22日の聖壇の花

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 この日の聖壇の花はアルストロメリア。南アメリカ原産で、花ことばは「幸福な日々」。皆さんへの神様の祈りですね。

# by minitayori | 2017-01-28 21:25 | Trackback | Comments(0)

「みにたより288」

「みにたより288」
 「祈りの心」という信仰書に書かれていたある母子の話です。
 ある熱心なクリスチャンの母親が、梅雨の最中、すこしばかりの晴れ間を見て、急いで洗濯物を干しに出ました。五歳の娘もあとからついてきました。お母さんは曇り空を見上げながら、『マリちゃん、お洗濯物が乾くまで雨が降りませんように、一緒に神様にお祈りしましょうね。きっと聞いてくださるわ。』と言って、二人で手を合わせ一生懸命に祈り始めました。
 すると、途端にポツリポツリと雨つぶが落ちてきました。一瞬、お母さんは『ああ、どうしよう!?』と思いました。「神様は祈りをきっと聞いてくださる…。」小さい娘に嘘をついてしまったことになるからです。お母さんはマリちゃんのほうをそっと見ました。目が合うと、マリちゃんはにこっと笑って『アッ!お百姓さんが先におねがいしちゃったのね。』と嬉しそうに言ったというのです。 
 お母さんは、娘の思わぬ答えにホッとして胸をなでおろしましたが、同時に、大人の頭の硬さ、不信仰をいやと言うほど思い知らされてしまった、と書いてありました。動脈硬化になりやすい大人の頭に対して、柔軟な幼児の思考の巧みな宙返りには、自他共に救われる見事さがあります。お母さんは自分のことだけしか考えない、しかし、五歳のマリちゃんの開いた心と素直な信仰は、隣人を包んでしまうほど豊かに育っていたのです。e0191585_21153710.jpg
 私たちもどこかで、自分の思うことが一番正しいという思いを持ってはいないでしょうか。お母さんは、わずかな晴れ間を見て洗濯物を干した、家族のために。そしてお祈りしました。当然神様は自分の善意に対して答えてくれてもいいはずだと神様に不満を持つ、それがわたしたちの信仰の弱さとしてあるように思います。
 キリスト教の信仰と祈りは、神様への押し付けはしません。神様を自分の召使のようには思いません。「御心の天になるように、地にもならせてください。」という『主の祈り』は、祈りとは神様のみ旨が第一になるということを示しています。神様は一番良いことをしてくださる、この幼子の素直さを持って、神様の御心に従う日々でありたいと切に願います。



# by minitayori | 2017-01-28 21:16 | Trackback | Comments(0)

桜のつぼみ

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 先週の教会の帰り道、近くのお寺の桜の花がつぼみを膨らませ始めていました。もう春ですね!春ですよ!

# by minitayori | 2017-01-28 21:11 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 1月29日 顕現節第4主日 マタイ 4章18~25節

1月29日 顕現節第4主日 マタイ 4章18~25節
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4:18 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。:19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。:20 二人はすぐに網を捨てて従った。
4:21 そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。:22 この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
◆おびただしい病人をいやす.
4:23 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。:24 そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。:25 こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。
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「礼拝に備えて」
 イエス様の公生涯の初仕事は「弟子たちの召命」から始まった。イエス様は弟子達をどこで招いたのであろうか。公募も資格試験もなかった。イエス様塾を開くこともなかった。日々の生活のために一生懸命働いていた漁師を、その働きの場から選ばれたのだ。
 私は自分の職場で、まさに職場が家庭集会の場となって、そこで招かれて洗礼を受けクリスチャンの道を歩み始めた。そして聖書学院で学び、伝道師の働きを経て、神学校に推薦され、6年の学びの末、やっと牧師の働きが与えられた。
 弟子たちは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」とのイエス様の招きの言葉に従って、イエス様と共に行動することによって、弟子としての教育を受け、イエス様の心を心とし、イエス様の行動にまねて生きる者とされた。それが最初の教会の弟子たちの姿であった。
 私達の信仰もそうではないだろうか。イエス様に出会い、イエス様のお心に触れて感動し、イエス様に従って生きる決心をしてクリスチャンになり、日々イエス様の行動にまねて生きることによって、信仰がはぐくまれ、成長する。
 教会に来ることは、イエス様に見つめられ、愛のまなざしの中に包まれている自分を知り、イエス様に従って生きる喜びを発見するためであると思う。教会に入る、静かな礼拝堂で正面にある十字架と聖壇に向かい合う。そこに既に礼拝が始まっている。イエス様の十字架の犠牲、「あなたのために!」十字架と聖壇が語りかけている。
 そこで出会うイエス様のお姿、聞けるイエス様のお声、そのイエス様についてゆく。イエス様と共に日々の生活をはじめ、全てをゆだねて生きる。ここに信仰生活がある。その様な私達は、「私は道であり真理であり、命である。誰でも私によらないでは神の国に入ることはできない。」と言うイエス様の約束のお言葉に出会う。 


