました。イタリヤ系のレストランで昼時になると若いご婦人が店の前に並んでいます。一度味を見たいと思いますが、この行列を見ると食欲もなえてしまいます。

by minitayori | 2015-08-29 17:44 | Trackback | Comments(0)

オシロイバナ

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 昔懐かしいオシロイバナがアパートの前の小さな花壇に咲いていた。可愛い花に似ず、語源ではミラビリス、=ミラクルからとられていて、「素晴らしい、とか、勇壮な』とかいう意味を持つそうだ。日本では実を潰すと白い汁が出ることからオシロイバナといわれるようになったとか!

by minitayori | 2015-08-22 17:08 | Trackback | Comments(0)

「ミニタヨリ213」

「ミニタヨリ213」
 豪雨のち猛暑、おかしな天候が続いています。家の中で、いつも冷房をつけて生活していることが、申しわけないように思う。仕事のため職場に行く人、行きに帰りに豪雨にあって、濡れながら走っている人、冠水した道路を運転している人、どんなにか心細いだろうと思う。
 昔東京で、ろう者伝道の集会の帰り豪雨にあった。江東区の、いわゆるゼロメートル地帯を走っているとき、道路が冠水し、マンホールから水が噴き出しているのを見たことがある。
 足立区での集会の帰り、線路の下の地下道を走ろうとしたときに、そこが冠水していた。その頃、私はまだ軽自動車だった。水深は明らかにタイヤを超えると思ったが、迂回する道がわからない。その時大きなダンプカーが来たので、そのすぐあとの、水が左右に分かれているところを、ダンプカーにぴったりくっついて地下道を渡った。
 渡り終えて、急に冷汗がどっと出てきた。振り返るとトラックの後の水が戻ってきて、道路の真ん中が山のようになっていた。完全に私の軽自動車は水没していただろう。若気の至りかもしれないが、よく勇気をもってトラックの後を走ったものだと思う。
 長野県の飯田にいた時のこと、松本で会議があり代議員の方を乗せて出かけた。大雨注意報が出ていた。山腹の道を走っているとき、豪雨に遭い、山から流れ出る水で道路が見えなくなった。相談して会議を休もうということになり、水の流れる山道を下って街に出たら、道路が冠水していた。そのころは軽自動車を卒業していたので、びくびくしながら川のような道路を走り、飯田の教会に帰りついた。
 早速、松本の会議場に電話したら、松本は晴天で雨など降っていないよと言われた。あれがまさに集中豪雨なのかと納得もしたが、途中で引き返してしまったのも臆病のなせる業、と恥ずかしく思ったものだ。
 熊本では何度か台風を体験した。その中で大きな台風は、時期は忘れたが、教会の屋根瓦が飛び(隣人に教えてもらったのだが)、家内は病院に行こうとして、あまりの強風に横断歩道を渡ることができず、怖いと言って帰ってきた。
 とにかく自然の猛威の中では、人間は自分の小ささを感じざるを得ない。今日の聖書の日課の中で、弟子たちが怖がっていたのも分かるが、そのような弱い時にこそイエス様を身近に感じていたいものですね。
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by minitayori | 2015-08-22 16:56 | Trackback | Comments(0)

サルスベリ

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 百日紅の花が咲いていた。もうこんな季節なのだと思った。サルスベリの木には皮がついていない。だから猿も滑って登れないのだよ。だからこういう名前がついたのだ、と誰か私の身内から聞いたような気がする。遠い幼い時の思い出だ。たぶん冗談の好きだった父親だったような気がする。でもよく見るとその説明が本当に思える。
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by minitayori | 2015-08-22 16:47 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 月23日 マルコ6章45-52 心が弱るとき

8月23日 聖霊降臨後第13主日マルコ6章45-52 心が弱るとき
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6:45 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。
6:47 夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。
6:48 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。
6:50 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。51 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。:52 パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。
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「礼拝に備えて」
 心が弱ると、イエス様の存在とお心が見えなくなる。キリスト者にとって、イエス様を身近に感じ、イエス様のお声とみ心を聖書から絶えず聞き、共に居てくださるイエス様を覚えて生きることは何よりも大きな力のもとである。
 弟子たちは前の週に五つのパンと二匹の魚で五千人もの人が養われたことを身近で体験していた。しかし、出来ごとには驚いたが、イエス様のお力と権威と憐みの力の大きさについては、理解していなかった。
 目で見たものに驚き、実際に経験したことに感心していただけなのである。その様な心の弱い弟子達に、イエス様は再び彼らだけで湖にこぎ出し、向こう岸に行く様に言われた。弟子たちは逆風に合い前に進むこともできないで、恐れていた。
 岸に残って祈られていたイエス様は、この弟子達の心の弱さを知っておられた。今度は、イエス様は荒れた海の上を歩いて、弟子達に近づかれた。
 弟子たちは、海の上を歩かれるイエス様を見て「幽霊」だと思って恐れて叫んだと記される。しかし、イエス様は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われて船に乗り込んだ。嵐は静まったと記されている。
 イエス様を見失う時、心が弱くなる。弱くなった時、人生の小さな荒波が恐怖となり、心を萎えさせる。自分の力ではどうしようもない出来ごとに出会っ時、立ちすくんでしまう。
 恐怖心が心を支配した時、柳の枝までが幽霊に見えると言われる。私は働きの中で多くの人を看取ってきた。多くの方がクリスチャンの方で、神様が用意していてくださる天国での住まいに住むことを喜びとして、その時に備えていた。そのお顔は安らかで、神様のお迎えを持っていた。
 人はいつか終わりを迎えなければならない。その時に「僕はなすべきことをなしてきました。」と、神様にすべてをゆだねることができるようにしていたいものです。
 少なくとも、その時までは、与えられた今日という命を精一杯、感謝しつつ、神様のみ手の中で平安で、懸命に生きていきたいと思う。

by minitayori | 2015-08-22 16:36 | Trackback | Comments(0)

コスモス

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 何年か前に昭和記念公園のコスモスがきれいというので娘に連れて行ってもらった。一面に咲いたコスモスの花は、確かに圧巻だった。しかし、飯田から駒ケ根にゆく途中に「花の道」があり、その道の両サイドに休耕田に一面に咲いたコスモスは、真っ青な空に映えてきれいだった。まだそのころはカメラがなかったので記録できなくて残念。中央アルプスの山頂の山に雪が積もっておりまさに絵に描いたようだった。

by minitayori | 2015-08-22 16:21 | Trackback | Comments(0)