22日の聖壇の花

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 この日の聖壇の花はアルストロメリア。南アメリカ原産で、花ことばは「幸福な日々」。皆さんへの神様の祈りですね。

by minitayori | 2017-01-28 21:25 | Trackback | Comments(0)

「みにたより288」

「みにたより288」
 「祈りの心」という信仰書に書かれていたある母子の話です。
 ある熱心なクリスチャンの母親が、梅雨の最中、すこしばかりの晴れ間を見て、急いで洗濯物を干しに出ました。五歳の娘もあとからついてきました。お母さんは曇り空を見上げながら、『マリちゃん、お洗濯物が乾くまで雨が降りませんように、一緒に神様にお祈りしましょうね。きっと聞いてくださるわ。』と言って、二人で手を合わせ一生懸命に祈り始めました。
 すると、途端にポツリポツリと雨つぶが落ちてきました。一瞬、お母さんは『ああ、どうしよう!?』と思いました。「神様は祈りをきっと聞いてくださる…。」小さい娘に嘘をついてしまったことになるからです。お母さんはマリちゃんのほうをそっと見ました。目が合うと、マリちゃんはにこっと笑って『アッ!お百姓さんが先におねがいしちゃったのね。』と嬉しそうに言ったというのです。 
 お母さんは、娘の思わぬ答えにホッとして胸をなでおろしましたが、同時に、大人の頭の硬さ、不信仰をいやと言うほど思い知らされてしまった、と書いてありました。動脈硬化になりやすい大人の頭に対して、柔軟な幼児の思考の巧みな宙返りには、自他共に救われる見事さがあります。お母さんは自分のことだけしか考えない、しかし、五歳のマリちゃんの開いた心と素直な信仰は、隣人を包んでしまうほど豊かに育っていたのです。e0191585_21153710.jpg
 私たちもどこかで、自分の思うことが一番正しいという思いを持ってはいないでしょうか。お母さんは、わずかな晴れ間を見て洗濯物を干した、家族のために。そしてお祈りしました。当然神様は自分の善意に対して答えてくれてもいいはずだと神様に不満を持つ、それがわたしたちの信仰の弱さとしてあるように思います。
 キリスト教の信仰と祈りは、神様への押し付けはしません。神様を自分の召使のようには思いません。「御心の天になるように、地にもならせてください。」という『主の祈り』は、祈りとは神様のみ旨が第一になるということを示しています。神様は一番良いことをしてくださる、この幼子の素直さを持って、神様の御心に従う日々でありたいと切に願います。



by minitayori | 2017-01-28 21:16 | Trackback | Comments(0)

桜のつぼみ

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 先週の教会の帰り道、近くのお寺の桜の花がつぼみを膨らませ始めていました。もう春ですね!春ですよ!

by minitayori | 2017-01-28 21:11 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 1月29日 顕現節第4主日 マタイ 4章18~25節

1月29日 顕現節第4主日 マタイ 4章18~25節
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4:18 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。:19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。:20 二人はすぐに網を捨てて従った。
4:21 そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。:22 この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
◆おびただしい病人をいやす.
4:23 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。:24 そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。:25 こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。
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「礼拝に備えて」
 イエス様の公生涯の初仕事は「弟子たちの召命」から始まった。イエス様は弟子達をどこで招いたのであろうか。公募も資格試験もなかった。イエス様塾を開くこともなかった。日々の生活のために一生懸命働いていた漁師を、その働きの場から選ばれたのだ。
 私は自分の職場で、まさに職場が家庭集会の場となって、そこで招かれて洗礼を受けクリスチャンの道を歩み始めた。そして聖書学院で学び、伝道師の働きを経て、神学校に推薦され、6年の学びの末、やっと牧師の働きが与えられた。
 弟子たちは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」とのイエス様の招きの言葉に従って、イエス様と共に行動することによって、弟子としての教育を受け、イエス様の心を心とし、イエス様の行動にまねて生きる者とされた。それが最初の教会の弟子たちの姿であった。
 私達の信仰もそうではないだろうか。イエス様に出会い、イエス様のお心に触れて感動し、イエス様に従って生きる決心をしてクリスチャンになり、日々イエス様の行動にまねて生きることによって、信仰がはぐくまれ、成長する。
 教会に来ることは、イエス様に見つめられ、愛のまなざしの中に包まれている自分を知り、イエス様に従って生きる喜びを発見するためであると思う。教会に入る、静かな礼拝堂で正面にある十字架と聖壇に向かい合う。そこに既に礼拝が始まっている。イエス様の十字架の犠牲、「あなたのために!」十字架と聖壇が語りかけている。
 そこで出会うイエス様のお姿、聞けるイエス様のお声、そのイエス様についてゆく。イエス様と共に日々の生活をはじめ、全てをゆだねて生きる。ここに信仰生活がある。その様な私達は、「私は道であり真理であり、命である。誰でも私によらないでは神の国に入ることはできない。」と言うイエス様の約束のお言葉に出会う。 


by minitayori | 2017-01-28 21:00 | Trackback | Comments(0)

冬の富士

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 西武線の駅から見た富士山。久しぶりできれいでした

by minitayori | 2017-01-28 20:55 | Trackback | Comments(0)

15日の聖壇の花

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 15日の教会の聖壇の花。花の名前を聞きましたが、メモを後にしたので忘れてしまいました。自分が歯がゆいですね。よく知っている花だと思ったのですが・・。だからいけないのですね.。

by minitayori | 2017-01-21 22:40 | Trackback | Comments(0)