# by minitayori | 2017-01-28 21:00 | Trackback | Comments(0)

冬の富士

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 西武線の駅から見た富士山。久しぶりできれいでした

# by minitayori | 2017-01-28 20:55 | Trackback | Comments(0)

15日の聖壇の花

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 15日の教会の聖壇の花。花の名前を聞きましたが、メモを後にしたので忘れてしまいました。自分が歯がゆいですね。よく知っている花だと思ったのですが・・。だからいけないのですね.。

# by minitayori | 2017-01-21 22:40 | Trackback | Comments(0)

「みにたより287」

「みにたより287」
 先日コンビニにいった。先に入る人、出る人、そのほとんどが、ドアの取っ手を離す前に後続の人がいるかどうかを確かめて、ドアをそのまま押さえていたり、離したりしていた。待っていてくれた人の顔に笑みが生まれ、小声で「ありがとう!」の声が聞こえる。その小さな行為が、それまでの何の変哲もなく見えていた人々の顔をー瞬、美しいものに変える。思いやりとは、魅力と無関係でない。
 文明は、多くの便利さを私たちに与えてくれた。自動ドアがその一つである。両手にいっぱい荷物を下げていても、その前に立ちさえすれば自動的に開き、しかも自分で閉める必要のないものだ。その便利さをありがたく思う人も多いことだろう。
しかしながら、他方で、自動ドアが人間から奪ったものがある。「自分の後ろに続く人を思いやる心」である。この世の中は自分だけで成り立っているのではないという、至極簡単明瞭な事実、自分以外に他人がいて、その人もまた、自分と同じく優しさを求めて生きているという事実、この真に基本的なことが、ドアの開閉の度に思い出されるのと、思い出されないのとでは、いつしか人の心は大きく変わって行くに違いない。いや、すでに変わってしまっている。それは自分中心の心を生み、他人を思いやる優しさを減少させ、ひいては、その優しさが生み出す魅力を持つ人の数を減らしつつあると言っていい。
  一昔前に比べて、たしかに日本人は「きれい」になることを習得した。化粧の仕方にしても、アクセサリーの使い方にしても、洋服の着こなし方にしても上手になっている。しかし、きれいな人が増えるのと、真の人間的な魅力の持ち主が増えるのとは、同一ではないように思う。それはやはり、他人を思いやる優しさが人の心から失われてきているからではないだろうか。  
文明というものは、「便利=自分だけで生きていくことができる世界を作る」ことをその一つの目標としていると言えよう。自動と名のつくものを考えてみると、そのことがわかってくる。かくて文明は、人間関係の煩わしさから人を解放し、物事をスピーディーに処理することを可能にして、忙しい人間に時間を与えてくれる。しかしそれは同時に自動ドアの例でも明らかなように、人間相互の助け合いの機会を減らし、その心を失わせつつあるのだ。
 思いやりというものは、強いものが弱いものに、持てるものが、持たざるものに、つまり上から下に施すものではない。それは「人」という字が表しているように、不完全なもの同士が、支えあう人間本来の姿なのである。この大切なことを、私たちは忙しい日常生活の中で忘れてしまっている。
 昨年末、遠く熊本より遠来の友を迎えて交わりのときを持った。もう何年も昔の交わりを覚えていて大切にしてくれる優しさが、私の心に大きな暖かさを生み出した。地震の後始末もまだ十分ではないという。火の国熊本との交わりの暖かさが、この冬、私の心を暖めてくれた。
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# by minitayori | 2017-01-21 22:31 | Trackback | Comments(0)

鉢植えの白いサザンカ

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 赤いサザンカはもう散ってしまったが、近くの家の鉢植えの白いサザンカが満開になっていた。間もなくサザンカの季節は終わるのでしょうか。次に慰めてくれる花はなんでしょうか。楽しみです!

