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床下の宝石

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 アパートの床下の花がなくなってしまったと、さみしく思いながらよく見ると小さな花が咲いていました。床下をのぞきこまなければ見えないような小さな花でした。誰にも見られなくても、一生懸命咲いている花がいじらしくなりました。こんなにきれいな花なのに、床下で咲いている。自分に定められたところだから、文句を言わないで懸命に咲いている。「床下の宝石」と名づけました。
  河野 進先生の詩を思い出した。
      
          「花」
花は自分の美しさに 気がつかない。
自分の良い香りを知らない
どうして 人や虫が喜ぶのかわからない
花は 自然のままに 咲くだけ 香るだけ


by minitayori | 2016-09-30 18:18 | Trackback | Comments(0)

 「みにたより271」

 「みにたより271」
 この「ミニタヨリ」、初任教会の小石川教会で始めたもの。一週間に一度、教会で顔を合わせる人が、礼拝後共通の話題もなく、黙って教会から帰てゆく姿を見て、教会に来て、みんなと話せる話題を提供しようとして、はがきで「ミニタヨリ」を始めた。
 最初は10数人だったが、やがて50人を超えるようになり、100人を超えるようになった。私が勝手に始めたこと、私費で始めていたが、このはがきに献金してくれる人ができて、50枚、100枚のはがきの献品があり、不思議に続けられた。何も大したことは書いていなかったが、週の半ばに教会の様子がわかることで、教会に親近感を持ってくださったのだと思う。
 家の事、庭の落ち葉や、小さな花が咲いたこと、訪問の途中で感じたことなど、牧師の目で見、感じたことを伝えた。当時は、はがきを三段にし、最初の段には、次の礼拝に備えてみ言葉の短い解説。中段には牧師の目で礼拝で感じたこと。そして下段にはよもやま話を綴ってきた。
 はがき通信は2000号まで続ける予定だったが、病気のために一年早く引退したために達成できなかった。何とか目標を達成したいと引退後も続けようと思ったが資金が続かなくて、インターネットのブログで継続することになった。2000号に到達してから、いまの「きよせたより」に代わり、何人かの人に見てもらうようにした。続けて欲しいと頼まれた方には、プリントアウトして2週に一回くらい送らせてもらってきた。
 中古のパソコンが壊れるたびに、これで終ろうと思ったことがあったが、弱気になったとき必ず、誰かが励ましのコメントをくれるので、今まで続けることができました。最近ではごく親しい人が、「ブログやめさせては駄目よ!先生ボケるから。」と厳しい励ましの言葉を妻にくださった。
 今回が通算2271回目になる。2300回まで、いや2500回までと、自問自答をしながらの今日この頃。物忘れ、字忘れ、誤変換など、厳しくチェックしてくれる人がいるので、なんとかお送りしている。
 はがき1号から保管してくださった方がいた。お二人が段ボールで届けてくださった。ガリ版印刷の見にくい一号から、和文タイプの抜けてしまった見にくい文字の物まで、貴重な資料だった。今になって整理しようと探しているが、牧師の転居は次の人が来るので、短い時間でしなければならず、とりあえず必要なものだけを持って行く、必要最低限の物以外は捨てるという決断の中で、処理されてしまったようだ。20数年の手書きの説教も処分してきた。悔やんでも仕方がないので、神様にお返ししたと思っている。
 私はあなたの僕、なすべきことをなしたに過ぎませんと、素直に思っています。
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by minitayori | 2016-09-30 18:02 | Trackback | Comments(0)

マダカスカル・ジャスミン?

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 散歩の途中で垣根の下から顔を出していたかわいらしい花。よく見る花のような気がしたが、なかなかはなの名前が見つかりませんでした。マダカスカルジャスミンの花が似ていたので、?をつけて書きました。葉が少し違うようでしたが、私の本には見つかりませんでした。知っている方教えてください。

by minitayori | 2016-09-30 17:45 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 10月2日  ルカ福音書17章1~10節

