2月19日の聖壇の花

2月19日の聖壇の花
この日はわたしの誕生記念(20日)

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by minitayori | 2017-02-25 21:04 | Trackback | Comments(0)

「みにたより292」

「みにたより292」
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私の家の家庭礼拝では、聖書日課を使っています。しばらく創世記のお話が続くので、確認するために聖書の巻末にあるパレスチナの地図を見直しています。こんな話をどこかの聖書研究でお話したことがありますので紹介します。

北のへルモン山から発した川が、二つの湖を作りながら南にまっすぐ降りて塩の海に入ります。 一番北の小さい湖は「フーレ湖」、その次は「テベリヤ湖」、南のー番大きい湖が「死海」(塩の海)です。このテベリヤ湖は、聖書では「キネレトの海」「ガリラヤの海」としてしばしば出てきますし、イエスさまの最初に伝道なさった地方はこの湖の主として北から西にかけてです。

この三つの湖をつないでいるのがヨルダン川です。ところでこのガリラヤ湖と塩の海は見たところどちらもたいへん美しい湖ですが、ガリラヤ湖のほうは淡水で魚がたくさんすんでいるのに、塩の海のほうは魚もすめないほど濃い塩水です。

それはガリラヤ湖のほうはいつもヨルダン川の上流から水が注ぎこんでおり、またそれが死海のほうへと流れ出ているのに対し、死海のほうは川の水が注ぎ込んでいるだけで流れ出て行きません。地中海などの海面よりも392メートルも低いうえに近くの岩塩などが溶けこみ、蒸発によってだんだんその塩分が濃くなってしまったと考えられています。そのため名前までも「死海」となってしまいました。

イエスさまの教えてくださった愛も、このガリラヤ湖と死海をたとえとして考えることができます。私たちの信仰が、もらうだけで与えることをちっともしない心になってしまえば、川が流れこんでくるばかりで出口のないために、塩分の濃度が濃くなった「死海」のように、愛の住むことのできない心になってしまいます。老若男女に関係なく、神に愛されている私たちが、人々を愛していく歩みーーガリラヤ湖のようなーー、生きている信仰生活をしたいものです。マタイ253135


by minitayori | 2017-02-25 21:00 | Trackback | Comments(0)

椿の花

散歩途中のお宅に、椿の木がありました。少しづつ花が咲き始め
招いてくれるようでした。小さなデジカメで写しましたので少し
ボケて見えますが、近くまた写し直してお目にかけます。

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by minitayori | 2017-02-25 20:49 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 2月26日





2月26日 変容の主日 マタイ 171~9節

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17:1 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 17:2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。

17:3 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。 17:4 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

17:5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。 17:6 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。

17:7 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」

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「礼拝に備えて」


 このイエス様の変容の記事は、ルカによる福音書9:28-36にも載っています。イエス様の変容のお姿に感激した弟子たちの姿が記されており、目を覚ました弟子たちが、「モーセとエリヤが、栄光の中でイエス様がエルサレムで遂げようとしている最後のことについて話していた。」と記され、その後で弟子たちが、この栄光の山の上に小屋を建てて住みたいと、イエス様に提案します。


 しかし、イエス様は栄光の山にとどまらないで山を下りていかれます。イエス様が下りられた山のふもとにはイエス様の助けを必要としている人々が多く待っていました。


 イエス様は栄光の中にいる救い主ではなく、病める人、苦しむ人、孤独の中にいる人と共にいる救い主となり、最後には十字架にかかり、罪の故に苦しむ全ての人の救い主となることを選んでくださいました。


 このことは教会のあるべき姿、キリスト者のあるべき姿を示してはいないでしょうか。私の好きな詩で、{聖フランシスの平和の祈り}と言う詩があります。歌にもなっていて、手話でも教えてきました。



(聖フランシスコの「平和の祈り」より)


神よ、わたしを、 あなたの平和を実らせるために、用いてください。


わたしが、憎しみのあるところに、愛をもたらすことができるように、


また、争いのあるところに、和解を、


分裂のあるところに、一致を、


疑いのあるところに、真実を、


絶望のあるところに、希望を、


悲しみのあるところに、よろこびを、


暗闇のあるところに、光をもたらすことができるように、助け、導いてください。


神よ、わたしに、


慰められることよりも、慰めることを、


理解されることよりも、理解することを、


愛されることよりも、愛することを望ませてください。


わたしたちは、


自分を与えることによって、与えられ、


すすんでゆるすことによって、ゆるされ、


人のために死ぬことによって、永遠に生きることができるからです。


 なにやら騒然としている世相です。この時にこそ、平和と一致、愛することの大切さと、愛されていることを知る喜びをもって生きる者でありたいと思います。イエス様と共にいるならば、神様のお声「これはわたしの愛する子」と言うお言葉を、イエス様と共にあなたも聞くことができます。


この美しい地球に平和を!e0191585_20414459.gif






by minitayori | 2017-02-25 20:44 | Trackback | Comments(0)

クリスマス・ローズ




クリスマスローズ
クリスマスでもないのになぜクリスマスという名がつくのだろうか?
図鑑によると荒涼とした山地に咲くことからつけられたとの由。
キリストは悲しむ人の心、貧しい人の心に来て下さる、からかな!
ちなみに花ことばは「共にに楽しむ」とのよし。みんな幸せに、
神様の願いですね!