# by minitayori | 2017-01-21 22:26 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて  1月22日  マタイ4章12-17節

1月22日 顕現節第3主日 マタイ4章12-17節
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◆ガリラヤで伝道を始める
4:12 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。
4:13 そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。:14 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。:15 「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、:16 暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
4:17 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。

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 「礼拝に備えて」
 イエス様の伝道は、ガリラヤ湖の近くにある小さな村から始まった。過疎の地、貧しい村、都エルサレムとは遠く離れた村から伝道を始められた。聖書の表現を借りれば、そこは暗闇に住む者の居住地であった。
 私は愛知県の小さな半島の真ん中の町で育った。その半島には教会もなかったが、近くの町の教会から宣教師が来てくれて、我が家で家庭集会が始まり、小さいながらも教会へと成長していった。私はその町の最初の授洗者となり、やがて牧師となるべく献身して、静岡、沼津で研修し、神学校へと進むことができた。
 今、ふと、なぜ宣教師が私の家に来たのだろうかと考えている。宣教師が来た時は、我が家は戦後のどん底からやっと這い上がろうとしていたところであった。父の仕事が少し軌道に乗り始めた時であったが、その家庭に負いきれない出来事が起きた。 私の兄や姉も病弱であったがその上に、病気で私の弟が聴覚を失った。
 その家族の闇の中に、ラジオを通して光が差し込んだ。苦しんでいた父は、讃美歌に癒され、ルーテルアワーのラジオ放送に耳を傾け、聖書を求めた。それがきっかけで宣教師が我が家に来てくれ、やがて我が家の仕事場が神様の福音を伝える場所になり、小さいながらも教会に成長した。
 闇があったからこそ、小さな光にすがる魂が生まれたのだった。闇に住むことは苦しい事だ。しかし、闇に住むことによって光を見出すことができた。イエス様は光り輝く都ではなく、小さな燈心のもとでひそやかに生きる人々のもとに、来てくださる。自分の心が闇の中にあることは、決して嬉しい事ではない。しかし、神様はその様な人が見つけることができるように、イエス様を光として送ってくださった、と考えることができるのではないだろうか。 苦しい時にこそ、イエス様はあなたの身近にいてくださる。「見上げてごらん、夜の星を、小さな星を!」良い歌詞ですね。
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# by minitayori | 2017-01-21 22:23 | Trackback | Comments(0)

白い水仙

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花壇の霜柱に掘り起こされた土を破って白い水仙が目を出し、秋の日差しを浴びて花を咲かせていました。自然の力を教えてもらいました。これも神様のみ旨の中の出来事なのですね。、

# by minitayori | 2017-01-21 22:18 | Trackback | Comments(0)

霜柱

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 近年まれな寒波が来ているという。朝の風の冷たかったこと。通勤する人々、病院に行く人々、センター試験にゆく若者。毎年ながらこの時期、本当にお気をつけてとしか言う言葉がない。
家の前の花壇を見たら、キラキラ光るものがあった。小さな花壇だが霜柱が立っていた。自然のなす芸術であり、新しい命への大切な営み。土地を掘り起こし、自らを溶かして水分を与える。それが勤めの一時の芸術。だから美しいと思う。

