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フウセントウワタ

9月24日の池袋教会聖壇の花
フウセントウワタ
花なのか良く分からないが、花図鑑にはこのように載っていた。
花ことばは(楽しい生活)神様を心に楽しい生活をしましょう。

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by minitayori | 2017-09-30 21:07 | Trackback | Comments(0)

「みにたより322」

「みにたより322」

 八木重吉と言う詩人の詩に「みんなもよびな」と言う詩がある。最近、特に思い出されるので紹介しよう。

「さて あかんぼは なぜに あん あん あん あん   なくんだろう? 
ほんとうに うるさいよ
  あん あん あん あん

うるさかないよ、うるさかないよ。よんでいるんだよ。かみさまをよんでいるんだよ。

みんなもよびな、あんなにしつこくよびな」

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 先年ある方から、八木重吉のご夫人のとみ子さんは、私が通っている池袋教会の会員であられた、という話を聞いて、余計に親しみを感じるようになった。池袋教会の会員であられた岡安先生の講演の中でお話されたとのこと、私はその講演会に出られなかったので、ゆっくりお話を聞きたいと思っていたが、その先生も御病気で帰天されてしまった。それはともかく、私もこの八木重吉の詩が好きで、数冊持っており時折読んでいる。

 今日紹介した「みんなもよびな」は、今、我が家に8月に生まれた孫が、しばらく一緒に住んでおり、朝に夕に、そして真夜中でも、遠慮なく泣き声をあげている、という現実の中で、思いだしたものである。

 腕の中で涙を浮かべて泣いている幼子は、お乳が欲しいのか、おしめを替えて欲しいのか、ともかく心の願いを訴えて全身で泣いている。

あんなに熱心に、神様に心の飢えを訴えているだろうか。心の願いを正直に求めているだろうか。幼子の泣き顔に、そう問いかけられているような気がした。


by minitayori | 2017-09-30 20:58 | Trackback | Comments(0)

カランコエ

カランコエ
道路沿えにある小さな花壇に咲いていた花。もっと
きれいだそうだが時期を過ぎたか、少し色が落ちていた。
それでも今が盛りと咲いていた。
その時々、最後まで今が盛りであるはず。
今を精いっぱい生きていきたい。
花ことばは「おおらかな愛」どんな愛なのだろう

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by minitayori | 2017-09-30 20:46 | Trackback | Comments(0)

「礼拝に備えて」10月1日 聖霊降臨後17主日 マタイ福音書18章15-20節

101日 聖霊降臨後17主日 マタイによる福音書1815-20

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◆兄弟の忠告

18:15 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。

18:16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。

18:17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。

18:18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。

18:19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。

18:20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

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「礼拝に備えて」

 教会に与えられている職務と言おうか権限は大きい。以前、教会に遣わされた牧師が一国一城の主になったようだと言われた時期があった。戦国時代でいえば一国一城の主は、委ねられた国土とそこにいる民のために命を賭して守る者であった。民に仕える者であった。しかしある時期から、国や民から富を搾取して、自分の栄華の道を歩み始めた。一部の人であったろうが。私が神学校に入って、最初に遣わされた教会の老牧師が、しばしば神学生であった私を食事に招いてくれた。インスタントラーメンがほとんどだったが、その都度に語られる言葉は、それからの私の人生の中で大きな力となった。

「牧師は仕える者、魂の救いのために生涯をかけて仕える者となれ。」等々。この教会を離れる時、面白い事を言われた。「信徒を信用してはいけない、友達の様に思ってはいけない。自分にゆだねられた羊として、イエス様にならってどこまでも愛すること、これにつきる」と教えられた。

 それからもうひとつ、「転任をして教会を離れたら、元の教会に顔を出してはいけない。五年、出来れば十年は顔を出してはいけない。」この意味は、当時はよくわからなかったが、次第に理解できるようになった。「信徒の方々は、長い牧会のよしみで前任者にいろいろ相談に行く。前任の牧師はよくわかっているから、新任の牧師より適切なアドバイスが出来る。すると新任の牧師と信徒の方々との距離が縮まらないで、教会に問題が起きることがある」と言う事だろう。

 私自身は信徒の方の声は、「称賛」よりも「非難」の中に、神様の忠告があると思ってきた。非難する心が共に祈る心に代わり、共に神様の愛を伝えて行く仲間となる。その幸を数え切れないほど経験させていただいた。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」愛の祈り、人の救いとなる祈りと行いが出来る様な教会でありたいと願っている。

 

by minitayori | 2017-09-30 20:38 | Trackback | Comments(0)

紅葉?

