雑草の中の花一輪

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 雑草の中の小さな花。鳥が持ってきたのか花一輪、底冷えのする公園の片隅で咲いていた。みんなで一緒のほうが楽しいのにと思ったが、「ここが神様に与えられた場所。ここで咲きます。」と震える声で囁いてくれた。おかれたところで精いっぱいに咲く花。学ばせられたひと時でした。

by minitayori | 2016-10-29 17:20 | Trackback | Comments(0)

「みにたより275」

「みにたより275」
 ずいぶん昔のことですが、知的障害を持つ、児童施設で働いている方のお話を聞きました。その施設では、成人になったら自宅に帰り、自立できるように支援をしていたのです。その苦労は大変であることを、教えてもらいました。
 その中の一つのお話に、一人の少女の教育で苦労したお話が、心に残っていました。多恵ちゃんと言う名の子は、一年後には、家に帰らなければなりません。家には病弱な母親がいますから、その手伝いをするように、家事や買い物ができるように、教育が計画されました。
 まず、お金の価値について、教えなければなりませんでした。硬貨で一円、五円、十円、五十円、百円、五百円を並べて、どれが一番価値があるのかを尋ねました。すると多恵ちゃんは、迷わず十円硬貨を指さしました。先生は、1,10,50,100、500円の中で、500円が一番多くの物が買えることを、教えたいと思ったのです。何度教えようとしても、多恵ちゃんは、自分の一番欲しいのは10円だと言い張るのです。先生たちは、どうしたものかと話し合いました。多恵ちゃんが、なぜ10円が一番良いと思っているのか、その原因を考えました。担任の先生が、ハッと気がつきました。
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 それは、一週間に一度家庭に電話をし、お母さんと話すのを楽しみにしていた多恵ちゃんの、嬉しそうな姿です。その日になると、お母さんからもらっていた10円硬貨をもって、赤電話の所に行って、お母さんに電話をし、楽しそうに話している姿です。多恵ちゃんにとっては、どのお金よりも、お母さんと話せる10円硬貨こそ、宝物であったのです。 10円硬貨が、心の支えだったのですね。価値の大小ではなく、その使い道が硬貨の価値を決めていたのです。神様は今、私達をその様に診ていてくださいます。あなたには、あなただけに与えられた大切な価値がある。どんなに小さく、無力に思えても、あなたの命しかできない働きがあるから、神様は命を与えていてくださるのです。 10円は、小さなお金でした。しかし、愛するお母さんと話せる、唯一の大切なお金でした。あなたには、あなたにしかできない、大切な働きがあるのです。自分の置かれたところで、自分に委ねられている働きをしましょう。置かれたところで、自分にしか咲かせられない花を咲かしている野の花のように・・。

by minitayori | 2016-10-29 17:14 | Trackback | Comments(0)

さざんか

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 もうこんな季節になったのか、サザンカの花。急な寒さであわてて咲いたしたような気がする。青い空に美しい。7年前に引退して東京に来た時、枯れかけたサザンカの花に無情の霙が降り注いでいた。寒さのせいか真っ赤になって落ちかかっている花弁に、がんばれと声をかけたのが、花とお話しするきっかけでした。

by minitayori | 2016-10-29 16:51 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 10月30日 ルカ19章1~10節

 10月30日 聖霊降臨後24主日 ルカによる福音書19章1~10節
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19:1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。
19:2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
19:3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。:4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」:6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
19:7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
19:8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」 19:9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。:10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

