3月5日の聖壇の花

3月5日の聖壇の花
ジャーマン・アイリスのブルーの色がとてもきれいだった。
私がキリエに好んで使うコバルトブルー。アイリスのの花言葉は
「吉報=よい知らせ」聖書では福音という意味。神様のあなたへの愛
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# by minitayori | 2017-03-11 20:49 | Trackback | Comments(0)

「みにたより294」

「みにたより294」

 夏があり、秋があり、冬があり、春があって美しい花が咲く。私達の人生もそうなのかもしれない。いつもが自分の好きな季節ではない。寒い季節には、じっと家に閉じこもり、春になれば花と同じように生き生きと生きられるようになるのかもしれない。

教会に行く途中の河津桜は、満開を過ぎて新緑の葉が出始めていた。花は枯れ、散り始めていたが、そこに憐れさは感じなかった。新しい命の芽吹きがあったから、また来年会おうね!と語ることができた。新緑に彩られた美しい桜の最後を映したいと思ったが、残念ながらいつも持参のカメラが壊れて写せなかった。

美しいままで心に残してほしいと語っているようで、ほほえましかった。教会である方と話し合った。なぞなぞだが、最初四つ足で歩き、次に二本足で歩き、次に三本足で歩く動物は何か?答えは人間。私は今3本足で歩いている。身体も頭も少しずつ赤ちゃん帰りをするのだそうである。

でも赤ちゃんのように可愛く、みんなに好かれ、笑顔で迎えられるような幼児帰り≪高齢者≫になれないものかと思う。知ったかぶりをし、都合の悪い時は聞こえないふりをし、力仕事も避けるようになる。これではかわいい幼児帰りはできない。

素直に自分の弱さを認め、謝る謙遜さをもち、助けられている喜びを「微笑みで返す」くらいの余裕をもって生きていたいものですね。

マザーテレサの言葉

親切で慎み深くありなさい

あなたに出会った人がだれでも

前よりももっと気持ちよく

明るくなって帰れるようになさい

親切があなたの表情に

まなざしに、ほほえみに

温かく声をかけることばにあらわれるように

子どもにも貧しい人にも

苦しんでいる孤独な人すべてに

いつでもよろこびにあふれた笑顔をむけなさい

世話するだけでなく

あなたの心を与えなさい

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# by minitayori | 2017-03-11 20:40 | Trackback | Comments(0)

メジロ

メジロ
アパートの敷地に来たメジロ。前回梅の花を食べに来たメジロかな?
もう梅の花はなくなったね。もうじき桜の花が咲くからね。それまで
元気で、がんばって!
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# by minitayori | 2017-03-11 20:31 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 3月12日

 312日 四旬節第2主日 マタイ福音書201728

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20:17 イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。

20:18 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」

◆ヤコブとヨハネの母の願い

20:20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」

20:22 イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」 ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。

20:25 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、

20:27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。

20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

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「礼拝に備えて」

 今は四旬節(昔は受難節と呼んでいた)の季節。旬=10日のことで40日の間イエス様の合われた苦難を覚えて受難主日に備える。そして受難主日の次の日曜日に主の復活を祝う。復活から50日目の日には、弟子たちに約束の聖霊が下った聖霊降臨日を覚えることになる。そしてこの聖霊降臨日が、実は弟子達が恐れから勇気をもって宣教する人なった日でもある。

 この日のために弟子達を教育する教えが続く。まず今日は、イエス様がエルサレムに入って苦難をうけることが語られている。何を勘違いしたのか、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエス様のところに来てひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」

 弟子たちが、イエス様の心を理解せず、自分達のことだけを考えていることに気づかされる。イエス様が全ての人の救いのために苦難を受けようとするとき、人々は自分が天国でイエス様と一緒に、誰よりも高い位置に着きたいと願っていたのだ。今までのイエス様の教えは、弟子たちの心にしみこんではいなかったのだ。

 弟子達にはイエス様の心がわかっていなかった。それは今の教会でも一緒ではないだろうか。本当に苦しむ者、悲しむ者と共にあろうとする教会であっただろうか。障害者の委員会で全国の教会に「障害者のために必要な施設が整っていますか?」というアンケートを取ったことがある。「点字の聖書を整えています」とか、「エレベーターを設置しました」等々、いろいろな配慮が示されていることを知った。