紅葉?
もみじではないが裏庭の木の葉が紅葉していた。たぶんバラの
この葉だと思うが、紅葉を見ると秋を思い出される。

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by minitayori | 2017-09-30 20:32 | Trackback | Comments(0)

池袋教会の聖壇の花


池袋教会の聖壇の花
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by minitayori | 2017-09-23 22:09 | Trackback | Comments(0)

「みにたより320」

「みにたより321」

 今日の社会の最大の病気は、ハンセン氏病でも結核でもなく、心の病、自分はいてもいなくてもいい、だれもかまってくれない、みんなから見捨てられていると感ずることである。

また、最大の悪は、愛の足りないこと、神からくるような愛の足りないこと、自分のすぐ近くに住んでいる人が、搾取や、権力の腐敗や、貧しさや、病気におかされていても無関心でいること。

「病気の人、苦しんでいる人にとっては、すべての人がいたわりと慰めの天使でありますように・・・」(マザーテレサの語録)

 なぜか今日はこの詩を思い出した。詩と言うよりもマザーテレサの語録の中の一節だが、何冊か持っていたので、読みなおそうと思ったが、すでに誰かの手に渡ってしまっているようで見つからなかった。私が伝道師の頃は、食費をけずって信仰書を買った。神学校の時には、アルバイトで得たわずかなお金を持って、神田の古本屋めぐりをしたものだ。当時は日本語で書かれたキリスト教書籍が少なかったから。牧師になって、少しの小遣いを貰うと、キリスト教書店に出かけてやっと出始めた本を買い集めた。転勤のたびに処分しそうになったが、これまで大切に持ってきた。
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難しい本よりも、信徒向けに書かれた本によって私は信仰を養われ、その喜びを礼拝で語って来た。この本もその中の一冊だ。繰り返し読んで、黄ばんでぼろぼろになるほどの本もあった。その大半は最後の任地を去る時に、信徒の方々に貰っていただいた。時々あの本をもう一度読んで、教えを請いたい、初心に帰って学びたいと思う事もある。それでも心打たれた言葉は、書き留めておいた物が少し残っているので、読み返し、信仰の初心に帰っている。信仰生活の折々に、自分を見つめ直してみるのも良い事です。老いてくると、とても懐かしく、神様の深く貴い導きを感じます。

 

 


by minitayori | 2017-09-23 22:05 | Trackback | Comments(0)

カーネーション?

カーネーション?
クロッカスの咲いていた雑草の生い茂る中に咲いていた。
花を見た限りにはカーネーションしかもい浮かばなかった

静かな荘厳さというか懸命に咲いている花の真剣さようなも
のを感じた。

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by minitayori | 2017-09-23 21:55 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 9月24日  マタイ福音書18章1-14節

924日 聖霊降臨後16主日 マタイによる福音書181-14

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18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。:2 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、:3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。:4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。:5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

◆「迷い出た羊」のたとえ

18:10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。

18:11 人の子は、失われたものを救うために来た。

18:12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。:14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

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「礼拝に備えて」

 ここでイエス様は、上に立つ人々がいつも心得ておかなければならない事を、弟子達に教えている。いやそれは世界のすべての指導者、上に立つ者へのイエス様の教えとして受け止めなければならないと思う。

 世界の国々が、弱者の事を忘れたかのような政治を行い、自国の人間以外は人ではないように傲慢に振る舞う姿も見られる。日本でも「仕事人」内閣が誕生したのに、何もしないうちに国会(衆議院)を解散するといううわさがあり、国民の命をゆだねた国会議員達は、浮足立って、政治の空白が生まれつつある。また年金の操作ミスで多くの人に年金が支払われず、すでに亡くなった方も多くいると言う。

 イエス様は弟子たちへの心得として、一番弱いと考えられていた幼子を例えにあげて、自らを低くし幼子の様な心で人に接し、また幼子(弱者)を常に宝として受け止めるようにと弟子達に言われた。

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 善い羊飼いは、迷子になった小さな羊を探して、見つけるまで探しに行くと言われた。残された99匹の羊と比べれば、一匹の小羊は小さな価値しかないかもしれない。しかし、何もできなくても神様はその存在を貴いものとして見つめていてくださる。

 何が出来るかではなく、ただその存在が尊いと言う事を、私達も常に自身に対しても他者に対しても持っていたいと思う。


by minitayori | 2017-09-23 21:46 | Trackback | Comments(0)

クロッカス

クロッカス
裏の庭にも道端にも花がすくなった。雑草の一角にひっそりと
咲いていた白い清楚な感じの花でした。
クロッカスに似ていますが?

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by minitayori | 2017-09-23 21:38 | Trackback | Comments(0)