「みにたより322」

「みにたより322」

 八木重吉と言う詩人の詩に「みんなもよびな」と言う詩がある。最近、特に思い出されるので紹介しよう。

「さて あかんぼは なぜに あん あん あん あん   なくんだろう? 
ほんとうに うるさいよ
  あん あん あん あん

うるさかないよ、うるさかないよ。よんでいるんだよ。かみさまをよんでいるんだよ。

みんなもよびな、あんなにしつこくよびな」

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 先年ある方から、八木重吉のご夫人のとみ子さんは、私が通っている池袋教会の会員であられた、という話を聞いて、余計に親しみを感じるようになった。池袋教会の会員であられた岡安先生の講演の中でお話されたとのこと、私はその講演会に出られなかったので、ゆっくりお話を聞きたいと思っていたが、その先生も御病気で帰天されてしまった。それはともかく、私もこの八木重吉の詩が好きで、数冊持っており時折読んでいる。

 今日紹介した「みんなもよびな」は、今、我が家に8月に生まれた孫が、しばらく一緒に住んでおり、朝に夕に、そして真夜中でも、遠慮なく泣き声をあげている、という現実の中で、思いだしたものである。

 腕の中で涙を浮かべて泣いている幼子は、お乳が欲しいのか、おしめを替えて欲しいのか、ともかく心の願いを訴えて全身で泣いている。

あんなに熱心に、神様に心の飢えを訴えているだろうか。心の願いを正直に求めているだろうか。幼子の泣き顔に、そう問いかけられているような気がした。


# by minitayori | 2017-09-30 20:58 | Trackback | Comments(0)

カランコエ

カランコエ
道路沿えにある小さな花壇に咲いていた花。もっと
きれいだそうだが時期を過ぎたか、少し色が落ちていた。
それでも今が盛りと咲いていた。
その時々、最後まで今が盛りであるはず。
今を精いっぱい生きていきたい。
花ことばは「おおらかな愛」どんな愛なのだろう

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# by minitayori | 2017-09-30 20:46 | Trackback | Comments(0)

「礼拝に備えて」10月1日 聖霊降臨後17主日 マタイ福音書18章15-20節

101日 聖霊降臨後17主日 マタイによる福音書1815-20

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◆兄弟の忠告

18:15 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。

18:16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。

18:17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。

18:18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。

18:19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。

18:20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

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「礼拝に備えて」

 教会に与えられている職務と言おうか権限は大きい。以前、教会に遣わされた牧師が一国一城の主になったようだと言われた時期があった。戦国時代でいえば一国一城の主は、委ねられた国土とそこにいる民のために命を賭して守る者であった。民に仕える者であった。しかしある時期から、国や民から富を搾取して、自分の栄華の道を歩み始めた。一部の人であったろうが。私が神学校に入って、最初に遣わされた教会の老牧師が、しばしば神学生であった私を食事に招いてくれた。インスタントラーメンがほとんどだったが、その都度に語られる言葉は、それからの私の人生の中で大きな力となった。

「牧師は仕える者、魂の救いのために生涯をかけて仕える者となれ。」等々。この教会を離れる時、面白い事を言われた。「信徒を信用してはいけない、友達の様に思ってはいけない。自分にゆだねられた羊として、イエス様にならってどこまでも愛すること、これにつきる」と教えられた。

 それからもうひとつ、「転任をして教会を離れたら、元の教会に顔を出してはいけない。五年、出来れば十年は顔を出してはいけない。」この意味は、当時はよくわからなかったが、次第に理解できるようになった。「信徒の方々は、長い牧会のよしみで前任者にいろいろ相談に行く。前任の牧師はよくわかっているから、新任の牧師より適切なアドバイスが出来る。すると新任の牧師と信徒の方々との距離が縮まらないで、教会に問題が起きることがある」と言う事だろう。

 私自身は信徒の方の声は、「称賛」よりも「非難」の中に、神様の忠告があると思ってきた。非難する心が共に祈る心に代わり、共に神様の愛を伝えて行く仲間となる。その幸を数え切れないほど経験させていただいた。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」愛の祈り、人の救いとなる祈りと行いが出来る様な教会でありたいと願っている。

 

# by minitayori | 2017-09-30 20:38 | Trackback | Comments(0)

紅葉?