 しかし、一つの教会からは驚くような答えが返ってきた。「幸いにも、私達の教会には障害者は来ていませんので、特別な用意はありません。」幸いにも・・・。

 イエス様は天に昇られる日に、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言っておられる。

 これは教会に対する厳命である。私たち一人一人への命令だと思う。人を差別しない教会、宣教の仕方を通して一人でも多くの人の救いを願う教会であり、私たちでありたいと思います。

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# by minitayori | 2017-03-11 20:27 | Trackback | Comments(0)

青空に映える椿の花

近くのお宅の椿の木
もう一本あったが、いろいろな色の大きな椿の花が咲いていた。
次回に写せたらお見せします。青空をバックにした花はきれいです。
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# by minitayori | 2017-03-11 20:11 | Trackback | Comments(0)

散歩道で出会った花

散歩道で出会った花
芝生の奥に咲いていたので、よく見えなかったが、名前もわからなかった。
でも、花の少ない季節に美しく語りかけてくれた。
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# by minitayori | 2017-03-04 21:50 | Trackback | Comments(0)

「みにたより293」

「みにたより293」

人間と言うものは勝手なもので、自分がかわいいので、何とかして自分をかばおうとしている。亡くなられた三浦綾子さんが、対談の中で次のようなことを言っていた。「自分は、リンゴの皮もむけないほど役立たずであるにもかかわらず、ただ小説を書いていると言うだけで、大事にしてくれる人がいる。しかし、自分の役に立ってくれる人はかわいいが、じゃまする人をかわいいと感謝する、という思いにはなかなかいかない。どうも自分勝手な自分を見る」と言う。

「たとえば、自分が大切にしている高価な器があったとする。自分が留守の時、誰かが壊してしまったら、ものすごい形相で怒るだろう。しかし、その大事にしている器をだれも見ていないところで自分自身が壊したとしたら、他人が壊したと同じような形相で怒るだろうか。『あ、しまった』と言って頭を軽くたたくかなでるかして、あたりを見渡して、そそくさと後かたづけをして、しらんかをしているのではないか。一番恐ろしいのは、『すべての尺度は自分である』と言うように、自分がしたことはたいしたことはないと過小評価し、他人のことになると不当に評価すること」といっていた。

自分が中心になって、自分かわいさのあまり、ゴムのような「伸縮自在の物差し」を心に持って、自分で勝手に伸ばしたり縮めたりして測って、人を裁いてしまうのだ。イエス様はそんなわたしたちの心を知っていらしたから、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」と言われた。弟子たちはイエス様の憐れみの深さ、愛の広さを、なかなか理解できなかった。 また、ゴムひもの物差しでイエス様を測り、イエス様を十字架に追いやってしまったのが、ユダヤ人のパリサイ派の人々ではなかっただろうか。

 しかし、この自在の物差しを「赦しとして」神様がもたれたらどうだろう。その人にふさわしい赦しを与えてくださる神様の愛。老若男女、貧富、力の強弱に関わらず、神様の愛はその人に充分に注がれる。ありがたいことです。


 キリストは、すなわち神である

だからキリストの手は、 またわたしまで伸びてくる。

八木重吉

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# by minitayori | 2017-03-04 21:42 | Trackback | Comments(0)

にらの花

にら花
私がこの花に出会ったのは、清瀬にある全生園という施設の庭だった。
広い敷地の片隅にあった焼却場の前、一面に真っ白に咲いていた。
偏見の中で隔離されていた人々の持ちモノでも燃やしたのかもしれない。
花が涙のようにも見えたし、天使の白い衣のように思えた。思わずこうべを
垂れて祈りを捧げました。
この花は近くの団地の片隅に咲いていたものです。
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# by minitayori | 2017-03-04 21:31 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 3月5日  マタイ福音書4章1~11節

月5日  マタイ福音書4章1~11節

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4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。

4:2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」

4:5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」

4:7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。

4:8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。

4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」

4:11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

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「礼拝に備えて」

 聖書の中の創世記を見ると、最初の人間が誘惑に合った話が出てくる。エデンの園での出来事であった。サタンは蛇の姿を取って最初の人を誘惑した、と書いてある。蛇の誘惑の目的は、人から、神に従う心を失わせること、そして自分自身の思いで行動するように変えることであった。