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 「礼拝に備えて」
 神様に救われるのは、どのような人でしょうか。人が見る価値観と、神様が考えられる価値観とは違います。私達人間は、何をしてきたか、何ができるかで、人の価値を決め、考えてしまうが、神様はその存在そのものを、貴いとみてくださいます。神様は人の心の中に、神様を慕う心、委ねる心をもつことを、求めておられるのです。豊かな知恵と、多くの能力をもつことが、悪いのではありません。その能力を、どのように使っているかを、神様は問われているのです。
 今日の日課では、徴税人ザアカイのお話が出ています。ローマの政府に雇われた、いわゆる公務員でした。ローマ政府のために、同国人のユダヤの人々から、税金を取り立てる仕事をしていたのです。純粋主義のユダヤ人は、異教徒であるローマの人々との接触を、極力避けていました。汚れがうつる、と考えていたからです。
 ましてや、そのローマの手先になって、自分たちから税金を取り立てるのですから、ザアカイは汚れた罪人であり、裏切り者のように考えられていたのでしょう。ザーカイには、心を打ち明けて話す友もいませんでした。彼にとっても、同国人に軽蔑されて生きることは、寂しい事でした。そこで、不正に税金を取り立てて、金持ちになることによって、その寂しさを埋めようとしていたのです。
 物や金にだけ頼り、心を赦して話ができる友のいない生活は、どんなに寂しいものだったでしょうか。今日の日課では、孤独の中にいたザアカイが、イエス様に会うために、群衆のいる所に出てきました。イエス様に会いたい、と思ったのです。しかし、背が低かったので、イエス様の近くに行けませんでした。そこで彼は、恥も外聞も気にせずに、イチジク桑の木に上ります。
 このイチジク桑は、ブドウ園の片隅に植えられて、旅行く人や貧しい人が、ぶどうに手を出さないように、配慮されて植えられていたものだと聞きました。貧しい人が飢えをしのぐための、愛の木であると同時に、憐れみの木でもあったのです。金持ちのザアカイ、傲慢に生活していたザアカイが、イエス様に会うために、その貧しさの象徴でもある木に登ったのです。イチジク桑の木に登るザアカイは、人々の目にどのように映ったのでしょうか。
今思い出しましたが、昔幼稚園の保護者の人に{ザアカイのキリエ}を作ってほしいと頼まれていました。イメージを考えて、いろいろ下絵を考えていたのですが、完成しないうちに、転任してしまいました。
 ザアカイの、必死にイエス様を見つめる目、そして、そのザアカイを見上げ、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と、イエス様が言われた時の、ザアカイの喜びに満ちた顔、目の表情を、どのように表現しようか、自分ならどんな表情をするだろうか、と考えているうちに、時が過ぎてしまいました。
 イエス様の、優しい、愛に満ちたまなざしと表情、ザアカイの喜び、考えているうちに、それがいつの間にか、自分とイエス様の会話になり、喜びがあふれ、涙が出てきました。キリエに表現しきれなくて、とても残念に思いました。
 今思い出して、この絵を、一生の最後のキリエにしたいなーと、思うようになりました。自分のために・・・。イエス様に会った喜びは、ザアカイを変えました。財産を分け与えて、友と生きる自分になろうとしているのです。イエス様の愛が、ザアカイを、他者のために生きる者へと変えていったのです。自分一人ではなく、共にいてくださるイエス様の、愛のまなざしの中に生きることの喜びを全身で表せる人生、その様な生涯を、あなたも送ってみませんか。
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by minitayori | 2016-10-29 16:42 | Trackback | Comments(0)

寒さに驚くバラの花

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 アパートの庭に咲いていたバラの花。急な気温の変化に戸惑っているようでした。家でもあわてて冬ものに入れ替えました。

by minitayori | 2016-10-29 16:32 | Trackback | Comments(0)

寒椿

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 花が少なくなった、と思っていたら近くの庭に寒椿が一輪咲いていた。特別にきれいに見えました。

by minitayori | 2016-10-22 21:53 | Trackback | Comments(0)