紅葉?
もみじではないが裏庭の木の葉が紅葉していた。たぶんバラの
この葉だと思うが、紅葉を見ると秋を思い出される。

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# by minitayori | 2017-09-30 20:32 | Trackback | Comments(0)

池袋教会の聖壇の花


池袋教会の聖壇の花
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# by minitayori | 2017-09-23 22:09 | Trackback | Comments(0)

「みにたより320」

「みにたより321」

 今日の社会の最大の病気は、ハンセン氏病でも結核でもなく、心の病、自分はいてもいなくてもいい、だれもかまってくれない、みんなから見捨てられていると感ずることである。

また、最大の悪は、愛の足りないこと、神からくるような愛の足りないこと、自分のすぐ近くに住んでいる人が、搾取や、権力の腐敗や、貧しさや、病気におかされていても無関心でいること。

「病気の人、苦しんでいる人にとっては、すべての人がいたわりと慰めの天使でありますように・・・」(マザーテレサの語録)

 なぜか今日はこの詩を思い出した。詩と言うよりもマザーテレサの語録の中の一節だが、何冊か持っていたので、読みなおそうと思ったが、すでに誰かの手に渡ってしまっているようで見つからなかった。私が伝道師の頃は、食費をけずって信仰書を買った。神学校の時には、アルバイトで得たわずかなお金を持って、神田の古本屋めぐりをしたものだ。当時は日本語で書かれたキリスト教書籍が少なかったから。牧師になって、少しの小遣いを貰うと、キリスト教書店に出かけてやっと出始めた本を買い集めた。転勤のたびに処分しそうになったが、これまで大切に持ってきた。
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難しい本よりも、信徒向けに書かれた本によって私は信仰を養われ、その喜びを礼拝で語って来た。この本もその中の一冊だ。繰り返し読んで、黄ばんでぼろぼろになるほどの本もあった。その大半は最後の任地を去る時に、信徒の方々に貰っていただいた。時々あの本をもう一度読んで、教えを請いたい、初心に帰って学びたいと思う事もある。それでも心打たれた言葉は、書き留めておいた物が少し残っているので、読み返し、信仰の初心に帰っている。信仰生活の折々に、自分を見つめ直してみるのも良い事です。老いてくると、とても懐かしく、神様の深く貴い導きを感じます。

 

 


# by minitayori | 2017-09-23 22:05 | Trackback | Comments(0)

カーネーション?

カーネーション?
クロッカスの咲いていた雑草の生い茂る中に咲いていた。
花を見た限りにはカーネーションしかもい浮かばなかった

静かな荘厳さというか懸命に咲いている花の真剣さようなも
のを感じた。

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# by minitayori | 2017-09-23 21:55 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 9月24日  マタイ福音書18章1-14節

924日 聖霊降臨後16主日 マタイによる福音書181-14

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18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。:2 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、:3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。:4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。:5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

◆「迷い出た羊」のたとえ

18:10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。

18:11 人の子は、失われたものを救うために来た。

18:12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。:14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

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「礼拝に備えて」

 ここでイエス様は、上に立つ人々がいつも心得ておかなければならない事を、弟子達に教えている。いやそれは世界のすべての指導者、上に立つ者へのイエス様の教えとして受け止めなければならないと思う。

 世界の国々が、弱者の事を忘れたかのような政治を行い、自国の人間以外は人ではないように傲慢に振る舞う姿も見られる。日本でも「仕事人」内閣が誕生したのに、何もしないうちに国会(衆議院)を解散するといううわさがあり、国民の命をゆだねた国会議員達は、浮足立って、政治の空白が生まれつつある。また年金の操作ミスで多くの人に年金が支払われず、すでに亡くなった方も多くいると言う。

 イエス様は弟子たちへの心得として、一番弱いと考えられていた幼子を例えにあげて、自らを低くし幼子の様な心で人に接し、また幼子(弱者)を常に宝として受け止めるようにと弟子達に言われた。

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 善い羊飼いは、迷子になった小さな羊を探して、見つけるまで探しに行くと言われた。残された99匹の羊と比べれば、一匹の小羊は小さな価値しかないかもしれない。しかし、何もできなくても神様はその存在を貴いものとして見つめていてくださる。

 何が出来るかではなく、ただその存在が尊いと言う事を、私達も常に自身に対しても他者に対しても持っていたいと思う。


# by minitayori | 2017-09-23 21:46 | Trackback | Comments(0)

クロッカス

クロッカス
裏の庭にも道端にも花がすくなった。雑草の一角にひっそりと
咲いていた白い清楚な感じの花でした。
クロッカスに似ていますが?