# by minitayori | 2017-01-14 20:59 | Trackback | Comments(0)

「みにたより286」私とキリエ

 「みにたより286」
 先日、ある方がブラジルに行って教会の施設を見て回った時に、あなたのキリエがあったのでとても懐かしく思えました、とお葉書をくださった。また、フェイスブックで、フィンランドの方が私の家にもキリエが飾ってありますと、写真を送ってくださった。
 ずいぶん昔のことだが、ヘルシンキの大聖堂の地下礼拝堂でキリエの展示会をしたことがあった。キリエの実演もし、尺八の音色も流した。これも実演だった。持って行った作品は、日本の伝道のために即売会を開き、ほとんど完売したようだった。
 引退をした時の前の任地では、転任が決まってから地域の展示場で、キリエの展示会を開催した。購入希望者には販売もした。但し、教会への備品寄贈のための販売に限定した。地域の方に喜んでいただき、良い思い出になった。最後の任地の熊本では開催できなかったが、引退した後、ケアハウスの水墨画の先生と、二人展を開いた。大変お世話になった。
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 カトリックのケアハウスの方から、足の不自由な方たちのために、施設で展示会をしてほしいと言われてお貸しした。入所している方が、キリエのイエス様の前で祈っていると言われて、職員の方に選んでいただき、一点を寄贈してきた。
 キリエは、耳の不自由な方たちへの説教のまとめとして作った物、伝えたいことがあって、{キリエー主よ憐れんで下さい。}と祈りつつ造り上げてきた。祈りとメッセージが込められていた。最初の稚拙なものは大部分を処分してしまったが、多忙な牧会の中、40年近く造り続けて今があることを思うと、神様が与えてくださった恵みの賜物であったことを改めて感謝している。
 今は目も悪くなり、体力もなくなり、また、メッセージを伝える対象もなくなって意欲が出てこない。だが、折角いただいた賜物、これで終わっていいのかなーと自問自答をする毎日です。

 


# by minitayori | 2017-01-14 20:51 | Trackback | Comments(0)

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 菊は暑さにも寒さにも強いですね。近くの公園の前にある雑草生い茂る空き地が整備されて、いよいよ家が建つようです。整地されている片隅に今年最後の菊が咲いていました。工事が始まればなくなるでしょうが、今の時こそとばかりに精いっぱい咲いていました。

# by minitayori | 2017-01-14 20:45 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 1月15日 マタイによる福音書3章13―17節

 1月15日 顕現第2主日 マタイによる福音書3章13―17節
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3:13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」:15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。:16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
3:17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

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 「礼拝に備えて」
 イエス様はなぜ{悔い改めの洗礼}を受けられたのか。神の子であり、聖なる方であるなら悔い改めは必要なかったはずであるのに。高校生で授洗した私はいろいろな疑問をもって聖書に向かっていた。聖書の中には「なぜ?」と問うべき事柄が沢山あった。
 イエス様が十字架にかかられたのは?復活されたのなら、今どうして私達に会ってくれないのか?洗礼受けるにあたって、伝道師の先生に質問して困らせたのを覚えている。純粋そのものであったその伝道師(宣教師の補佐をしていた方)は、一度応えてくれた。「お祈りしてご覧、きっとイエス様は会いに来てくれるから。」
 私はその言葉を信じて、深夜まで聖書を読み、祈っていた。ある夜うとうととしているとイエス様が来てくださった。振り向くとカーテンの下に足だけが見えた。勿論目の錯覚であるとは思っていたが・・。
 その話をしたら、宣教師の先生は笑顔で、「神様の家のことを知りたければ、カーテンの外から眺めているだけではだめですよ。家に入れば、ご主人のお顔も見えるでしょう。」私はそれから半年ほどして、洗礼を受けた。イエス様のお顔を見たいという思いは今も持っている。
 しかし一つの事に気がついた。イエス様がこの世に来られたのは、私のためであったという事。悔い改めの洗礼を受けられたのは、そこから歩み始める私と共に歩いてくださるためであると。その様に思えた時、全ての疑いが消えた。イエス様の苦しみ、悲しみ、十字架の死さえも私のため、復活も私のため、と思えるようになった時、イエス様をこの世に送ってくださった、神様の大きな愛に触れ、涙が止まらなくなった。有難いと思った。イエス様のご生涯のすべては、あなたに送られた神様からのプレゼントなのです。あなたにもそのことを知ってほしいと願っています。
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# by minitayori | 2017-01-14 20:39 | Trackback | Comments(0)

紅梅

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 近くの団地の日当たりのよいところに、数本の梅の木がある。つぼみもふくらみ、この寒風の中、紅梅の花が咲き始めていた。あまりの寒さに戸惑っているようだったが、花は自分の時に精いっぱい咲く。だから美しく見えるのだろうか

# by minitayori | 2017-01-14 20:27 | Trackback | Comments(0)

サザンカ

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 公園の中にサザンカが寒そうに咲いていた。多くの花は散り始めていたが、この花はけなげにも一生懸命咲いていた。寒風の中、散らずに待っていてくれたような気がして、「ありがとう!」と心でつぶやきながら写真におさめました。