「みにたより274」

「みにたより274」
 プロ野球の話だが、先日ドラフト会議が行われて、指名されて新しい人生を始める若者たちの、喜びの姿を見ることができました。しかし、その一方で野球界を去ってゆく人もいます。惜しまれて去る人も、解雇されて去る人もいて、悲喜こもごもと言う感じがしました。
ある人のインタビューを見ていて、一つの言葉にひかれました。それは「ピンチはチャンス」と言う言葉でした。挫折でつぶれたり、過去の栄光の上にすがって生きて、人生を踏み外してしまう人もいますが、過去を生かして新しい人生を切り開くことの勇気が大切です。「ピンチはチャンス」と言う言葉は野球選手だけではなく、全ての人に言えるのではないかと思っています。
 人生は、やり直しがきかないといわれます。一人一人自分の人生を生きて行きます。その中で、逆境に合っても学ぶことは多いのではないかと思うのです。その時々に経験することを、たとえどのようなことであれ、自分に与えられた大切な経験として生かすことができるのです。
私は、中学を出てすぐに、家業を継ぐために職人の家に丁稚奉公に入りました。前にも話しましたが、この経験は、献身と言う道にはものすごくマイナスと感じたことが、しばしばありました。神学の世界は、基礎学習ができていない者が入る世界ではなかった、と思う事が何度もあり、自分の過去を恨みに思ったこともありました。しかし、この私の道は、私にしかできない多くの事柄を学ぶ機会を与えてくれた、と思うにいたった時、新しい世界が広がりました。
 学び舎では、いつも劣等感に悩まされました。しかし、働きの中に入って多くの人と出会った時、人生の底辺で苦しんでいる人と共感できる自分がありました。それは私の大きな財産になったのです。過去の出来事、悲しみや劣等感は、同じように悲しみや苦しみにある人の心を共有し、共に歩む心を教えてくれたのです。人生にマイナスだけのピンチはないと思います。今の苦しみや悲しみは、大切な財産になると思います。ピンチをチャンスに、今の苦しみや悲しみをそのまま自分の中に蓄えて、それを生かせる自分の道があるはずです。 
 教会の歴史を振り返って見ると、その伝道の歴史は、苦難の連続ではなかったでしょうか。初代の教会のことを考えてみましょう。「…エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた…散らされた人たちは、みことばを宣べ伝えながら、巡り歩いた。」(使徒8:1, 4) 迫害は、当時のクリスチャンにとって最悪の出来事であったが、最終的には福音が広がるきっかけになったので、その最悪が最悪のままでは終わらなかったのです。神様は、私たちにとっての「最悪」を、「意味深いもの」へと変えてくださいます。
 「今のピンチは、神様とあなたのチャンス。」逆境の中にあるあなた、神様に希望をおいてみませんか。最後まで諦めずに・・・。結論は人生の最後に出せばよいのです。
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by minitayori | 2016-10-22 21:49 | Trackback | Comments(0)

キリエ イエスさまと幼子

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子供を祝福する(ルカ福音書より)
18:15 イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。18:16 しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 18:17 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

by minitayori | 2016-10-22 21:45 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 10月23日  ルカによる福音書18章9~14節 

 10月23日 聖霊降臨後第23主日 ルカによる福音書18章9~14節
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18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
◆子供を祝福する
18:15 イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。:16 しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
18:17 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」


e0191585_21391153.jpg"> 「礼拝に備えて」
 神様が喜ばれるのは、どのような人の事でしょうか。詩篇の記者は「34:18 主は助けを求める人の叫びを聞き/苦難から常に彼らを助け出される。:19 主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。」と教えています。イエス様はそのお話と出来事を通して、この神様のお心を弟子達、そして私達に確認するように求めておられます。
 今日の日課ではまず、「ファリサイ派の人と徴税人」が出てきます。ファリサイ派の人は、自分の良い行いを並べ、近くにいる徴税人のようでないことを神様に感謝しています。しかし、誇ることのない徴税人は「目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』と。イエス様は言われました。「 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、傲慢に自分の立派さを誇った人ではなく、胸を打ちたたいて自分の弱さを嘆き、神様に憐みを求めた人であった」と教えられたのです。
自分の弱さ、足りなさは恥ではない、罪ではない。大切なのはその自分を素直に認めて、神様の憐みを求める心をもつことである、と教えられました。
さらにイエス様は、{イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」}とも言われました。
 神様の喜ばれる信仰とは、自分を誇る立派さをもった心ではありません。自分の弱さを素直に認めて、神様の憐みを求める心をもつ人、幼子が母の胸に抱かれて安らかであるように、神様にすべてをゆだねて心に平安をもつことです。あるがままで神様にゆだねきって生きる、これならあなたにもできます。神様の前に素直に生きましょう。


by minitayori | 2016-10-22 21:39 | Trackback | Comments(0)

ヴィラカンサス

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 散歩道にある家の庭から道にはみ出していたきれいな実、と思ったがヴィラカンサすという花でした。ふしぎな花です。でも見事に実って?いました。

by minitayori | 2016-10-22 21:34 | Trackback | Comments(0)