白梅

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 梅の花には青空のバックが合いますね。

by minitayori | 2016-02-27 18:25 | Trackback | Comments(0)

「ミニタヨリ240」

「ミニタヨリ240」
 寒暖の差が激しくて、体がついていけない。自分の体調が機械にも影響するのか、パソコンの調子がいまいち良くない。メールが受け取れなくなり、送れなくなった。設定の仕方を忘れて何度やってもうまくいかない。
 この年になると出来ないことが増えてくる。今月20日喜寿を迎えたが、体調が芳しくないので祝う気にもなれない。ケアハウスの隣室にいた今は亡き老友が、毎朝朝食が終わると一時間くらい歩いていた。その後、駅の近くの珈琲館でコーヒーを飲んでゆっくりして帰るのが日課であり、楽しみだったようだ。雨でも雪でも出かけてゆく意志の強さに感銘を受けたものだ。今の自分を振り返ると、いささか恥ずかしい。
 そろそろ公園や川岸に植えられた桜の蕾がふくらみ始めた。「梅は咲いたが、桜はまだかいな?」つい口に出てくる。遠い昔の思い出、どこかで聞いた歌かもしれない。亡くなった父が酒を飲むとよく歌っていた歌の中の一つかもしれない。戦争で焼け出され、田舎に疎開して一から出直した父だったが、64歳の若さで召されていった。その後を託そうとした私は家を出て、全く違う道を進んだ。家を継いだ兄は、病弱の体で家族八人を父代わりになって支え、懸命に仕事をした。尺八を愛し、新しいことに挑戦することを恐れなかった。職人を育てる技能大学校を作り、次代を担う職人の育成に励んだ。その功績は高く評価され、現代の名工にも選ばれ、黄綬褒章も受賞した。しかし、82歳で上顎がんで召されていった。
 私はとりあえず、父の年齢を超すことが親孝行だと思った。あとはおまけの恵みの人生、何とか神様のお役に立ちたいと思い過ごしてきたが、ろう者伝道の後継者も育てられず、自らの足りなさを反省するしかない老後を過ごしている。でも一生懸命蒔いてきた福音の種は、いつかどこかで育ち開花するように、神様のみ手の中で育まれていることを信じて、今はすべてを委ねていきたい。
 先日、散歩していたら小さなお店があった。カクヤスという名前にひかれて入っていったが。小さな雑貨屋さんで、いろいろなものを売っていた。そこで万歩計を買ってきた。今まで持っていたものは、トイレに落としたり、洗濯機に入れて洗ってしまったりした。新しいのを買おうと見ていると、目標百万歩の万歩計があった。安くて面白そうなので購入した。
 まず一万歩、次に10万歩、何万歩まで累計で歩けるか自分の課題としてこれから歩いてみようと思った。単純な目標だが、前向きに生きて行けるように思う。人生先の先を見て楽しんで生きていきたいですね。

by minitayori | 2016-02-27 18:23 | Trackback | Comments(0)

満開の河津桜

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 池袋の教会に行く途中に一本の桜があった。「河津桜」と幹に木の説明の板がかかっていた。わたしが今年最初に見た桜、先週は7部咲きだったが、今週は満開、緑の葉が目立っていた。

by minitayori | 2016-02-27 18:16 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 2月28日 ルカ福音書13章1-9節

月28日 四旬節第3主日 ルカ福音書13章1-9節
◆悔い改めなければ滅びる
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13:1 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。:2 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。
13:3 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
13:4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。:5 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

◆「実のならないいちじくの木」のたとえ
13:6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。:7 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』
13:8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。:9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