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# by minitayori | 2017-09-23 21:38 | Trackback | Comments(0)

月10日の池袋教会のっ聖壇の花

9月10日の池袋教会のっ聖壇の花
いろいろな意味が込められています。祈りとともに。

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# by minitayori | 2017-09-16 22:07 | Trackback | Comments(0)

「みにたより320」

「みにたより320」

「みにたより」も320回になりました。私が牧師になって、小石川教会に就任してから始めた「みにたより」ですが、飯田教会、熊本教会と続いて、1900回余となりました。引退してからも、区切りのよい時までと、2000回まで頑張りました。その後ブログに変更して、礼拝に参加できない方々には、23回まとめて送付しています。

読んでくださる方々がいて、今までに25000人を超えていることになります。私自身は目がかすみ、指先も動きが悪くなって、間違いも多くなりました。今は家内が校正を助けてくれていますが、いつまで続けることが出来るだろうかと、弱気になることがあります。その様な弱気になった時、なぜか、読者の方から励ましの手紙やメールをいただくのです。

自分のためではなく、待っていてくださる方々のためと思い続けています。ブログはわたしの生きている証、喜びとなるようにと考えています。責任逃れのような気もしますが、お許しください。

   『訪ねるキリスト』

見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。 〈ヨハネの黙示録三・二〇〉

クリスチャンの詩人の河野進という牧師が書いた『今あなたは微笑んでいますか』という詩集があります。その中の『訪ねられる』という詩を紹介します。

訪ねられる  

主イエスは毎日一軒一軒訪ねられる。

あなたがたは今、信仰の家にいますか

あなたがたは今、祈りの家にいますか

あなたがたは今、喜びの家にいますか

あなたがたは今、奉仕の家にいますか

あなたがたは今、伝道の家にいますか

あなたがたは今、感謝の家にいますか

あなたがたは今、希望の家にいますか

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 *主よ私の所に今、おいで下さい。心を開けてお待ちしてい
ます。

 


# by minitayori | 2017-09-16 22:03 | Trackback | Comments(0)

オンシジウム

オンシジウム
聖壇の花に添えていけられった花。メインではないがこの花の
花ことばは「神秘的な愛」神様の深い愛のお心を教えています。

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# by minitayori | 2017-09-16 21:54 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 9月17日 聖霊降臨後第15主日 マタイ福音書16章13-20節

9月17日 聖霊降臨後第15主日 マタイ福音書1613-20

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16:13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。:14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます

16:15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」:16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。:17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。:18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。

16:19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

16:20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

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「礼拝に備えて」

イエス様は、旅の途中で弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と、お尋ねになりました。弟子たちは「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と答えました。

イエス様は人々の評判を気にされたのでしょうか。そうではありません。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という、弟子たちへの質問の答えを聴くために、お尋ねになったのではないでしょうか。

この質問は弟子たちへの質問であると同時に、今教会の信徒である私達への質問でもあるのです。私達は日常の生活の中で、自信を無くしたり、様々な問題にぶつかった時に、イエス様を忘れて自分だけですべてを解決しなければならないように思ってしまうのです。頭の中では、イエス様を「わたしの主」とは思っていても、日々の様々な問題の中には居てくださらないように思ってしまうのです。そしてイエス様不在の思いわずらいの中で、日常の問題に直面して悩んでいます。

弟子達も、同じような経験をするであろうと思われたイエス様は、その様な時にこそ、イエス様があなたにとってどんなに大切な方であり、あなたのことをどんなに心にかけていてくださるかを、考えて欲しかったのです。神様は放蕩息子の帰りを、「死んでいたのに生き返った」と喜んで迎えてくださる方なのです。またいなくなった小羊を、どこまでも探し出してくださる方なのです。