10月2日 聖霊降臨後第20主日 ルカによる福音書17章1~10節
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17:5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、:6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。:7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。:8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。:9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。
17:10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
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 「礼拝に備えて」
 私は、自分が召された仕事にふさわしいとは思えなかった。学歴も知識もない、しかも口下手で負けず嫌いで・・と数え上げれば、身はすくむ思いであった。聖書学院を出て、初めて教会で働き始めた時、3カ月余りでその教会の責任者である宣教師が、病気で帰国してしまった。それから次の宣教師が就任するまで、一人で教会を守らなければならなかった。
 日曜日は、教会学校から始まり、信仰入門の集まりを行い、礼拝では奏楽と司式と説教まで一人で行った。水曜日の聖書研究会も行った。聖書学院で学んだ知識は、3カ月で底をついた。絞り切った手ぬぐいのように、語る言葉を失った。こんな私がこの働きを続けられない、と聖書学院の先生の所に泣きついた。
 その先生は、ブルーの大きな瞳に涙をいっぱい浮かべて、私の手を握り、「よかったね・・。そのままの弱い心を、神様にゆだねて生きるのですよ。神様がいつも一緒にいてくださるから・・」と涙を流して祈ってくださった。
 神学校を出て牧会に出る時も、こんな自分が、初めて教会に来る人にみことばを語り、もしその人が失望し、つまずいて二度と教会に来なくなったらどうしようと思うと、説教壇に立つのが怖かった。いつしか、説教前の讃美歌を歌う時に脈拍を数え、首にかけた十字架を握りしめ、「主よ、助けてください。」と祈り、説教壇に立つ時には、首にかけたストールに手を触れて上がるようになった。
 授按の時に、宣教師の先生が、卒業生にストールを贈ってくださった。その時、「これは『クビキ』、イエス様と一緒に説教壇に立ち、イエス様のお心を語る口になりなさい。」と言われたのを思い出していた。
 口で語り、手話で同時通訳をして語った20余年、たどたどしい言葉になり、手話も十分ではなかった。今思うと身がすくむ思い。それは、通訳がつく様になった最後の6年になっても変わらなかった。脈拍を数え、ストールに触って、イエス様のお心を語る口になろうと願ってきた。
 逆にいえば、私の人生は弱かったが故に、力がなかったが故に、神様に頼り続けた人生であったように思う。よい僕ではなかった。神様に迷惑ばかりかけてきた自分であったと思う。神様は沢山の信仰の友を与えてくださり、出来の悪い僕を支えてくださった。
 それを、今感謝を持って振り返ることができる自分であることが嬉しい。自分一人では何もできなかった。でもそれを支えてくださった沢山の信仰の友の力があった。そのお蔭で神様の僕であることができたことを、今感謝をもって振り返っている。

by minitayori | 2016-09-30 17:32 | Trackback | Comments(0)

ザクロの実

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 実りの秋の始まりでしょうか。近くの駐車場のザクロに実がついていました。この駐車場にはバナナの木もあり、まだ実りの姿を見たことがありませんが、いつか見られるのを楽しみにしています。

by minitayori | 2016-09-30 17:17 | Trackback | Comments(0)

トルコ桔梗

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 聖壇の花を写させてもらいました。礼拝を支える祈りの象徴でしょうね。いつもそのように感じてみています。

by minitayori | 2016-09-23 15:20 | Trackback | Comments(0)

「ミニタヨリ270」

「ミニタヨリ270」
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 台風が、関東地方を直撃するのではないかと、心配していましたが、今回も関東地方への直撃は免れました。しかし、風と豪雨は、各地に被害を出したと聞きました。繰り返し被害にあっている人々に心が痛みます。
 雨風を心配して、家の中に閉じこもっていると、足腰が弱くなってゆくようで、小さなアパートのわずかな空間で、足踏みしたり、郵便受けに行ったりして、健康維持に心がけています。
 同じアパートに、小学生が二人いる家族が、数家族住んでいますが、元気の有り余っている子供の、元気を発散させるのに、親たちが苦労しています。3階建のアパートの廊下を走り回っています。ドアを開けてぶつかったりしたら、けがをするのではと心配して、つい注意していましたが、かわいそうになって口を閉じることにしました。
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 老化防止に片足立ちがいい、一回一分で10分歩いたくらいの運動量になる、というので始めてみましたが、なかなか難しいものです。足が弱っていることに、改めて気がつきました。転倒が心配な人は、どこかにつかまってもよいから、一日二、三回するとよいそうです。現役時代の最後の任地は、街の中心部にあり、近くにデパートがあったので、雨の日は地下の食料品売り場から始めて、各階を散歩して歩いたものです。今住んでいる街には、その様な目の保養をしながら散歩するところがありません。しかし、まだ畑はあるし、住宅の庭に花を植えているところがるので、散歩しながら写真を撮っていますが、最近は、不審者が児童に声をかけたりすることがあって、住民の目が厳しくなったようです。
 でも、もう少し天候がよくなったら、散歩を楽しみたいと思っています。花ばかり見ようと下を見て歩いていましたが、朝の雲、夕焼けの雲も美しいですね。毎日見ていても、同じ姿がないので飽きることがありません。自然のなす芸術でしょうか。雲を見ながら、何の形に似ているか考えるのも楽しいものです
 もっとも、上を向いて歩いていると、つまずく恐れがありますので、塀にもたれるか、腰をおろして空を見上げています。変なおじいさん、というような眼で見る子供がいますが、あの雲なんに見える、赤ちゃんみたいだね、赤ちゃんが目を覚ましてあくびしているよ、いや羊だね、ライオン見たい!そんな話ができるような、警戒心のない、平和な時代になってほしいですね。老人のつぶやきです。


by minitayori | 2016-09-23 15:16 | Trackback | Comments(0)