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「礼拝に備えて」
 先週の礼拝の帰り、親しくなったある婦人がこんな話をしてくださった。私を教会に連れて行ってくれたのは息子だったが、そのうち私のほうが熱心になった。ある時息子が、聖書のブドウ園のたとえのお話を聞いてきて、どうにも納得できない様子で質問してきた。「イエス様が歩いていて、実のなっていないブドウの木を枯らしてしまった。季節はずれだったかもしれないが、たまたま通りかかって実がなっていないといって枯らしてしまったのはおかしい」というのです。
 息子は自分の行動の中で、突然イエス様が来られて「実をならしていない」というので切り倒してしまわれたことに恐怖を感じたのかもしれない。いろいろ考えられる範囲で答えたが、納得しないので、最後に「イエス様は神様だから!」と答えたが、それ以来息子は教会に来なくなってしまった、いまだにその答えをしたことを後悔している、というのです。
 あまりに真剣な話だったが、道路上の話だったので、詳しく答えることはできなかった。次週の礼拝で先生がどんなお話をしてくれるか、楽しみにしましょう、と言って別れた。その方は毎日曜日が終わると、次の日曜の日課を読んでいろいろ考えて礼拝に出るのだそうだ。真剣な会員の方が多いのだから、語るほうも真剣でなければならない、と遅きに失したが反省した。
 今日の日課の話とは少し違っているが、今日の日課では、農夫は切り取るのを待ってくれ、もっと肥料をやって実のなるように努力をしてみたいと主人の意向に反した行動をとって願っている。その肥料の代金はもしかしたら自費で出す覚悟をしていたかもしれない。この話には園丁、つまりイエス様の深い愛を感じる。すべての人を愛される神様の愛の御心を思うこと、同時に人が果すべき責任、つまり、自分の十字架を負って私に従えとおっしゃったイエス様は、自分に与えられた神の委託を、懸命に果たすことを求めている。
今は恵みの時、救いの時。今はイエス様が肥料(とりなしの祈り)を与え、実りを待っていてくださる救いの時であることを真剣に覚えなければならない。花は自分の咲くべき時のために、暗い土の中で冬の間一生懸命備えている。私たちも今日という日を、愛されている大切な時として真剣に生きていきたいと思う。

by minitayori | 2016-02-27 18:08 | Trackback | Comments(0)

梅と小鳥(実は枯葉)

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 近くのお庭に紅梅白梅の木があった。鳥が来たようなので写したかったが動いて焦点を合わせられない。感で何枚か写した。うまくいったと思ったのだが、家に帰ってよく見たら小鳥と思ったのは枯葉だった。残念でした。目が見えないのは幸いかもしれないですね。しばらくうれしかったから。

by minitayori | 2016-02-27 17:59 | Trackback | Comments(0)

青空の中で

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 青空に高く伸びた枝の先に、満開の梅の花びらが誇らしげに咲いていました。ピンクの花が青空に とてもきれいでした。青空は一生懸命咲いている花への神様の装いのように見えました。

by minitayori | 2016-02-20 18:18 | Trackback | Comments(0)

「ミニタヨリ239」

「ミニタヨリ239」
 練馬のアパートの近くにも、紅梅白梅が咲き始めました。晴れた日に、今こそ一番美しいとき、花の喜びを残しておきたいと歩き回って写真を写してきました。
 池袋教会の近くの河津桜も満開になっていました。なかなか桜と梅との区別がつきにくくて、桜が咲いていた!と家内に見せると、これは梅です、と訂正されてしまう。きれいな花が咲いているので写してくるが、いざ使うとなると名前がわからなくて、図鑑を何冊も並べて探すが見つかりません。
 時間切れになると、花は自分の名前を知らないが、自分の花を一生懸命咲かせている、それが伝われば充分と自分を慰めています。なかなか名前が覚えられなくて、昨年探した花の名をまた探している。自分の記憶の悪さに悲しくなることがあります。そんな時に、やはり物言わぬ花が、昨年と同じ駐車場の砂利の中で黙って咲いているのを見ると、小さなことに悲しんでいる自分が恥ずかしくなります。 今日まで春の日和で、梅の花は満開になり、桜の蕾も膨らみました。明日の土曜日は天気が荒れるとの予報、雨と風で花が散ってしまうでしょう。「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき。」それでもひと時のために精一杯咲いている花の美しさを、いとおしく感じます。
 道端の雑草も芽吹き始めました。この雨でどのような花を咲かせてくれるでしょう。どんなに小さくても、人目につかない道端でも、精一杯自分の花を咲かせている。神様は今日という日、あなたに与えた命がどんな花を咲かせるか、楽しみに見ておられます。明るい、楽しい、感謝に満ちた一日の花を神様にお返ししましょう。苦しみに出会っても、悲しみに出会っても、それをまとめて感謝の花束にして神様に祈りとともにお返しして、一日の床に就きましょう。お休み、明日も平和でありますように!