 新約聖書が書かれたギリシャ語では、試練と誘惑とは、同じ言葉が使われているという。これも面白い表現であると思う。人生はいつも岐路に立っているといわれる。いつも何かの選択をするように求められている。右に行くか左に行くか。

引退して清瀬のケアハウスに入った時、慣れない道を、花の写真を写しながら散歩に出かけた。少し新しい道を歩いたつもりが、隣の町まで行ってしまって、交番に駆け込んで道を聞いたことがある。その時はまだ元気に歩けたので、結局はもと来た道を歩いて家にたどり着けたが、30分の散歩のつもりが1時間以上歩いてしまった。

 イエス様の公生涯の初めは、荒れ野での誘惑から始まった。その第一は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」40日の飢えと渇きの末の誘惑だった。この誘惑に対して、イエス様は「人はパンだけで生きるものではない」と答え、また、「主なるあなたの神を愛し、また神にのみ仕えよ」と言われた。

 アダムはエデンの園で、豊かな食べ物を与えられながら神のようになりたいと思い、神に従う心を放棄し、禁じられていた園の中央の木の実を食べてしまった。その時から人の心に、自分中心の心、自分を常に正当化する罪の心が始まった。しかし、イエス様は飢餓の中でも「主なるあなたの神を愛し、また神にのみ仕えよ」と、神への従順を第一とされた。

 私達の人生は試練の連続である。苦難に合う時もある。その時にイエス様に従って、「主なるあなたの神を愛し、また神にのみ仕えよ」と言うイエス様のお心を、イエス様と共に持ち続けたい。


# by minitayori | 2017-03-04 21:22 | Trackback | Comments(0)

団地の中の裸のイチョウの木

団地の中の裸のイチョウの木
春の陽気に誘われて近くの団地の中を散歩した。この団地には
桜の木があって、美しく咲くのだが、まだつぼみもなかった。
裸にされたイチョウの木が、なぜか誇らしげに見えた。新しい
芽吹きが近いからか。がんばって!自然の木がうらやましい。
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# by minitayori | 2017-03-04 21:14 | Trackback | Comments(0)

2月19日の聖壇の花

2月19日の聖壇の花
この日はわたしの誕生記念(20日)

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# by minitayori | 2017-02-25 21:04 | Trackback | Comments(0)

「みにたより292」

「みにたより292」
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私の家の家庭礼拝では、聖書日課を使っています。しばらく創世記のお話が続くので、確認するために聖書の巻末にあるパレスチナの地図を見直しています。こんな話をどこかの聖書研究でお話したことがありますので紹介します。

北のへルモン山から発した川が、二つの湖を作りながら南にまっすぐ降りて塩の海に入ります。 一番北の小さい湖は「フーレ湖」、その次は「テベリヤ湖」、南のー番大きい湖が「死海」(塩の海)です。このテベリヤ湖は、聖書では「キネレトの海」「ガリラヤの海」としてしばしば出てきますし、イエスさまの最初に伝道なさった地方はこの湖の主として北から西にかけてです。

この三つの湖をつないでいるのがヨルダン川です。ところでこのガリラヤ湖と塩の海は見たところどちらもたいへん美しい湖ですが、ガリラヤ湖のほうは淡水で魚がたくさんすんでいるのに、塩の海のほうは魚もすめないほど濃い塩水です。

それはガリラヤ湖のほうはいつもヨルダン川の上流から水が注ぎこんでおり、またそれが死海のほうへと流れ出ているのに対し、死海のほうは川の水が注ぎ込んでいるだけで流れ出て行きません。地中海などの海面よりも392メートルも低いうえに近くの岩塩などが溶けこみ、蒸発によってだんだんその塩分が濃くなってしまったと考えられています。そのため名前までも「死海」となってしまいました。

イエスさまの教えてくださった愛も、このガリラヤ湖と死海をたとえとして考えることができます。私たちの信仰が、もらうだけで与えることをちっともしない心になってしまえば、川が流れこんでくるばかりで出口のないために、塩分の濃度が濃くなった「死海」のように、愛の住むことのできない心になってしまいます。老若男女に関係なく、神に愛されている私たちが、人々を愛していく歩みーーガリラヤ湖のようなーー、生きている信仰生活をしたいものです。マタイ253135


