8月20日の池袋教会聖壇の花

8月20日の池袋教会聖壇の花
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by minitayori | 2017-08-26 22:14 | Trackback | Comments(0)

「みにたより317」

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  ユダヤ人精神科医ビクトール・E・フランクルは、自身の体験を記した著書「夜と霧(ドイツ強制収容所の体験記録)」の中に、次のような経験を紹介しています。収容所の中では、ほんの僅かなパンが配られるだけで、誰もが餓死寸前の状況下に置かれていました。

 ある日、一人の同じ囚人でもある労働監督が、そっとパンの一片をフランクルに与えました。そのことを、彼は、「私は彼がそのパンを、自分の朝食の僅かな配給の中から倹約して取っておいてくれたことを知っていた。涙が出るほど私を感動させたもの、生きる勇気を与えたものは、物質的なものとしての一片のパンではなく、彼が私に与えた人間的な眼差しであったことを思い出す」と記しています。

 パンを与えられた者は、この一片で餓死から免れるものではありません。また自分の分を与えた者も、その行為で相手を生きながらえさせるとは思っていないでしょう。パンによる実質的な効果は皆無に等しいと言えます。しかし、フランクルが熱い涙を流したのは、パンのやり取りを通しての、愛のやり取りではなかったでしょうか。死に至る苦しみの中にあっても、それを越えた愛が彼に生きる勇気を与えたのです。この話は、私たちの思いを越えた愛が存在する現実がある、ということを教えています。

 私が小学生の時、我が家は戦争で家・財産をすべて焼かれて、田舎に逃げて行きました。我が家の食事は、顔の映るような水だけのおかゆや、芋を小さく切った雑炊のようなものでした。小学生の時の弁当は、ふかしイモが二つと大根の漬物が二切れくらいでした。ある日の昼食の時、先生が見かねたのか、私を呼んで、白米の入った弁当箱から一口くらいのごはんとメザシを一匹を分けてくれました。涙を流しながら、かみしめながら食べたのを思い出しました。

私の母も人の良さでは天下一品で、買い出しに来る親子連れがいると、我が家の家族は9人もいるのに、おにぎりを作って渡していました。その分誰かが我慢していたのですが、誰も文句は言いませんでした。私も人に優しく、喜びを与える人になりたいと思ったものです。今では懐かしい思い出となって、私の心の中にあります。

 


by minitayori | 2017-08-26 22:09 | Trackback | Comments(0)

二匹の魚と5つのパン

二匹の魚と5つのパン
「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。
けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
ヨハネ 6:9

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by minitayori | 2017-08-26 22:02 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 8月24日 マタイ福音書14章13―21節

8月24日 聖霊降臨後第12主日 マタイ福音書141321

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14:13 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。

14:14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。

14:15 夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」:16 イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」

14:17 弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」:18 イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、19 群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。:20 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。

14:21 食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。

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「礼拝に備えて」

 人里離れた所にイエス様と弟子達がいました。そしてその周りには5000人ほどの群衆がいたと記されています。イエス様と弟子達が船に乗って人里離れた所に行ったのは、他の福音書を見ると、祈り、神様のみ心を聴くためであったと想像されます。連日の仕事でイエス様も弟子達も、休養と共に神様との会話の時が必要だったのでしょう。神様に祈るという事は、神様のみ心を知るという事です。

夕暮れになりました。弟子たちは集まっている群衆を見て、心配してイエス様に、群衆をそれぞれの家に帰るように勧めることを提案します。しかし、イエス様の返事は思いがけないものでした。「あなた方が彼らに食物をあげなさい」という事でした。5000人もの人々への給食です。弟子たちの懐のお金ではどうにもなりません。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」と弟子達に言います。

 この5つのパンと二匹の魚は、他の福音書によると一人の子供が差し出した物であると記されています。今日と違って不便な時代、旅する時には食事は必需品です。5000人の群衆もそれぞれイエス様の噂を聴いて集まる時、当然夜遅くなるかもしれないことを知っていたはずですから、一食分くらいの用意はしていたはずです。

 しかし、夕暮れになってみんながお腹をすかしている時に、自分の持ちものを全て差し出したのは、一人の子供だけだったのです。優しさとは、憂いを持っている人のそばに、そっとたたずんでいる事を意味する言葉だそうです。イエス様が弟子達に教え、また私達に教えようとしている事は、神様の愛は優しさを通して表されという事です。弟子たちのように「勝手に帰らせましょう。」ではなく隣人の重荷、苦しみを共に担える者となりなさい、それが神様のみ心ですよ、という事ではないでしょうか。






by minitayori | 2017-08-26 21:50 | Trackback | Comments(0)

ルリマツリ

ルリマツリ
教会の前の道の家の上木、道にはみ出すように咲いている花。
昨年は礼拝の帰り道、集まって「なんの花だろう?」と話し
合ったが結論出ず。結局は、「なんの花だろうに」と勝手に
花の名前をつけつたが、今年は図鑑に見つけた。
ルリマツリ=花言葉は「同情」