# by minitayori | 2017-01-07 20:44 | Trackback | Comments(0)

「みにたより285」

「みにたより285」
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現役の時、多くの方の見送り、つまりお葬儀をしてきました。元気な時は悲しみつつも、やや遠い世界のことのように思っていたが、最近はすごく身近に感じるようになりました。別れの悲しみが心身に応えるようになりました。最近も、長い間友として語り合ってきた方が召されました。今日も教会事務所から訃報の連絡がありました。教会の働きの中で何度か語り合った方でした。

「いつだってともだち」という絵本の中にあるお話です。
小象のベノはとても仲良しだったフレディがいなくなり、悲しくてどうしようもなくなりました。そこでふくろうのホレイカに相談すると、こう答えてくれたのです。「おまえができることは、三つある。」 「ひとつ、悲しいときには我慢せずに泣くこと。どんなに分厚い雨雲だって、雨を全部降らせてしまえば消えてしまう。泣くというのはそういうことさ。」「ふたつ、悲しい気持ちを誰かに話すこと。おまえが大切に思う人なら、おまえの悲しみを絶対に分かってくれるよ。」「みっつ、心の中に友だちの部屋を作ること。そうすれば、その子とその子の思い出をしまっておけるから、いつだって会いたい時にあえるじゃないか。」
 小象のベノは家に戻ってから、先ず3日と1時間と5分泣きました。悲しい気持ちが少し薄れました。お母さんのところへいってどんなに寂しいかを話しました。お母さんは長い鼻で抱きしめてくれました。なんだかホッとしました。心の中に部屋も作りました。フレディの部屋を作ってさらに心の中を覗くと、もっとたくさんの場所があることが分かり、お母さんやお父さん、ほかの象や知らない動物たちの部屋もつくりました。ベノは嬉しくなりました。それからはいつものように元気なベノに戻ったのです。
「神は私達を耐えられないような試練にあわせることはなさらず」と聖書の言葉は約束しています。「でも・・」と言葉が口をついてきます。誰だって辛いことや悲しいことがあります。誰だって苦しいことや寂しいことがあります。耐えられないと思えるようなことにも、出会うことすらあるのです。
 あなたを愛してくださるイエス様に心の全てを話せたら、心は少し元気を取り戻せます。「耐えられないような試練」に出会うかもしれません。でも心の中に、神様の場所があるときに、私たちが「それに耐えられるように」してくださるのです。神様は真実な方で、いつもあなたと一緒にいてくださるのです。いや、一緒にいたいとおっしゃってくださっているのです。(昔、子供に話したお話より)
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# by minitayori | 2017-01-07 20:38 | Trackback | Comments(0)

キリエ「三賢者の礼拝」

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 星に導かれた三人の学者が、幼児イエス様にささげ物をし、礼拝した。教会ではこの日を顕現・(イエス様が救い主として顕わされた日)の日曜日として守り、多くの教会ではこの日にクリスマスツリーを片付けます。

# by minitayori | 2017-01-07 20:22 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 1月8日 顕現主日 マタイ福音書2章1~12節

1月8日 顕現主日 マタイによる福音書2章1~12節
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2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
2:5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2:7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。 2:8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
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 「礼拝に備えて」
 ルカによる福音書とマタイによる福音書とではイエス様の誕生の時の状態が違っている。ルカは天使のお言葉を信じた羊飼いが家畜小屋での幼子に出会い、救い主礼拝をおこなった。マタイによる福音書は、占星術の学者たちが星に導かれて、イエス様のお生まれになった家に入ってユダヤ人の王としての幼子に出会い、黄金・乳香・没薬を捧げた、と記されている。
 ルカはすべての人の救い主イエス様のお姿を示すためにこの福音書を書いたと言われている。彼自身も異邦人であり「私をも救ってくださったイエス様への特別な思いがあった」と考えられ、福音書の中にそれをにじませている。雇われた羊飼い、身分の低いものと考えられていた者を、最初の救い主礼拝(クリスマス)の礼拝者として登場させている。
しかし、マタイによる福音書は、ユダヤ人の王としての約束された救い主の誕生を伝えようとしている。しかし、いずれも天上の栄光の光の中の天使の声、天上に輝く星をその導きに選んでいる。
ベツレヘムではヘロデ王が、「占星術の学者たちの到来」で自分の地位が奪われるのではないかという疑心暗鬼で右往左往していた。天上の天使の光も、空に輝く星も、誰でも「天を仰ぐ心」があれば、神に聞く心があれば、みることも聞くことも知ることもできた「神の御心」がそこにあったのだ。
イエス様は主の祈りの中で、まず最初に「天にましますわれらの父よ!」と天を仰ぐ心をもつようにと教えられた。顕現主日のこの日、もう一度、自分中心の雑事を離れ、謙虚に私たちに示される神様の招きのみ声を聞けるように、素直な、天を見上げる心で神様の前に出たいと思う。
羊飼いも学者も、そしてあなたも、神様の目からは変わりなく「全ての人がわたしの愛する子」なのだから。