# by minitayori | 2017-02-25 21:00 | Trackback | Comments(0)

椿の花

散歩途中のお宅に、椿の木がありました。少しづつ花が咲き始め
招いてくれるようでした。小さなデジカメで写しましたので少し
ボケて見えますが、近くまた写し直してお目にかけます。

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# by minitayori | 2017-02-25 20:49 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 2月26日





2月26日 変容の主日 マタイ 171~9節

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17:1 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 17:2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。

17:3 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。 17:4 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

17:5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。 17:6 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。

17:7 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」

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「礼拝に備えて」


 このイエス様の変容の記事は、ルカによる福音書9:28-36にも載っています。イエス様の変容のお姿に感激した弟子たちの姿が記されており、目を覚ました弟子たちが、「モーセとエリヤが、栄光の中でイエス様がエルサレムで遂げようとしている最後のことについて話していた。」と記され、その後で弟子たちが、この栄光の山の上に小屋を建てて住みたいと、イエス様に提案します。


 しかし、イエス様は栄光の山にとどまらないで山を下りていかれます。イエス様が下りられた山のふもとにはイエス様の助けを必要としている人々が多く待っていました。


 イエス様は栄光の中にいる救い主ではなく、病める人、苦しむ人、孤独の中にいる人と共にいる救い主となり、最後には十字架にかかり、罪の故に苦しむ全ての人の救い主となることを選んでくださいました。


 このことは教会のあるべき姿、キリスト者のあるべき姿を示してはいないでしょうか。私の好きな詩で、{聖フランシスの平和の祈り}と言う詩があります。歌にもなっていて、手話でも教えてきました。



(聖フランシスコの「平和の祈り」より)


神よ、わたしを、 あなたの平和を実らせるために、用いてください。


わたしが、憎しみのあるところに、愛をもたらすことができるように、


また、争いのあるところに、和解を、


分裂のあるところに、一致を、


疑いのあるところに、真実を、


絶望のあるところに、希望を、


悲しみのあるところに、よろこびを、


暗闇のあるところに、光をもたらすことができるように、助け、導いてください。


神よ、わたしに、


慰められることよりも、慰めることを、


理解されることよりも、理解することを、


愛されることよりも、愛することを望ませてください。


わたしたちは、


自分を与えることによって、与えられ、


すすんでゆるすことによって、ゆるされ、


人のために死ぬことによって、永遠に生きることができるからです。


 なにやら騒然としている世相です。この時にこそ、平和と一致、愛することの大切さと、愛されていることを知る喜びをもって生きる者でありたいと思います。イエス様と共にいるならば、神様のお声「これはわたしの愛する子」と言うお言葉を、イエス様と共にあなたも聞くことができます。


この美しい地球に平和を!e0191585_20414459.gif






# by minitayori | 2017-02-25 20:44 | Trackback | Comments(0)

クリスマス・ローズ




クリスマスローズ
クリスマスでもないのになぜクリスマスという名がつくのだろうか?
図鑑によると荒涼とした山地に咲くことからつけられたとの由。
キリストは悲しむ人の心、貧しい人の心に来て下さる、からかな!
ちなみに花ことばは「共にに楽しむ」とのよし。みんな幸せに、
神様の願いですね!

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# by minitayori | 2017-02-18 21:17 | Trackback | Comments(0)

「みにたより291」

「みにたより291」

 昔読んだ本に「『引き算』で生きて見ませんか」という小冊子がありました。その中に星野富弘さんの「タンポポ」という詩『いつだったかきみたちが空をとんで行くのを見たよ/風に吹かれてただ一つのものを持って/旅する姿がうれしくてならなかったよ/人間だってどうしても必要なものはただ一つ/私も余分なものを捨てれば空がとべるような気がしたよ』という詩が引用されて次のような説明が書かれていました。

 人生には「足し算的生き方」と「引き算的生き方」の二つの生き方がある。足し算的生き方とは、人生にお金や財産を増し加えて行く生き方で、例えば、お金、物、知識、教養等等、それを加算して行く方法、いわゆる勝ち組、強者の生き方である。