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私達はどんな時にも、「あなたこそ生ける神の子、私の救い主です」と、告白できる信仰を持って生きて行きましょう。




# by minitayori | 2017-09-16 21:48 | Trackback | Comments(0)

トルコ桔梗

トルコ桔梗
いろいろな色のトルコ桔梗がありますね。図鑑で探すのは大変。
一つ言えることは「みんな違って、みんな良い!」

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# by minitayori | 2017-09-16 21:27 | Trackback | Comments(0)

9月3日の聖壇の花

9月3日の聖壇の花
カーネーションを中心に飾られた。赤白だけでなくいろいろな種類があることを知りました。赤の花ことばは(母の愛)

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# by minitayori | 2017-09-08 22:40 | Trackback | Comments(0)

「みにたより319」


「みにたより319」


 今年は、私達の教会の大先輩、マルティン・ルターの宗教改革500周年を迎えて、様々な行事が計画されている。ルターは沢山の書物を残したが、大半は彼の講義の受講者によるノートから生まれたものだと言われる。最近になってたびたび耳にする言葉がある。

その言葉とは「マルティン・ルターはかつてこう言っています。『たとえ明日この世界が滅びることを知っていても、それにもかかわらず、私は自分のリンゴの木を植えるだろう』」というものである。

 この言葉は、将来に対する希望が消えつつあるように見えるときに、人々になお可能性があることを、希望があることを強調し、勇気を与えた。私はこの言葉を聴いたとき、すぐに神様のお心とイエス・キリストの出来事を思った。天地宇宙を創造された神は、イスラエルをはじめとして多くの人々に愛のみ手を差し伸べた。ある時には指導者を与え、また、神の聖なるご意志を語る預言者を立たしめた。

ある時には優しく、ある時には厳しく。にもかかわらず人間は、神のみ旨を痛めるような行為をたびたび繰り返してきた。それにもかかわらず、神は神の御子イエス・キリストをこの世に与えられた。ヨハネ3:16節に、「神はそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。み子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と記されている。

今私達は、かつてない危機に直面している。愚かな一人の独裁者のために、世界中が戦争の危機の中に置かれている。戦争の醜さ、怖さを知らない世代の増えた中で、その危険はいっそう増しつつあるような気がする。

 しかし、信仰者として今私が考えるべきことは、神は人間がどのような状況であったとしても、「罪深さにおぼれていても」人間を愛されたことである。神は人間がキリストにあって新たに生きる事を願って、リンゴの木ならぬ「福音」を人間に植えてくださったのだ。

 マザーテレサは、今自分が手を差し伸べている人が、どのような反応を示そうがお構いなく、キリストの愛を注いだ。明日をも知れぬ病める人に、それこそリンゴの木ーーキリストーー神の愛ーーを植えた。

 私たちの教会に託されていることはなんだろう。時が良くても悪くても、福音を述べ伝える、未来のためにリンゴの木を植えること、この社会の人々のキリストにある魂の救いを願い続けること、なのではないだろうか。神様の創られたこの地球を美しく保ちたい。
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 しかし、それでも人間の英知を集めて、戦争の愚かさを繰り返してはならないと切に願う。







# by minitayori | 2017-09-08 22:33 | Trackback | Comments(0)

百日紅の花

百日紅の花
整形病院の帰り道には、朝顔や名前の知らない花などが時々
咲いているが、朝顔は私が通るころには枯れてしまい花がない
とさみしく思っていたら、百日紅の花がきれいに咲いていた。

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# by minitayori | 2017-09-08 22:23 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 9月10日  マタイ福音書15章21-28節

9月10日  マタイによる福音書152128
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15:21 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。
15:22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。:23 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」:24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。:25 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。:26 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、:27女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
15:28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