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by minitayori | 2017-02-18 21:17 | Trackback | Comments(0)

「みにたより291」

「みにたより291」

 昔読んだ本に「『引き算』で生きて見ませんか」という小冊子がありました。その中に星野富弘さんの「タンポポ」という詩『いつだったかきみたちが空をとんで行くのを見たよ/風に吹かれてただ一つのものを持って/旅する姿がうれしくてならなかったよ/人間だってどうしても必要なものはただ一つ/私も余分なものを捨てれば空がとべるような気がしたよ』という詩が引用されて次のような説明が書かれていました。

 人生には「足し算的生き方」と「引き算的生き方」の二つの生き方がある。足し算的生き方とは、人生にお金や財産を増し加えて行く生き方で、例えば、お金、物、知識、教養等等、それを加算して行く方法、いわゆる勝ち組、強者の生き方である。

しかし、そのためにより一層努力することが必要となってしまう。それは良いことではあるが、それが人生における目的となってしまうところに問題がでてくる。この「足し算的生き方」は、いくら足しても終わる事なく、いつまでも生きている限り続く。その結果、人のことは考えられず、時には犯罪まで犯してしまうことさえある。私たちの身近で経験しているところである。

 それと反対に、「引き算的生き方」とは、自分が今もっているものを一つずつ引いていく生き方で、それをすると、最後にはゼロになってしう。このゼロとは何もないことを意味している。このゼロは、いくら並んでもゼロで百万個のゼロが並んでもゼロである。

 しかし、「0」の横に「1」を並べると「10」になり、「0」を二つ並べると「100」になるというように、「0」のままなら何の意味ももたないのに、他の数字のそばに並べると、十倍にも何百倍にもなり、「自分自身が何もないゼロでありながら、他を大きく豊かにすることが出来、他を生かす無限の力をもっている。ついには、余分なものを捨てれば、私たちもたんぽぽのように空を飛べるかもしれない……。

 日本語の漢字に「優しい」と言う漢字があります。良く見てみると「憂い」の横に「人」と言う字があります。漢字の素晴らしさと思うのですが、優しいとは憂い、悲しみをもっている人の横にそっと立ってあげる人のことだと思うのです。私はこの言葉を思い出して、イエス様のことを思いました。

イエス様はゼロの横にそっと立ってくださる方だと思ったのです。人々から罪の人と疎外されていた人々や、罪の結果とさげすまれていた病気の人々の横にそっと立ち、自分をゼロだと絶望しそうな人々を、あなたも神様の大切な宝物、と優しく語りかけてくださっています。人生の計算式、イエス様の前で、大胆に引き算で生きていきたいと思います。

今もイエス様はあなたのそばにいてくださいます。苦しい時、悲しい時、心細い時、「わたしが共にいるから、大丈夫!」と声をかけてくださいます。さあ勇気を出して。

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by minitayori | 2017-02-18 21:07 | Trackback | Comments(0)

孫の作ったバレンタインチョコ

孫がくれたバレンタインチョコ
小学生6年の孫がバレンタインチョコを作って持ってきてくれた。
私の顔を考えながら作ってくれたそうだが、どれもいい顔ですね。

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by minitayori | 2017-02-18 20:53 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 2月19日 マタイによる福音書5章38~48節

2月19日  マタイによる福音書5章38~48節

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5:38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。:39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

5:40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。

5:41 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。:42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。:45あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。

5:46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。:48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

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「礼拝に備えて」

 イエス様の弟子教育が続く。イスラエルの人々に求められていることは、聖書の教えに従って生きることではあったが、その中心は神様と共に生きること、神様のみ心に従って生きることであった。創世記6章9~「ノアは神と共に歩んだ。」と書いてある。

 それはノアが神のみ旨に従って歩んだ、という事であった。その生き方の集大成がイエス様の行動に示されている。神様のみ心に従って、十字架の道を歩み続けた。「み心に従います。」と血の汗を滴らせながら、恐怖に耐えつつ、神のみ心に従う道を選ばれた。十字架の上で、今自分にやりを刺そうとしている人々のために、イエス様は「父よ彼らを赦して下さい。彼らは自分が何をしているかわからないでいるからです」と祈られた。

 この祈りの言葉を聞いた弟子たちは、どのように思っただろうか。イエス様を裏切って、見捨てて逃げ帰った彼らは、イエス様と最後の時を過ごしたあの部屋で、鍵をかけて震えていた。この弟子たちに、十字架から降ろされたイエス様を葬った婦人たちがやって来て、イエス様の最後の祈りを伝えた。

 イエス様の十字架の祈りは、兵士たちだけではなく、イエス様を裏切った弟子たちへの祈りでもあった。私をも含んで祈ってくださったイエス様の祈りは、弟子達を新たな献身に導き、死をも恐れぬ使徒へと成長させた。

 私達も弟子たちと同じように、罪を犯し、弱さに嘆く時、また不信仰に苦しむ時、自分が神様の弟子にふさわしくないと悩む時に、イエス様の赦しと愛の、この祈りの中に私も包まれていることを忘れないでいたいものです。


by minitayori | 2017-02-18 20:48 | Trackback | Comments(0)

満開近い河津桜

教会の帰り道にあるお寺の前に河津桜が一本植えてある。
先週はほぼ9分咲きといえた。青空に映える桜の花は本
当に美しい。残念ながら桜の花がきれいに見えない。
折角のの桜に謝りたい気持ちです。

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by minitayori | 2017-02-18 20:37 | Trackback | Comments(0)