しかし、そのためにより一層努力することが必要となってしまう。それは良いことではあるが、それが人生における目的となってしまうところに問題がでてくる。この「足し算的生き方」は、いくら足しても終わる事なく、いつまでも生きている限り続く。その結果、人のことは考えられず、時には犯罪まで犯してしまうことさえある。私たちの身近で経験しているところである。

 それと反対に、「引き算的生き方」とは、自分が今もっているものを一つずつ引いていく生き方で、それをすると、最後にはゼロになってしう。このゼロとは何もないことを意味している。このゼロは、いくら並んでもゼロで百万個のゼロが並んでもゼロである。

 しかし、「0」の横に「1」を並べると「10」になり、「0」を二つ並べると「100」になるというように、「0」のままなら何の意味ももたないのに、他の数字のそばに並べると、十倍にも何百倍にもなり、「自分自身が何もないゼロでありながら、他を大きく豊かにすることが出来、他を生かす無限の力をもっている。ついには、余分なものを捨てれば、私たちもたんぽぽのように空を飛べるかもしれない……。

 日本語の漢字に「優しい」と言う漢字があります。良く見てみると「憂い」の横に「人」と言う字があります。漢字の素晴らしさと思うのですが、優しいとは憂い、悲しみをもっている人の横にそっと立ってあげる人のことだと思うのです。私はこの言葉を思い出して、イエス様のことを思いました。

イエス様はゼロの横にそっと立ってくださる方だと思ったのです。人々から罪の人と疎外されていた人々や、罪の結果とさげすまれていた病気の人々の横にそっと立ち、自分をゼロだと絶望しそうな人々を、あなたも神様の大切な宝物、と優しく語りかけてくださっています。人生の計算式、イエス様の前で、大胆に引き算で生きていきたいと思います。

今もイエス様はあなたのそばにいてくださいます。苦しい時、悲しい時、心細い時、「わたしが共にいるから、大丈夫!」と声をかけてくださいます。さあ勇気を出して。

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# by minitayori | 2017-02-18 21:07 | Trackback | Comments(0)

孫の作ったバレンタインチョコ

孫がくれたバレンタインチョコ
小学生6年の孫がバレンタインチョコを作って持ってきてくれた。
私の顔を考えながら作ってくれたそうだが、どれもいい顔ですね。

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# by minitayori | 2017-02-18 20:53 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 2月19日 マタイによる福音書5章38~48節

2月19日  マタイによる福音書5章38~48節

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5:38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。:39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

5:40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。

5:41 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。:42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。:45あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。

5:46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。:48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

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「礼拝に備えて」

 イエス様の弟子教育が続く。イスラエルの人々に求められていることは、聖書の教えに従って生きることではあったが、その中心は神様と共に生きること、神様のみ心に従って生きることであった。創世記6章9~「ノアは神と共に歩んだ。」と書いてある。

 それはノアが神のみ旨に従って歩んだ、という事であった。その生き方の集大成がイエス様の行動に示されている。神様のみ心に従って、十字架の道を歩み続けた。「み心に従います。」と血の汗を滴らせながら、恐怖に耐えつつ、神のみ心に従う道を選ばれた。十字架の上で、今自分にやりを刺そうとしている人々のために、イエス様は「父よ彼らを赦して下さい。彼らは自分が何をしているかわからないでいるからです」と祈られた。

 この祈りの言葉を聞いた弟子たちは、どのように思っただろうか。イエス様を裏切って、見捨てて逃げ帰った彼らは、イエス様と最後の時を過ごしたあの部屋で、鍵をかけて震えていた。この弟子たちに、十字架から降ろされたイエス様を葬った婦人たちがやって来て、イエス様の最後の祈りを伝えた。

 イエス様の十字架の祈りは、兵士たちだけではなく、イエス様を裏切った弟子たちへの祈りでもあった。私をも含んで祈ってくださったイエス様の祈りは、弟子達を新たな献身に導き、死をも恐れぬ使徒へと成長させた。

 私達も弟子たちと同じように、罪を犯し、弱さに嘆く時、また不信仰に苦しむ時、自分が神様の弟子にふさわしくないと悩む時に、イエス様の赦しと愛の、この祈りの中に私も包まれていることを忘れないでいたいものです。