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「礼拝に備えて」
 今日の日課ではカナンの婦人のお話が中心になっている。弟子達とイエス様が地方を回って神様のお心を伝えている時、一人の婦人が近寄って来て「わたしを助けてください」と願った。娘が悪霊につかれて苦しんでいた。家族に病を持つ、心に病、障害を持っている人の生活は、普通の人には想像を超える苦しみと不安を持っている。その心の苦しみを持って教会の門をたたく人は多い。その時、教会はどんな対応をするだろうか。今日の聖書ではそのことが問われているような気がする。
 弟子たちは追い払ってください!と頼む。イエス様は「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。ここだけ読んでいると、イエス様は何と非情な方だろうと思ってしまう。しかし、この婦人はそれでもひるむことなく、イエス様にすがりつく。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」イエス様はこの婦人の信仰をよしとされた。この婦人の信仰を引き出された、と言うべきかもしれない。
 昔、伝道師の頃、初めての教会、沼津教会で洗礼準備会を持った。20歳の若さであったが、宣教師もいなくなってしまった状態の中で、自分が洗礼の準備として学んだ小教理問答書を、一生懸命一緒に学んだ。4人の若い女性が洗礼を決心し、宣教師の赴任を待って洗礼式を行った。
 その後も、一緒に聖書の勉強をしたいと言うので、学びの会を作った。この学びの会に、女性達は話合って名前を付けたいと言ってきた。そして選ばれたのが「子犬の会」。飢えた子犬のように、主人の食卓から落ちるみ言を求め続ける信仰を持ちたい、と言う意味であると説明してくれた。
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 その話を聞いて私も感動し、自分も一生子犬の会の一員でいたいと思ってきた。みことばを思い続ける、求め続ける、飢えた子犬のように。今もそのように生きようと改めて思う。もう50数年も前の話だが、彼女たちの信仰が続いていてくれることを祈りたい。
















# by minitayori | 2017-09-08 22:13 | Trackback | Comments(0)

かぼちゃの花

かぼちゃの花
裏庭のわずかな畑?に、かぼちゃの木が一本、花が一輪。

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# by minitayori | 2017-09-08 21:50 | Trackback | Comments(0)

8月27日池袋教会の聖壇の花

8月27日池袋教会の聖壇の花
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# by minitayori | 2017-09-02 22:32 | Trackback | Comments(0)

「みにたより318」

「みにたより318」

私の傷 

わたしは傷をもっている。でもその傷のところから、あなたの優しさがしみてくる。ーー「風の旅」星野富弘

片づけをしながら、昔買った本を読み始めた。その中に「風の旅」と言う星野さんの本を見つけた。懐かしい本だった。読み始めると片づけが止まってしまう。

星野さんの詩には、星野さん自身が経験された、信仰の喜びと安らぎがあふれています。星野さんは体育の先生でしたが、授業中の怪我がもとで、首から下が動かなくなりました。しかし、星野さんは筆をくわえて詩を書き、絵を描き、本もたくさん書いています。彼は「風の旅」の中に、こんなことを書いておられます。「夜があるから朝がまぶしいように、失った時、初めてその価値に気づくことがよくあります。」

突然の事故で体が動かなくなった。このことは、とてもつらいことだったでしょうが、星野さんは体が動かなくなったことで、それまで見過ごしていたこと、気づかなかったことを、たくさん発見しました。木や花の美しさ、人のやさしさ、そしてずっと前から星野さんのそばにいてくださったイエス様を発見しました。星野さんはイエス様を信じたのです。体が元気で自信満々のときには、たとえ聖書の話を聞いても、耳に入らなかったことでしょう。そばにいてくださるイエス様のことも、目に入らなかったことでしょう。

でも、星野さんが「体が動かない」という大きな傷もったとき、その傷からイエス様のみ言と愛が入ってきたのです。そして聖書の言葉はグングン大きく育っていき、神さまの愛をたくさん実らせました。すると星野さんの心にあった大きな傷は、いつのまにか、神様の恵みと神さまの愛が溢れ出てくる、めぐみのポケットに変わっていたのです。傷が大きければ大きいほど、深ければ深いほど、聖書の言葉は傷の深い所まで根を張って行きます。星野さんは神さまの愛を、絵や詩でたくさん実らせました。私たちも日々、いろいろな悩みや傷をもつことでしょう。でも傷はマイナスばかりではありません。傷のあるところから、聖書の言葉、イエス様を通して与えてくださる神様の愛があなたの心に入っていきます。そして心に、神さまの愛がたくさん実っていきます。e0191585_22254995.jpg