「みにたより287」

「みにたより287」
 先日コンビニにいった。先に入る人、出る人、そのほとんどが、ドアの取っ手を離す前に後続の人がいるかどうかを確かめて、ドアをそのまま押さえていたり、離したりしていた。待っていてくれた人の顔に笑みが生まれ、小声で「ありがとう!」の声が聞こえる。その小さな行為が、それまでの何の変哲もなく見えていた人々の顔をー瞬、美しいものに変える。思いやりとは、魅力と無関係でない。
 文明は、多くの便利さを私たちに与えてくれた。自動ドアがその一つである。両手にいっぱい荷物を下げていても、その前に立ちさえすれば自動的に開き、しかも自分で閉める必要のないものだ。その便利さをありがたく思う人も多いことだろう。
しかしながら、他方で、自動ドアが人間から奪ったものがある。「自分の後ろに続く人を思いやる心」である。この世の中は自分だけで成り立っているのではないという、至極簡単明瞭な事実、自分以外に他人がいて、その人もまた、自分と同じく優しさを求めて生きているという事実、この真に基本的なことが、ドアの開閉の度に思い出されるのと、思い出されないのとでは、いつしか人の心は大きく変わって行くに違いない。いや、すでに変わってしまっている。それは自分中心の心を生み、他人を思いやる優しさを減少させ、ひいては、その優しさが生み出す魅力を持つ人の数を減らしつつあると言っていい。
  一昔前に比べて、たしかに日本人は「きれい」になることを習得した。化粧の仕方にしても、アクセサリーの使い方にしても、洋服の着こなし方にしても上手になっている。しかし、きれいな人が増えるのと、真の人間的な魅力の持ち主が増えるのとは、同一ではないように思う。それはやはり、他人を思いやる優しさが人の心から失われてきているからではないだろうか。  
文明というものは、「便利=自分だけで生きていくことができる世界を作る」ことをその一つの目標としていると言えよう。自動と名のつくものを考えてみると、そのことがわかってくる。かくて文明は、人間関係の煩わしさから人を解放し、物事をスピーディーに処理することを可能にして、忙しい人間に時間を与えてくれる。しかしそれは同時に自動ドアの例でも明らかなように、人間相互の助け合いの機会を減らし、その心を失わせつつあるのだ。
 思いやりというものは、強いものが弱いものに、持てるものが、持たざるものに、つまり上から下に施すものではない。それは「人」という字が表しているように、不完全なもの同士が、支えあう人間本来の姿なのである。この大切なことを、私たちは忙しい日常生活の中で忘れてしまっている。
 昨年末、遠く熊本より遠来の友を迎えて交わりのときを持った。もう何年も昔の交わりを覚えていて大切にしてくれる優しさが、私の心に大きな暖かさを生み出した。地震の後始末もまだ十分ではないという。火の国熊本との交わりの暖かさが、この冬、私の心を暖めてくれた。
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by minitayori | 2017-01-21 22:31 | Trackback | Comments(0)

鉢植えの白いサザンカ

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 赤いサザンカはもう散ってしまったが、近くの家の鉢植えの白いサザンカが満開になっていた。間もなくサザンカの季節は終わるのでしょうか。次に慰めてくれる花はなんでしょうか。楽しみです!

by minitayori | 2017-01-21 22:26 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて  1月22日  マタイ4章12-17節

1月22日 顕現節第3主日 マタイ4章12-17節
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◆ガリラヤで伝道を始める
4:12 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。
4:13 そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。:14 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。:15 「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、:16 暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
4:17 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。

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 「礼拝に備えて」
 イエス様の伝道は、ガリラヤ湖の近くにある小さな村から始まった。過疎の地、貧しい村、都エルサレムとは遠く離れた村から伝道を始められた。聖書の表現を借りれば、そこは暗闇に住む者の居住地であった。
 私は愛知県の小さな半島の真ん中の町で育った。その半島には教会もなかったが、近くの町の教会から宣教師が来てくれて、我が家で家庭集会が始まり、小さいながらも教会へと成長していった。私はその町の最初の授洗者となり、やがて牧師となるべく献身して、静岡、沼津で研修し、神学校へと進むことができた。
 今、ふと、なぜ宣教師が私の家に来たのだろうかと考えている。宣教師が来た時は、我が家は戦後のどん底からやっと這い上がろうとしていたところであった。父の仕事が少し軌道に乗り始めた時であったが、その家庭に負いきれない出来事が起きた。 私の兄や姉も病弱であったがその上に、病気で私の弟が聴覚を失った。
 その家族の闇の中に、ラジオを通して光が差し込んだ。苦しんでいた父は、讃美歌に癒され、ルーテルアワーのラジオ放送に耳を傾け、聖書を求めた。それがきっかけで宣教師が我が家に来てくれ、やがて我が家の仕事場が神様の福音を伝える場所になり、小さいながらも教会に成長した。
 闇があったからこそ、小さな光にすがる魂が生まれたのだった。闇に住むことは苦しい事だ。しかし、闇に住むことによって光を見出すことができた。イエス様は光り輝く都ではなく、小さな燈心のもとでひそやかに生きる人々のもとに、来てくださる。自分の心が闇の中にあることは、決して嬉しい事ではない。しかし、神様はその様な人が見つけることができるように、イエス様を光として送ってくださった、と考えることができるのではないだろうか。 苦しい時にこそ、イエス様はあなたの身近にいてくださる。「見上げてごらん、夜の星を、小さな星を!」良い歌詞ですね。
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by minitayori | 2017-01-21 22:23 | Trackback | Comments(0)

白い水仙

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花壇の霜柱に掘り起こされた土を破って白い水仙が目を出し、秋の日差しを浴びて花を咲かせていました。自然の力を教えてもらいました。これも神様のみ旨の中の出来事なのですね。、

by minitayori | 2017-01-21 22:18 | Trackback | Comments(0)