聖壇のお花

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 毎週日曜日に聖壇の横に花が飾られている。会員のご婦人が早朝に来ていけられる。若かり時、土曜日の午後、奉仕くださるご婦人の横で見ていた、その方は花を生けながら、私は先生が明日どんなお話をするか考えながら生けているのですよ。少しでお役に立てるように祈りながら・・と言われて、感動したのを覚えています。礼拝が、ここでも祈り、支えられているのだと・・。今はその方90歳を超えて施設に入っておられるが、私を育ててくださったおひとりと思って、感謝している。
    

by minitayori | 2016-09-23 15:06 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 9月25日  ルカによる福音書16章19~31節

 9月25日 聖霊降臨後第19主日 ルカによる福音書16章19~31節
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16:19 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。:20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、:21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。
16:22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。:23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。:24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』:25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』

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 「礼拝に備えて」                  
ある金持ちがいた。彼は毎日贅沢に遊び暮していた。今日の聖書の話しはこの様な言葉で始ります。私たちは、人について語る時、愛すれば愛するほど、その人の存在に敬意を持って、その人を表現しようとします。しかし、今ここに示される金持ちは、有名人であり、町の人々から尊敬されていたであろうに、イエス様から「ある金持ちがいた」、しかも、彼は毎日贅沢に遊びくらいしていた、と言う表現でしか語られない人となっています。神の見るところと、人の見るところとは違うようです。人の見るところは表面的でしかありません。しかし、神様はもっと深いところ、心の中を見分けるのでます。勿論、彼が金持ちであることが悪いことであると、聖書は言っているのではありません。イエス様はこのお話の中で、何気なくその理由を語っています。それは、彼が自らの贅沢な生活のみに心を向けて、助けを必要としている人々に対して無関心であった、と言うことです。この彼の無関心さは、利己的な自己中心の心に裏付けられていることが問題でありました。彼の人生は、ただ自分のためにだけありました。
マザーテレサはある人に送った手紙の中でこう言っています。「今日の最大の病気は、らいでも結核でもなく、自分はいてもいなくてもいい、だれもかまってくれない、みんなから見捨てられていると感ずることである。最大の悪は、愛の足りないこと、神からくるような愛の足りないこと、すぐ近くに住んでいる近所の人が、搾取や、権力の腐敗や、貧しさや、病気におびやかされていても無関心でいること」。
聖書の世界、信仰の中では、人の持ち物、いや命をも、すべて神によって与えられ、ゆだねられている物であって、ゆだねられている者は、管理者として神のみ旨に従って用いることが、求められていたのです。富を与えられた者も、知恵を与えられた者も、健康を与えられた者も、そのすべてを神と協力して、神の恵みの働きに参加することが、求められているのです。このような世界に生きていたのに、金持ちは、富を自分のためにのみ用い、家の前に座っている、汚い乞食には無関心でした。彼(ラザロ)は、テーブルから落ちるもので飢えを満たしたい、とまで思っていた、と記されています。
落ちる、とは、投げ捨てられると言う意味であります。当時の食事の習慣として、手で食べていましたから、手を、水を入れた鉢に入れ、パンで拭き、テーブルの下に投げ捨てます。そこにいる犬が食べると言うこともあったようです。(マルコ7:24ー参照)飢えた人が近くにいるのに、汚れた手を拭ったパンをテーブルの下に捨てた、それが金持ちの態度であり、それでもよいから拾って腹を満たしたいと思った、それがラザロの姿でした。しかもラザロは、貧しいだけではなく、全身をできもので覆われて、そのできものを、犬が来てなめた、と書いてあります。何とも悲惨な姿です。
貧しいが故に、悲惨な姿ゆえに、彼はひたむきに神様に頼り、助けを求め、委ねて生きていたのではないでしょうか。イエス様は、金持ちの名前を挙げることをしていないのに、普通ならば、名も知れない乞食であった人の名をあげています。「ラザロ」それは、神が助けられる、神が哀れまれる、と言う意味を持っています。ここにこの物語が語りたい大切な所があります。
このことは、今の私達への大きな警告です。死は終わりではありません。死は、今の私たちの生き方への、裁きの始まりなのです。
今から、私たちはその時のために、よき備えをしていかなければなりません。今が救いの時なのです。永遠の神の国への歩みを、正しく始めようではありませんか。神を信頼し委ねて、日々を大切に、感謝しつつ、精一杯神様に仕えて生きて行きましょう。あなたもわたしもラザロの心も持って。


by minitayori | 2016-09-23 14:53 | Trackback | Comments(0)

なんの花?

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 先週の日曜日、数人の友人との帰り道、教会から10メートルくらいのところに、道から張り出していた花。みてくれと言わんばかりに、わたしたちを通せん坊した。さっそく写真を撮り、なんの花だろうという話になった。誰もわからない。家に帰って図鑑で調べてみたがわからない。で「なんの花だろうね?」という花にしようと思った。正式な花の名前はあるのだろうが、何の花だろうね?と考えるほうが長く覚えてよいのかもしれない。花も長く記憶のとどめておいてほしいと思っているように思ったから。

by minitayori | 2016-09-23 14:43 | Trackback | Comments(0)