ハナカンナ

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 カンナは語源的には「アシ」を意味し、茎の長さから杖ともいわれるそうです。花言葉は「永遠」または永遠の友」。自分も杖をつき始めて、杖が永遠の友になりそうで、この意味を納得していますう。

by minitayori | 2016-07-30 21:19 | Trackback | Comments(0)

 「みにたより262」

 「みにたより262」
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梅雨明けと共に真夏の太陽が、いや真夏の空が帰ってきました。抜けるような青さに真っ白な雲の色に見とれていましたら、頭がくらくらしてしまいました。でも私はこの夏の空と白い雲が好きです。今年はこの暑さについてゆけるような体力があるかな?と少し不安になりながらも、何とかこの夏を楽しく乗り越えようと考えています。
 私達に与えられている時は、永遠に続くものではないことを、最近は特に身近に感じます。同年代の人の訃報の知らせに、自分の時が近づいてくるのをひしひしと思います。家族では兄は83歳、母は97歳、父は67歳で召されました。熊本に居るときは父親の年を越えることが責任のように感じていましたが、母までは無理でも、兄の年までは、兄のように自分の出来ることを精一杯遣り通して生きていたいと思います。
 でもそのこと(人の一生の長さは)はわたしたちにはわからない。生まれた時から私達は、自分の決められた時に向かって歩み始めているのですね。「一日一生」と言う題名の本を私は大切に持って繰り返し読んでいました。一日を一生の様に生きよう!と言うのです。
 朝起きたら、今日の命を与えられたことを喜び、感謝して、神様が生きよとおっしゃっていてくれる、私の今日の使命を信じて、喜んで生きよう。そして、一日が終わったら、「神様、今日の命、ありがとうございました」と、感謝してお返しして、安らかに神様のみ手の中で休む。この繰り返しができたら、一生は感謝に満たされて生きることができるというのです。e0191585_20592018.gif 
 消えては生まれてくる夏の青空の白い雲、私もこの雲のようでありたいと思います。誰かが見て、美しいと思ってくれるような、一時を過ごしたいものです。一日一生。あなたの人生もかくあってほしいと願っています。



by minitayori | 2016-07-30 21:08 | Trackback | Comments(0)

ムクゲ

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 ムクゲがこの暑さの中一生懸命に咲いていた。前日の小雨の時には生き生きとしていたのに、暑さのせいか少し疲れて見えた。「がんばれ!」そしてありがとうきれいな花で慰めてくれたね。

by minitayori | 2016-07-30 20:54 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 7月31日  ルカ福音書11章1~13節

 7月31日 聖霊降臨後第11主日 ルカによる福音書11章1~13節
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11:1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
11:2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。
11:3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
11:4 わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
11:5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
11:6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
11:7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
11:8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
11:9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
11:10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
11:11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。:12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
11:13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

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 「礼拝に備えて」
 今週の日課は、主の祈りの教えとして有名なところです。教会の礼拝では必ずこの祈りを一回は全員で唱えます。ただ一番怖いのは、唱えるだけでその意味を考えることがないのでは、という懸念です。
 礼拝というのは、心を合わせて神様の前に立つと言うことです。そこには様々な人々が集まっています。その様々な人々が、年齢も貧富の差も、社会的な地位をも超えて、そこでは一つ心になります。なぜなら、神様の前に同じように心を低くして集まるからです。
 心を低くしてといえば、神様の御子であったイエス様が、神の子であることを捨てて人間の姿をとり、十字架に至るまで神様の前で身を低くして、従順であって下さいました。そのイエス様の行為にしたがって、神様の前でも人の前でも、皆人間は同じ価値を持つ大切な神様の子である、いや神様の子とされている、このことへの感謝の思いから、クリスチャンはイエス様にならって、神様の前にも人の前にも、同じ神様に愛されている者として立つことができるのです。
 最近、障害者の施設が、誤った考えを持つ人によって襲われたという、凄惨な事件がありました。社会に役立たない人間は抹殺されてもよい、という思いがあったようです。これは、役に立つという事を、自分を中心にして、誤って考えています。身近では都知事選挙で各候補ともに、都民の皆さんと一緒に!という言葉をよく使っています。逆に政治が一般市民の心から離れていたことを物語っているように思えます。
 それはイエス様の時代でも同じであったでしょう。ローマの支配下にあって自己保身に走った上層階級の人々がいました。だからこそイエス様は弟子たちに、いやその後にイエス様を信じる人々に、「主の祈り」を唱えつつ考えてほしいことがあったのです。この祈りの冒頭の一節の中にその御心が凝縮されていると思います。
「天にましますわれらの父よ。」 私たちはこの祈りをどのように祈っているのでしょうか。
「天にまします、」とは、天を見上げる心を持つということです。私たちは、自分や人ばかり見て生きていないでしょうか。そんな心をもう一度、天の神様の御心に向けてごらん!と教えられるのです。
「われら」とは自分だけのことを考えないで、私たちはみんなで生きているのですよ。助けられて生きていることを覚えて、たがいに感謝しよう!
「父よ」、神様は罪深いものにとって恐ろしいさばきをなさる聖なるかたです。しかし、イエス様による神様の愛を知ったものにとっては、聖なる父は、私やあなたを「御子をくださるほどに愛して下さる愛の方」です。だから,親しく「父よ!=お父さん」と呼ぶことができるのです。
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 ある方がこの祈りを、私たちがかつて失い、しかし、今心から探し求めている事柄への祈り、願いだと言われました。天を見上げる心、隣人をわれらと思える心、神様を父と親しく呼べる心、その回復のための祈りであると。それは、イエス様の祈り、わたしたちへの愛の思いなのです。
 あなたも主の祈りによって、この心を願っていましたか? そうでなかったら次の日曜日から、いや今日からこの思いで、心を合わせて祈ってみましょう。