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by minitayori | 2016-02-20 18:13 | Trackback | Comments(0)

40年の梅の古木が満開です。

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 私の住んでいるアパートは、築40年と言われている。その当時に植えられたのであろうしだれ梅の古木が2本ある。今が満開。この花が咲くたびにこのアパートも大丈夫と言われているような気がする。3・11の大地震にも耐えたアパート。頑張っています。

by minitayori | 2016-02-20 18:03 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 2月21日 四旬節第2主日 ルカ福音書18章31-43

2月21日 四旬節第2主日 ルカによる福音書18章31-43

18:31 イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。:32 人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。:33 彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。:34 十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。
◆エリコの近くで盲人をいやす
18:35 イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。:36 群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。:37 「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、:38 彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。:39 先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。40 イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。:41 「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。:42 そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」43 盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。

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「礼拝に備えて」
 この週のみ言でも、イエス様の御心と弟子たちとの思いとの隔たりが明らかになっています。イエス様が十字架と復活について語っているのに、弟子たちは理解できませんでした。
 イエス様はそこで、目の見えない人を癒すという奇跡をおこなわれるのですが、助けを求める目の見えない人の叫びに対しても、イエス様と弟子たちとの向き合う姿勢、心の差がはっきり出てきます。弟子たちは黙らせようとし、イエス様はこの助けを求める人に近づき、やさしく声をかけられ、彼の願い通りに、目を開かれます。
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 イエス様が弟子たちに求めていることは、助けを求める人の声に心を傾け、神様の愛の中に迎え入れるようにすることではなかったでしょうか。この弱い人、助けを求めている人への優しい心こそ、弟子たち、そして今日の教会の持ち続けるべき心ではないでしょうか。 昔、NCCの障害者特別委員会に属していたとき、全国のNCC加盟教会にアンケートをしました。「あなたの教会には障害を持っている方がいますか。そのためにどのような配慮をしていますか。」という問いでした。 返信は5、60通だったと思いましたが、障害者がいてスロープの施設がありますとか、エレベーターがあります、手話通訳が常時礼拝で通訳しています、点字の聖書が置いてあります、段差をなくしています、等々でした。このようなうれしい答えの中に、一通ショックを覚えた答えがありました。「うちの教会には幸いにも障害者がいないので、何もしていません。」という答えがありました。
 「すべての人に福音を伝えなさい。」 イエス様の弟子たちへの最後の命令でした。すべての人が福音のみ言を受けるべきであり、教会は障害者、弱者といわれる人がいてこそ、イエス様の御心が生きている神の国のみ言の具現化されたところであると私は思っていただけに、ショックでした。
 マタイ11章に洗礼者ヨハネが牢獄から弟子を遣わして、「イエス様が私たちの待っていた救い主ですか?」と尋ねさせたときに、イエス様は「私の周りをごらんなさい。目の見えない人は見え、耳と口の不自由な人が神様を賛美している。」
救い主のおられるところに、このような愛の交わりがあることを示されたのです。
 イエス様の受難の予言と目の見えない人の癒しとは、神の国の始まりを弟子たちに強く印象付けているのです。昔は人口の10%が障害者であるといわれました。今は高齢化によって健康を害し、弱者になっている人が増えています。私もその一人になりました。このような人々への優しいまなざし、憐みではなく、神の国の一員として交わりを生み出す愛にあふれた教会であることが、今の宣教に必要なことではないでしょうか。四旬節、この時にイエス様のご受難の意味と私たちへ何を求めておられるかを、考え受け止めていきたいと思います。


by minitayori | 2016-02-20 17:57 | Trackback | Comments(0)

レンテンローズ(クリスマスローズ)

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 娘の家の小さな庭に鉢植えで咲いていた。クリスマスローズと一般に言われているようだがレンテンローズという名前もあった。花言葉は「固い愛情」写真を写しながら、孫が大切に育てているという言葉を思い出した。固い愛情で結ばれる家庭であることを願いつつカメラに収めた。

by minitayori | 2016-02-20 17:44 | Trackback | Comments(0)