# by minitayori | 2017-02-18 20:48 | Trackback | Comments(0)

満開近い河津桜

教会の帰り道にあるお寺の前に河津桜が一本植えてある。
先週はほぼ9分咲きといえた。青空に映える桜の花は本
当に美しい。残念ながら桜の花がきれいに見えない。
折角のの桜に謝りたい気持ちです。

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# by minitayori | 2017-02-18 20:37 | Trackback | Comments(0)

雪と鉄砲ユリ

大雪ではなかったが久しぶりに東京でも雪が降った。
アパートの花壇の白いユリの花に、鉄砲ユリが加わって
にぎやかになっていたが、この雪で驚いているだろう。

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# by minitayori | 2017-02-11 22:13 | Trackback | Comments(0)

「みにたより390」

「みにたより390」

聖歌の名曲“キリストにはかえられません”
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 アメリカで最も愛されているといわれるゴスペルシンガー、ジョージ・ベバリー・シェーは、あの名曲“キリストにはかえられません”の作曲者でもある。2002年、九十二歳になるこの老人は、五万人の会衆を前に、“キリストにはかえられません”を力強く歌った。彼の豊かな人生の秘訣をインタビューに答えて次のように語っている。

「私は1909年、オンタリオ州で生まれました。父は牧師でした。当時は六人兄弟。朝になると、母はよく、“歌いつつ歩まん”など古い聖歌を歌って子どもたちを起こすんです。ですから、賛美が生活の中に自然に溶け込み、私は本当に聖歌が好きな子どもになっていました。

 ある日曜の朝、私の前には一編の詩が置かれていました。ピアノの前に座った瞬間、あのメロディが心の中にあふれてきたのです。私が最初の一節とコーラスの部分を弾き終えた時、母が目にいっぱい涙をためて部屋に入って来て、私をしっかりと抱き締めたのです。母は、当時、23歳の私の信仰を心配して、この詩が私の人生に影響を及ぼしてほしいと願っていたようです。ですから、この日曜の朝に、最もふさわしいことが起こったのです。

私を変えたこの一編の詩は、レア・ミラーというクリスチャンが書いたもので、母が私のために持ち帰り、机の上においてくれたものでした。“キリストにはかえられません”という詩だったのです。私は今、九十二歳ですから、旅行をするにもかなり疲れを覚えます。しかし、私は主を見上げることを学びました。確かに、主はそこにおられるのです。主は私たちを愛しておられます。そして、私たちが願う以上に与えてくださるお方なのです。

私は自分の人生を振り返って、不思議に思うことがあります。どうして、私のような者が神様の御用ができるのか。初めのころもそうですし、最近もそうなのですが、自分は不適格者ではないのかと思うのです。でも、主は、賛美を歌う特権を私に与えてくださいました。恵みと言うほかはありません。今私は、この恵みe0191585_22092615.gifの中で、感謝の日々を送っています。」

 

キリストにはかえられません
 (聖歌521番、讃美歌第2編195)

*21歳の時に、私はこの讃美歌に出会いました。聖書学院の学生の時、男女4人のコーラスを作り、伝道集会で奉仕をしていました。歌いつつ、何度も涙をし、新たな思いをもって神様に仕える決心を確認したものです。

 最近、時々この聖歌を口ずさみます。50年たった今もこの歌の歌詞を覚えています。それはわたしの信仰そのものであったからです。

 1、キリストにはかえられません。世の宝もまた富も、

   このお方がわたしに 代って死んだゆえです。

 ・・(くりかえし)

(世の楽しみよ、去れ、世の誉れよ、行け。キリストにはかえられません。世のなにものも)

 2、キリストにはかえられません。有名な人になることも、

   人のほめることばも、この心をひきません。

 ・・(くりかえし)

3、キリストにはかえられません。いかに美しいものも、

   このお方で心の みたされている今は。   

 ・・(くりかえし)


# by minitayori | 2017-02-11 22:10 | Trackback | Comments(0)

孤独な雀

孤独な雀
近くの木に多くの小鳥が集まっている。その御屋敷の人が小鳥のえさをあげているのかな?近くに行ったら10数羽の小鳥が飛び立った。そのあとでやっと出てきた壱羽の小鳥が、近くの枝に止まって一休みしていた。若くはないのかもしれない。なんとなく親近感を感じました。一緒に遊ぼうか!