by minitayori | 2016-07-30 20:47 | Trackback | Comments(0)

クチナシ

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 八重のクチナシの花。ケアハウスの教会の裏庭で、病院の方に向かって咲いていた。そこにはホスピス病棟があった。ケアハウスの友人(士官)であった方が、先月ここから天国に召されていった。よくお話しされる方だったが、今はクチナシ。物言わぬお方になった。でもこの花を見ていると「ハレルヤ!感謝します。」口癖のように語られた声が聞こえてくる。

by minitayori | 2016-07-30 20:37 | Trackback | Comments(0)

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 なぜか不思議な独特の感覚を与えてくれる花です。さすがに暑さがこたえているように見えました。

by minitayori | 2016-07-23 20:51 | Trackback | Comments(0)

 「ミニタヨリ261」

 「ミニタヨリ261」
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 今日の練馬区は、25度で肌寒いくらいでした。10度も差のある日々がいつまで続くのでしょうか。なんとなく気力が出ないし、することも遅くなります。この寒暖の差の激しさに、身体が戸惑っているのでしょうか。
 昨日は、ベランダの前の裏庭に、きれいな花が咲いているのをみつけました。ノウゼンカズラのオレンジ色の花でした。庭の松の木に、何か、つるがからんでいると思っていましたが、この花だったのですね。緑の松の葉の中に、ひと固まりの花でしたが、とてもきれいに見えました。他の場所でも写したことがあるので、どうしようかと思っていましたが、写してほしいと叫んでいるように感じたので、カメラを持ってきて写しました。
 安心したのか、今朝見ると花が散っていました。花の声を聞いて、写しておいてよかったと不思議にホッとしました。まだ目がよく見えた頃、説教壇から会衆を見ると、皆さんの心と糸でつながっているように感じることがありました。時には、ある一角だけ、妙に寂しく暗く感じることもありました。ろう者伝道をしていて、言葉ではなく、顔色や動作の中で語られている心を読みとる、そんな癖や感覚が、自然と養われて行きました。この人は分かっていないとか、心に届いていないなー、と感じて、その場でわかるように言葉を変えることもありました。今は現役を退いているので、その様な目では人を見ることはなくなりました。いや鈍ってきたというべきかもしれません。その分、花に向かう時に、耳を傾けるようにしています。若い花、散り際の花、それぞれに表情があります。その声を聞いて、心で話し合うのも楽しいですね。最近は天候不順であったり、暑すぎたりで、遠くに出かける機会が少なくなりましたが、身近にもいろいろな花があるので、小さな花と語り合っています。
 今週の月曜日、3連休最後の日、時間が取れたのでどこかに行きたいと思ったのですが、足が重く感じたので遠出はやめて、近くのデパートの屋上にできた「モネの蓮池」(?)をテレビで紹介していたので、見に行ってきました。暑い日差しにもかかわらず、地下鉄一本で行けるところだったので楽でした。
 デパートの屋上に行くと、ビヤガーデンの真ん中に、小さな噴水池のような所があり、そこに三株ほどの蓮の塊があっただけでした。テレビでは、夜にライトアップされた、幻想的な池の様子でしたが、照り輝く日光の下では小さな池。暑くて、写真だけ写して、早々に退散しました。それでも写真を見ると、きれいですね。暑さの中、待っていてくれたようで、改めてありがとう!と心で言いつつ家に帰りました。
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 熱中症にならなくて良かったと思う一日でした。皆さんも熱中症対策に、まめに水を飲んでくださいね、

by minitayori | 2016-07-23 20:46 | Trackback | Comments(0)

都会の蓮池

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 周りの喧騒にもかかわらず、照り輝く太陽の日差しにも負けないで美しく咲くハスの花。モネの蓮池ではないが、蓮の花は同じ、一生懸命美しく咲き、人々の目を慰めていました。

by minitayori | 2016-07-23 20:40 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 7月24日 ルカ音書10章38~42節

 7月24日 聖霊降臨後第10主日 ルカ福音書10章38~42節
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10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