 自分の傷や苦しみが、いつのまにか神さまの愛であふれる(めぐみのポケット)に変わる、こんな素敵な経験をしてほしいですね。


 


# by minitayori | 2017-09-02 22:27 | Trackback | Comments(0)

オミナエシ

オミナエシ
近くのお屋敷が取り壊された。その庭に悲しげに咲いて
いました。花ことばは「深い愛」。間もなくこの花とも
お別れです。美しい花、そして優しい愛をありがとう。

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# by minitayori | 2017-09-02 22:22 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 9月3日  マタイによる福音書14章22-33節

9月3日  マタイによる福音書14章22-33節

◆湖の上を歩く

14:22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。

14:24 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。

14:25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。

14:26 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

14:28 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」

14:29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。

14:31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。

14:33 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

9月3日 マタイ福音書14章22-33節

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◆湖の上を歩く

14:22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。

14:24 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。

14:25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。

14:26 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

14:28 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」

14:29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。

14:33 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

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「礼拝に備えて」

 イエス様は逆風に悩んでいる湖上の弟子たちの事を知っておられた。そして湖上を歩いて弟子たちの所に来られ、すぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」このイエス様のお言葉に対してペトロの言葉が面白い。

 「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエス様が「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエス様の方へ進んだ。

 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエス様はすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。

 このような出来事は、私達の日々の生活の中にもよくあることではないだろうか。ペトロの、困難の中でイエス様に出会った喜びの素直な表現。しかし、イエス様を見続けるよりも、困難を見て自分の弱さの中に挫折してしまう。困難の中で、イエス様を見上げることを忘れて溺れそうになる。私も何度も経験して自らを恥じたものである。

 しかし、イエス様はそんなペトロを見捨てられなかった。人の弱さを知っていてくださるイエス様は、溺れかけたペトロを責めることなく、「なぜ疑ったのか?」と優しく言われると、手を差し伸べて水の中から引き上げられた。このお方が、私達の主であるイエス様なのです。あなたが苦しんでいる時、悲しんでいる時、悩んでいる時、絶望に打ちひしがれている時、手を差し伸べてくださり、ご自分の居られる船に引き揚げてくださる。イエス様と一緒に乗る船には、平和と安心が満ちている。あなたの手を伸ばして全てをゆだねて、イエス様と共に歩み出しましょう。



# by minitayori | 2017-09-02 22:16 | Trackback | Comments(0)

おくらの花

おくらの花
アパートのミニ菜園のサトイモの大きな葉の中に咲いていた。
名前がわからなかったが、オクラの花とか。オクラがどんな
ものかわからないが・・・。

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# by minitayori | 2017-09-02 22:06 | Trackback | Comments(0)

8月20日の池袋教会聖壇の花

8月20日の池袋教会聖壇の花
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# by minitayori | 2017-08-26 22:14 | Trackback | Comments(0)

「みにたより317」

「みにたより317」e0191585_22080075.gif


  ユダヤ人精神科医ビクトール・E・フランクルは、自身の体験を記した著書「夜と霧(ドイツ強制収容所の体験記録)」の中に、次のような経験を紹介しています。収容所の中では、ほんの僅かなパンが配られるだけで、誰もが餓死寸前の状況下に置かれていました。

 ある日、一人の同じ囚人でもある労働監督が、そっとパンの一片をフランクルに与えました。そのことを、彼は、「私は彼がそのパンを、自分の朝食の僅かな配給の中から倹約して取っておいてくれたことを知っていた。涙が出るほど私を感動させたもの、生きる勇気を与えたものは、物質的なものとしての一片のパンではなく、彼が私に与えた人間的な眼差しであったことを思い出す」と記しています。

 パンを与えられた者は、この一片で餓死から免れるものではありません。また自分の分を与えた者も、その行為で相手を生きながらえさせるとは思っていないでしょう。パンによる実質的な効果は皆無に等しいと言えます。しかし、フランクルが熱い涙を流したのは、パンのやり取りを通しての、愛のやり取りではなかったでしょうか。死に至る苦しみの中にあっても、それを越えた愛が彼に生きる勇気を与えたのです。この話は、私たちの思いを越えた愛が存在する現実がある、ということを教えています。