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# by minitayori | 2017-02-11 22:04 | Trackback | Comments(0)

12日 礼拝に備えて 戒め

2月12日 顕現節第6主日 マタイ福音書5章2137
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5:21 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。5:22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。 5:23 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、 5:24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。 5:25 あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。
5:26 はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」
5:33 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。:34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。 5:35 地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。5:36 また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。 5:37 あなたがたは、『然り、然り』『否、否と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」
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「礼拝に備えて」


 イエス様は弟子たちに、十戒の意味をかみしめる様な教えをされています。腹を立てるな、姦淫するな、離縁するな、誓うな、と。そもそも十戒は、神様が上から押し付ける命令ではなく、神様の愛のみ心に応えて、感謝をもって行動すべき規範であると思います。
 出エジプト記を見ると「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトから導きだした神である」と、十戒を語る前にご自分が何者であるかを宣言しておられるのです。十戒は罪を犯した民達に、それでも「わたしはあなたの神である」と、ご自分は人々を見捨てない神であることを宣言していてくださるのです。
 その神様の優しさの中に生かされている者として、どのように生きるべきかが十戒の中に示されています。つまり、神様の愛に生かされたものの生き方と言うべきかもしれない。愛すべき隣人を傷つけないように、この一言に尽きるのではないだろうか。I love you.と言う言葉を明治の文豪が訳して「あなたのために死んでもいい。」と言いきったそうです。
 神様はまさにこのことをしてくださった。「あなたのために死んでもよい。」イエス様を十字架にかけるほどにあなたを愛してくださっているのです。この愛に応え、愛に生きる人間になりなさい。この心をもって、隣人に、家族に、友人に接してゆけるものとなりなさい。それは弟子たちへの教えであり、私達への教えなのです。





# by minitayori | 2017-02-11 21:57 | Trackback | Comments(0)

我が家の祈りの花、胡蝶蘭

わが家庭の祈りの花・胡蝶蘭
やっと咲き始めました。教会の友人から一鉢いただいて数年。
今は三鉢になっています。

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# by minitayori | 2017-02-11 21:45 | Trackback | Comments(0)

29日の聖壇の花

29日の聖壇の花
朝早く教会に来て、一人黙々と花を生ける。誰もいない礼拝堂に活けられ花瓶と一緒に飾る。
それを十字架がじっと見つめている。静寂の中の礼拝。

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# by minitayori | 2017-02-04 18:21 | Trackback | Comments(0)

「みにたより289」

 「みにたより289」

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私の最後の任地の、熊本に行って珍しいと思ったのは、テレビの天気予報に紫外線情報があったことです。あまり見た記憶が無かったので、最初は大変愉快に思えました。しかし、半端な日差しではない熊本の夏、欠かせないのが帽子と傘のようです。もっとも東京に来ても、最近は熊本と同じように日差しの強い日があります。目が悪くなったここ数年はサングラスを付け、帽子をかぶるようにしています。帽子は髪の毛が薄くなったからでもありますが・・・。

ある方が傘についてこんな話をしておられます。

 「雨や日光を遮るときは、一杯に広げて使うものですが、雨避けや日避け以外にも、体を支えるステッキにも使え、便利なものです。しかし、多くの人は、雨が止んでしまうと、途端に傘の存在を忘れてしまいます。」ちなみに電車でいちばん多い忘れ物は傘だそうです。熊本教会でも、一年に20本近くの傘が、忘れ物として残されていました。

 残念なことに、これは神様についても言えそうです。日ごとの生活の中で、私たちは人の手で作られた便利なものに囲まれ過ぎて、自然の中の神様によって造られた、もっと偉大なものを忘れてしまっているようです。ちょうど雨が止んでしまうと、傘のことなどすっかり忘れてしまうように、人は神様の恵みを忘れてしまいます。

 童謡に、「あめあめふれふれかあさんが、蛇の目でお迎え、うれしいな。ぴちぴちちゃぷちゃぷらんらんらん」と言う歌があります。何とのどかな、信頼に満ちた歌ではありませんか。雨がどんなに降っていても、お母さんが必ず迎えに来てくれる。その信頼は、苦難の中でのキリスト者の信仰にも似ていると思います。