# by minitayori | 2017-01-07 20:20 | Trackback | Comments(0)

公園の大人用遊具

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 近くの公園に「大人用遊具」があるのを発見した。最近いろいろな公園でできたことを聞いていたが、こんなに身近にあるとは思わなかった。夕刻の散歩のときにたちより、少し使ってみた。肩の訓練、腰の訓練、段差(階段)の3つの用具がある。夕刻と書いたのは、子供が帰った後、という意味です。そして近くを散歩して帰るのが日課になってきました。健康であり続けたいので・・・。

# by minitayori | 2017-01-07 20:12 | Trackback | Comments(0)

jyuujikanomaeni

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 25日降誕日礼拝の前の教会。聖壇に十字架が輝いて見える。この静かな中で十字架を感謝しつつ見ることこそ礼拝ではないだろうか。「あなたのためにわたしは愛する御子を十字架に付けた。」神様の声が静かに耳に聞こえてきた

# by minitayori | 2016-12-31 17:36 | Trackback | Comments(0)

「みにたより284」

 「みにたより284」
  新年、おめでとうございます。2017年という年をどのように生きようとお思いでしょうか。年頭の決意が豊かに成長し、実り多いものとなるように、心から祈ります。
 ある本の序文に、「神は等しく万人に、24時間と言う時間を与えられた。富める者にも貧しき者にも。しかし、過ぎ去った昨日の24時間は、再び手にすることはできない。明日の24時間はまだ手にできない。今手にしている今日の24時間をいかに有効に使うか。人生はその収支決算報告書である」と書かれていました。
 確かに、万人に等しく24時間が与えられていると言うことは事実です。ブラジルの大統領も日本の首相も、そして、あなたもわたしも同じです。互いの国の時差はあるものの、一日24時間には変わりありません。その24時間をどう過ごすかが問題なのです。
 自分の過去の一年を考えると、何も仕事はないはずなのに、忙しい忙しいと言いながら、あっという間に過ぎ去ってしまった、という反省ばかりしています。そう言えば、「忙しい」と言う字は、「心が亡くなる」と書きます。大切な24時間を過ごすにあたって、いらだったり落ち込んだりして24時間を終わらせたくない、とつくづく思います。
 わたしたちは、忙しい忙しいと言うことが、何か仕事を一生懸命していることのように感じることがないでしょうか。残り少ない年月を思いながら、冒頭の引用の中にある「人生はその収支決算報告書である」と言う言葉を思い出して、ぎくっとさせられてしまいました。
 人生の収支決算報告書は、神に提出します。与えられた24時間と一回限りの人生を、若者も高齢者も自分の満足のためではなく、神に喜ばれ、人に役立つものとして過ごしたいものだと思います。その時、神の国で語られるあなたへの言葉は「忠実な僕よ、よくやった!」という、おほめの言葉となるでしょう。
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# by minitayori | 2016-12-31 17:30 | Trackback | Comments(0)

教会讃美歌49番について

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教会讃美歌四九番について
 お正月の讃美歌として有名な教会讃美歌49番は、熊本教会/小岩教会の牧師として活躍された江口先生の作詞されたものです。その秘話について、自伝の中に記されていたので、紹介させていただきます。