 私が小学生の時、我が家は戦争で家・財産をすべて焼かれて、田舎に逃げて行きました。我が家の食事は、顔の映るような水だけのおかゆや、芋を小さく切った雑炊のようなものでした。小学生の時の弁当は、ふかしイモが二つと大根の漬物が二切れくらいでした。ある日の昼食の時、先生が見かねたのか、私を呼んで、白米の入った弁当箱から一口くらいのごはんとメザシを一匹を分けてくれました。涙を流しながら、かみしめながら食べたのを思い出しました。

私の母も人の良さでは天下一品で、買い出しに来る親子連れがいると、我が家の家族は9人もいるのに、おにぎりを作って渡していました。その分誰かが我慢していたのですが、誰も文句は言いませんでした。私も人に優しく、喜びを与える人になりたいと思ったものです。今では懐かしい思い出となって、私の心の中にあります。

 


# by minitayori | 2017-08-26 22:09 | Trackback | Comments(0)

二匹の魚と5つのパン

二匹の魚と5つのパン
「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。
けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
ヨハネ 6:9

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# by minitayori | 2017-08-26 22:02 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 8月24日 マタイ福音書14章13―21節

8月24日 聖霊降臨後第12主日 マタイ福音書141321

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14:13 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。

14:14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。

14:15 夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」:16 イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」

14:17 弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」:18 イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、19 群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。:20 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。

14:21 食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。

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「礼拝に備えて」

 人里離れた所にイエス様と弟子達がいました。そしてその周りには5000人ほどの群衆がいたと記されています。イエス様と弟子達が船に乗って人里離れた所に行ったのは、他の福音書を見ると、祈り、神様のみ心を聴くためであったと想像されます。連日の仕事でイエス様も弟子達も、休養と共に神様との会話の時が必要だったのでしょう。神様に祈るという事は、神様のみ心を知るという事です。

夕暮れになりました。弟子たちは集まっている群衆を見て、心配してイエス様に、群衆をそれぞれの家に帰るように勧めることを提案します。しかし、イエス様の返事は思いがけないものでした。「あなた方が彼らに食物をあげなさい」という事でした。5000人もの人々への給食です。弟子たちの懐のお金ではどうにもなりません。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」と弟子達に言います。

 この5つのパンと二匹の魚は、他の福音書によると一人の子供が差し出した物であると記されています。今日と違って不便な時代、旅する時には食事は必需品です。5000人の群衆もそれぞれイエス様の噂を聴いて集まる時、当然夜遅くなるかもしれないことを知っていたはずですから、一食分くらいの用意はしていたはずです。

 しかし、夕暮れになってみんながお腹をすかしている時に、自分の持ちものを全て差し出したのは、一人の子供だけだったのです。優しさとは、憂いを持っている人のそばに、そっとたたずんでいる事を意味する言葉だそうです。イエス様が弟子達に教え、また私達に教えようとしている事は、神様の愛は優しさを通して表されという事です。弟子たちのように「勝手に帰らせましょう。」ではなく隣人の重荷、苦しみを共に担える者となりなさい、それが神様のみ心ですよ、という事ではないでしょうか。






# by minitayori | 2017-08-26 21:50 | Trackback | Comments(0)

ルリマツリ

ルリマツリ
教会の前の道の家の上木、道にはみ出すように咲いている花。
昨年は礼拝の帰り道、集まって「なんの花だろう?」と話し
合ったが結論出ず。結局は、「なんの花だろうに」と勝手に
花の名前をつけつたが、今年は図鑑に見つけた。
ルリマツリ=花言葉は「同情」

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# by minitayori | 2017-08-26 21:41 | Trackback | Comments(0)

百合の花


百合の花
百合一輪と向かい合って、どんな声が聞こえますか。
長くない花の命です。でもとても明るく、誇らしげです。
明日はなくとも、今日がある。喜んで精一杯、咲いて
、周りに喜びを与えましょう。


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# by minitayori | 2017-08-19 21:22 | Trackback | Comments(0)