 どんな苦難の中にあっても、寂しさ、悲しさ、辛さの中にあっても、「見よ、世の終わりまであなた方と共にいる」と、弟子たちに約束された神様は、今もわたしたちに同じ約束をしてくださいます。神様は、傘のように雨や日差しから私たちを守ってくださるのです。

 私は最近、雨が降らなくても雨模様のときは長い傘を持ってゆくようにしています。傘の先には杖の先につけるゴムを付けています。杖にも同じようにゴムを付けています。滑って転ばないように用心しているのです。傘に転ばぬ先の杖の役目を果たしてもらうためです。健康で幸せなときは、信仰はいらないという人がいます。信仰は弱い人の持つものだとも言います。そうです、私たちは皆弱い罪人です。だから、今のうちから神様と共に歩むのです。

 傘(神様)を忘れないで!!

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# by minitayori | 2017-02-04 18:15 | クリスマス | Trackback | Comments(0)

梅の花とメジロ

梅の花とメジロ
アパートの道路側のしだれ梅に花が咲いた。写真を撮っていたら花の少なさを補ってくれるようにメジロが来てくれた。わたしの目にはよく見えなかったが動くものがいたので夢中でシャッターを押していたら何枚かの中の一枚に移っていた。
偶然の喜びでした。

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# by minitayori | 2017-02-04 18:10 | クリスマス | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 2月5日 マタイ福音書5章13-16節


25日  マタイによる福音書5章13-16節

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◆地の塩、世の光

5:13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。:14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 5:15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。:16そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

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 「礼拝に備えて」


 この日曜日は多くの教会の総会の日だ。全国の教会で既に終わったか、この日曜日に総会が行われる。私は、教会の総会では、その教会の一年のスローガンとみ言を中心として、世に送り出された教会らしく宣教の業、神様に託された業に専心しようと訴えてきた。準備の段階で自分の中で良く一年を吟味し、その反省の上に立って次にどのような教会にしようか、教会を成長させようかと祈りつつ考えたものである。

 40年の牧会生活の中で、最初の頃が一番純粋に考えていたように思うが、一貫して変わらなかった事は、「隣人にキリストを」という年題を掲げて、外に向かって宣教の働きをしたことである。教会員と共に、子供の伝道集会を行い、百人ぐらい集まった事、講演会を行い、クリスマスを伝道集会と位置付け、毎年三千枚くらいのチラシを自分達の足で町に配った。、

 暑い日のビラ配り、寒い日のビラ配り、それはみな高校生時代に、私の田舎の教会で働いていた牧師のやり方だった。また聖書学院時代に、開拓伝道、天幕伝道をしてビラを配った経験が、身にしみついた伝道方法だったのかもしれない。私が最初に出会った牧師、宣教師は、教会は卸問屋ではなく小売店のようなもの、来てもらえる店にならなければ商売はできないとよく言われた。

 その頃、ある人がこんな話をしてくれた。「『儲ける』と言う漢字は、信+者と書くんだよ。あそこの教会に行ったら、私の魂の平安に必要なものがある、と信じてもらえれば、遠くからでも来てくれる。」この言葉は誠心誠意、自分が作るものに心をこめて向き合っていた父の職人魂、職人精神に通じるものだった。人に信頼されて商売は成り立つ。教会も同じように、人に信頼されて人が来る。失望すれば来なくなる。「地の塩、世の光となりなさい」と言うイエス様の教えは、「人の魂に必要とされる教会、信徒となりなさい!」という教えではないかと思う。 人々は今も、塩味を求め、光を求めている。LEDの冷たい光ではなく、雪国のカマクラの中で、暖かく人を包み込む優しい炎のような光を灯し続ける教会であり、私たちでありたいと思う。




# by minitayori | 2017-02-04 17:26 | Trackback | Comments(0)

アパートの花壇のユリの花

      アパートの花壇のユリの花
寒い日には、霜柱が立っていた。そのおかげで土が掘り起こされ、ユリの芽が出た。今は秋の日差しを浴びて、白と黄色のユリの花が咲き乱れている。自然の営みの素晴らしさ。
 神様の命のはぐくみの神秘さか。わたしもその中の一人。

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# by minitayori | 2017-02-04 17:09 | Trackback | Comments(0)