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by minitayori | 2017-08-26 21:41 | Trackback | Comments(0)

百合の花


百合の花
百合一輪と向かい合って、どんな声が聞こえますか。
長くない花の命です。でもとても明るく、誇らしげです。
明日はなくとも、今日がある。喜んで精一杯、咲いて
、周りに喜びを与えましょう。


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by minitayori | 2017-08-19 21:22 | Trackback | Comments(0)

「みにたより316」

「みにたより316」
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 久しぶりの晴れ間があった今日土曜日、いまこの「きよせたより」を書きはじめたら、雷が鳴り始めた。昔、熊本にいた時、ハードディスク(記録を残しておく機械)の電源を付けっぱなしで、教会の子供たちのキャンプに行ってしまった。その間に雷があったようで、キャンプが終って帰ってきたら書斎に焦げ臭いにおいがした。ハードデスクに落雷があったようで、長年の記録が消えてしまった。

 結婚式の式文や、葬儀の式文、手話のテキストなどなど。一部は他の物に分散して記録していたので、泣く泣く古いものをかき集めて、とりあえず仕事が出来るようにした。

 引退して東京に来て、新しい機器を購入して、全部まとめておこうとしてきたが、その機械も最近手違いで使えないようにしてしまった。過去の物は機械は壊れ、また頭の中から失われていく。しかし、人生山あり谷あり、その場その場で咲く花は違うもの、山登りはその違いを楽しむものなのかもしれない。

 過去を振り返って懐かしみ、出去った人々を通して学んだことをお伝えすることも大切な仕事であるが、今日、明日に出会う楽しい出来事を見つけ出すのも、人生を楽しく生きる方法ですね。

 今、雷が遠雷となり、強いにわか雨が降り出した。草木、野菜などなど一息ついている事でしょう。人生必ず良い事があります。そのために神様が命を与えてくださっているのですから。


by minitayori | 2017-08-19 21:16 | Trackback | Comments(0)

雨で生き返った生垣

雨で生き返った生垣
近くの通りにある生垣が暑さで枯れかかっていた。今日の雨で
どうなったか気になって、傘をさしてdかけた。水分をいっぱい
もらって生き返ったようでうれしかった。

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by minitayori | 2017-08-19 21:08 | Trackback | Comments(0)

8月20日 礼拝に備えて マタイによる福音書13章44-52

820日 聖霊降臨後11主日 マタイによる福音書1344-52

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◆「天の国」のたとえ

13:44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

13:45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。

13:46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

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「礼拝に備えて」

 もう何十年も前の事になるが、最初の牧会をした東京の教会での事です。大変素朴なおばあちゃんと懇意になった。よくお宅に伺ってお茶をいただいたりした。その方がご主人を亡くし、一人暮らしになってからしばらく頑張っておられたが、家族の方が心配して、郊外に新しい家を建てて引き取られた。しかし、その内に体調を壊したのか、池袋の老人病院(当時はそう呼んでいた)に入院された。

 ベット一つと小さな箪笥だけの住み家だったが、8人部屋で同じ仲間との生活を楽しんでおられた。毎週のように訪問していたが、生活が慣れてくるとじっとしておれない性分、病室の人々のお世話、お話し相手になっていた。数年して身体が弱くなって来られると、ベットで横になって話していた。特に二つのことを繰り返し質問された。「ねえ先生、天国は本当にあるの?」「何にもすることがなくて、生きているのが申し訳なく思えて!」と言うのだった。天国については、「わたしは見たことはないが、聖書に神様が約束してくださっているから、イエス様が約束してくださっているから、私はそれを信じています。」と答えた。

 仕事については、一つお願いした。「わたしは若くて、礼拝が怖い。説教が出来るかどうか、いつもドキドキしているのですよ。日曜日10時30分になったら私のために、神様に祈って下さい。よい礼拝が出来るように。」その方は、それなら私にもできると引き受けてくださった。それから何年か、訪問するたびに、「お祈りしていたけれど神様助けてくれたかね?」と聞かれた。日曜日の日課のようにベットの上でお祈と看護師さんが教えてくれた。胸が熱くなったことを思い出す。

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」畑の中の宝を(あなたを)、独り子をくださるほどに大切に思い、買い戻してくださった。神様の愛のみ業によるものですね。e0191585_20544540.jpg

 ある日の深夜、病院から先ほどのご婦人のご臨終のお知らせがあった。まだ体温が残るその方の額に手を置いて祈った。「イエス様、このご婦人を神様のみ国に導いてください。み手におゆだねします。」と。
その時、額の温かさがスーと抜けたように冷たくなった。初めての大切な経験でした。





by minitayori | 2017-08-19 20:56 | Trackback | Comments(0)

ベチュニア畑のユリ

ベチュニア畑のユリ
ベチュニアの満開の畑にユリが咲き始めた。
今年は白いユリの花をあちこちで見かける。
アパートの周りにも今までなかったところに
咲き始めている。入口の床下近くにも咲いてい
たが、雨で平伏していた。

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by minitayori | 2017-08-19 20:38 | Trackback | Comments(0)