 1973年の末、10年近い歳月をかけたルーテル教会の新しい讃美歌集編纂の仕事も殆んど終りかけていた。全体を見直す段階で新年の歌を入れてはとの話が出た。新年を迎える気持ちは日本人とヨーロッパの人々とは余程異なり、ヨーロッパの讃美歌集には新年の歌は見かけない。新しい日本の讃美歌集だから新年の歌を入れようということになり、私が作詞するようにとのことになった。
 新年の気持ちを素直に詩の形で表現しようと思った。そして一節の「なきものをあるがごとくに呼び給う神」という神への呼びかけが心に浮かんだとき、詩のこころは決まったように思った。「無きものを有るものの如く呼び給う神」(ロマ書4・17)、このアブラハムの信仰を讃えた聖書の個所は常に私の信仰の出発点であり、到達点であった。2節について言えぱ、当時私は五十代の後半で、なほ未解決の問題を多く抱えて生きていた。この2節はその頃の自然な思い、あるいは祈りのようなものであった。
「過ぎ去った日々の悲しみ/さまざまなうれいはすべて/キリストにゆだねまつつて/み恵みがあふれるような/生きかたを今年はしよう」4節まで出来てみると、それは自然と自分の信仰告白になっていた。そんな立派な生き方をしていたとか、しているとか言うのではなく、生きたいと思っているのである。今はその頃より、一層、この詩に近い心で生きているように思う。数年前、自分のために5節を作った。
「この世での仕事を果し/召し給うみ声聞くとき/あわてずに身を整えて/主のみ顔仰げるような/生き方を今年はしよう」

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 私は神学校を卒業したての新米牧師の時、指導牧師として一年お世話になり、牧師としての心得をいろいろ教えていただきました。今でも覚えているお話で、「牧師はね、一年に一足ぐらいははきつぶす覚悟で信徒の方を訪問しなければいけないよ!」と何度もお話ししてくれました。先生は足が不自由だったのだ。5番を作られたことを知らなかったが、今はこの5節をかみしめて生きている。

# by minitayori | 2016-12-31 17:24 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 2017年1月1日 マタイ2章13~23節

2017年1月1日 マタイによる福音書2章13~23節
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2:13 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
2:14 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、
2:15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
◆エジプトから帰国する
2:19 ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、
2:20 言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」 2:21 そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。:22 しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、:23 ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。

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「礼拝に備えて」
 新しい年が始まります。昨年は日本のみならず世界の各国で天災、人災、また政情の不安など、様々な出来事がありました。特に日本では地震・台風・豪雨の被害があり、また年末には糸魚川での大火がありました。それぞれ被害に合われた方々に神様からの慰めを祈りたいと思います。
 新しい年の最初の日曜日が元旦と重なりました。これも2012年以来のことになります。通常の元旦礼拝は、「主の命名日」としておぼえられ礼拝が守られます
が、今年は教会の日課として、マタイによる福音書が選ばれている関係でしょうか、マタイから選ばれた「イエス様の逃避行」が選ばれています。
 ユダヤの王の誕生の知らせを聞いた、時の王であったヘロデは自分の地位が危うくなることを恐れて、領地内の2歳以下の子供を殺したとあります。天使の知らせを聞いたマリアとヨセフは、乳飲み子のイエス様を連れてエジプトにのがれて、しばらくの時を過ごします。
 そののがれる途中のことです。ヘロデの兵士が追ってきました。逃れるすべもないヨセフたちは、近くに見つけた洞穴の中に身をひそめます。追手は近づいてきます。その時蜘蛛がその洞窟の入り口に巣を張り巡らしました。兵士たちがやって来て、その洞窟を見つけましたが、蜘蛛の巣が張られていたので、ここにはいないと思って立ち去った、と言う話があります。
 教会学校などで使われる伝説の中の話で、真偽は確かめるすべはありませんが、イエス様の誕生から、十字架の死に至るまでのご生涯、いつも神様が共にいて守っていてくださった、と言う事を伝えたかったのでしょうか。
 イエス様は苦難の道を歩き、十字架の死まで神様の御心に従順であられました。新しい年、私達もどのような困難に出会うかわかりません。しかし、イエス様に習って、神様のお守りの中にあることを覚えて、平安な日々を送りたいと思います。神様は共にいて一番良い道を与えてくださいますから。
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# by minitayori | 2016-12-31 16:55 | Trackback | Comments(0)

冬の空

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 今週に入って東京は抜けるような青空が続いているが、ここ練馬は、ときどき天気が急変して雲がかかる。夕日に照らされた雲は、短時間でその姿を変えて、眺めていても見あきることがない。自然の芸術といっても良いと思う。明日天気なーれ!!