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 「礼拝に備えて」
 今週の日課は、マルタとマリアという姉妹が、立ち寄られたイエス様を、全く違う方法で歓待したお話が記されています。忙しくごちそうを作る姉のマルタ、イエス様のそばに座って、イエス様のお話を聞きいるマリア。マルタは忙しさのあまり、イエス様にイライラをぶつけてしまい、イエス様にいさめられました。
どこの教会を見ても、一番忙しく働いているのは婦人会。(最近では女性会と言っている教会が多いようですが。)確かに、教会の歴史は婦人たちの奉仕によって支えられてきた、とも言えるのではないかと思えるほどです。イエス様の亡骸を墓に葬ったのも婦人たち、復活に最初に出合ったのも婦人たち。つまり、婦人たちの、イエス様に対する愛と献身の結果ともいえます。パウロを支えて、ピリピに教会を作る礎を作ったのも、ルデアという婦人でした。この女性は、その後もパウロの伝道を、献身的に支えたことでも有名です。
私が牧会したある教会は、フィンランドの婦人たちの献金によって作られたと聞きました。決して豊かではない国のご婦人たちは、乏しい中から献金し、支えてくれていました。昔、招かれて訪問した、北の国フィンランドでの話では、ずいぶん長い間、日本の人々の魂のために祈り、宣教師が働く費用を献金し続けたのです。ある村で挨拶をする機会が与えられました。挨拶の後、50歳くらいの男性が、涙を浮かべながら近づいてきて、大きなグローブのような手で私の手を握り、「祖母の時代から90年、日本の魂のために祈り続けました。その日本から牧師が来てくれたことを、今は天国にいる祖母も母も、きっと喜んでいます。神様が私達の祈りを聴いてくださった」と言ってくださいました。
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 決して豊かではない小さな村の人々が、冬の間編み物をし、バザーをして、日本のために献金してくれたことも聞きました。自分の家庭を豊かにするためよりも、イエス様の大きな愛に応えることを第一にしていることを知り、感動し、感謝しつつ帰国しました。
 今日の日課で、マルタとマリアの姉妹の、イエス様に対する心の様子が記されています。姉のマルタは、イエス様が来てくださったことを喜び、ご馳走を作ってイエス様をもてなすことに心を注いでいました。あれこれ作ってイエス様に喜んでいただきたい、と思っていたのでしょう。
 「忙しい」と言う日本語は、心を亡くすという文字で作られています。イエス様をもてなすということに一生懸命になり、イエス様が喜んでくださることは何かを、考えるゆとりがなくなってしまいました。妹のマリアが、イエス様の足元に座ってイエス様のお話を聞いている姿が腹立たしくて、もてなすべきイエス様に向かって文句を言ってしまったのです。「悩み」=心+凶になってしまいました。
 十字架の前の大切な時間を裂いて、この姉妹の所にイエス様が来られたのは何のためでしょうか。このイエス様のお心に心を向けるべきではなかったでしょうか。マルタがイエス様のためにご馳走を作り、歓待したいという事は彼女の精いっぱいの愛情の表現だったでしょう。そのことを否定しているのではありません。その忙しさゆえに、イエス様を喜ぶ心、イエス様のお心に向かい合う心を亡くしてしまったことが問題なのです。
 ある教会に赴任した時、婦人たちが朝早くから来て、昼の御馳走を作っていました。礼拝のぎりぎりまで準備をして、前奏が始まるころ礼拝堂に入ってきます。心忙しくて、礼拝への備えも難しい様子でした。私は、ご婦人たちに感謝しつつも、自分の魂のために、前奏の前には礼拝堂の席につける範囲の食事にすることを提案しました。ご馳走でなくてもよいのです。近くでおにぎりを買って来てもよいのです。イエス様が一番喜ばれるのは、心静かにみ言の前に立つという事ですから。
 ご婦人たちは、誰かがそう言ってくれるのを待っていたそうです。ゆっくり心を整えて礼拝をしたいと、ずっと皆さんが思っていました。でも、少しずつ前よりも良いものを、と思うようになってしまったのですね。 私達もいつもイエス様に心を向けて、イエス様が今喜ばれ、求められることに心を注いでいきたいと思います。


by minitayori | 2016-07-23 20:34 | Trackback | Comments(0)

ノウゼンカズラ

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 裏庭に松の植木に絡まっていたつる草に花が咲いた。ひと固まりの花ので見過ごしていたが、ノウゼンカズラというきれいな花だった。松の庭木に絡まったひと固まりの花、きれいだなーと思って見ていたら、写真に収めてくださいという声が聞こえてきたような気がした。雨の日が続いたのでそのままにしていたが、昨日「早く写して!」という声が聞こえたので、写真に収めた。今日見たら、散っていた。一番美しい時、最後の時だったのだ。聞く耳を持っていてよかった。

by minitayori | 2016-07-23 20:16 | Trackback | Comments(0)