# by minitayori | 2016-12-31 16:37 | Trackback | Comments(0)

18日聖壇の花

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 12月18日、クリスマス主日の聖壇の花。この日にはバラの花が飾られていました。バラの茨はイエス様の頭に被せられた茨の冠。赤いバラは十字架で流されたイエス様の血を象徴していると言われます。十字架で流されたイエス様の血により、あなたの罪は清められ、聖なる主をあなたの心に迎え入れられます。このクリスマスの日に。ハレルヤ!!

# by minitayori | 2016-12-24 21:35 | Trackback | Comments(0)

「みにたより283」

 「みにたより283」 「マイ・ウエイ⇒ゴッド・ウエイ」
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 かつてフランク・シナトラのベストアルバムになった「マイ・ウエイ」の歌詞、「今、船出が近づくこの時に、ふとたたずみ、私は振り返る。遠く旅した若い日を、すべて心の決めたままに……」があります。しかし、歌の歌詞としてはすばらしいが、なかなか現実的ではありません。ほとんどの人の人生は、「決めたままに」、はならないからです。
 イエス様の誕生の次第の中に出てくる、あの乙女マリアに天使が受胎を告知したとき、「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」と不安にかられます。彼女の心にはいろいろなことが交錯したことでしょう。彼女には人生の設計がありました。まもなくヨセフと結婚する、幸せな家庭を作ると言う夢がありました。しかし、その自分の道を外れることが天使によって示されたのです。しかし、マリアは、「お言葉通り、この身になりますように」と答えています。 この時、マリアは人生の分かれ道に立たされ、「マイ・ウエイ」か「ゴッド・ウエイ」か、二つのどちらかに決めなければなりませんでした。そして、マリアは「ゴッド・ウエイ」を選んだのです。「神さまのご計画を引き受け、出きる限り、そのとおりにやります」と意志表示したのでした。
 人は誰でも、人生の途上、度々マリアのような立場に置かれることがあります。自分の考えで好きなようにするか、神がお望みになることをするか、どちらかにしなければなりません。言い換えれば、「マイ・ウエイ」か「神さま(ゴッド)・ウエイ」か。時として、神さまのウエイにはいろいろな苦痛や困難があるかも知れませんが、間違いなく、「神さまのウエイ」は正しく、本当の幸せに導いて下さるのです。クリスマスを覚えるとき、神の招きに答えて、委ねて生きた人々の幸いを学びます。羊飼いや博士たちは、神の道を歩みだし、救い主に出会いました。
 あなたも神の招きを聴きませんか。歩みだしてみませんか。
「われ等が イエスさま 拝めるとは 世界で一番 幸せよ!」(♪♪=「世界で初めのクリスマス」より)心からこの歌が歌えるように。
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# by minitayori | 2016-12-24 21:24 | Trackback | Comments(0)

ゴスペルソング「世界ではじめのクリスマスは」

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      ゴスペル・ソング「世界ではじめのクリスマスは」
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                         友よ歌おう! ゴスペルソング集より

# by minitayori | 2016-12-24 21:19 | Trackback | Comments(0)

12月25日 降誕日礼拝 ヨハネによる福音書1章1~14節

12月25日 降誕日礼拝 ヨハネによる福音書1章1~14節
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1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 
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 「礼拝に備えて」
 降誕日、何よりも、その目的を考えたい。神の言(御心=ご意志)が肉体を取って人となった日である。それは神様の愛が具体的に示された日でもある。この独り子、神の最も大切なものを、私達の救いのために捧げてくださるためにこの地上に送ってくださった。
 イエス様のご生涯のすべてが、神様の御心を具体的に示されていることを考えながらこの日を迎えたい。「神はその独り子をくださったほどに、この私=あなたを愛してくださった。それは御子を信じる=受け入れる=人が全て救われるためである。」ヨハネ3章16節に凝縮されて示されている。この個所が小福音書と言われるゆえんだ。ある人が、「聖書のすべてが消失しようと、このヨハネの3章16節が残れば神様のみ心は、失われることはない」と言ったぐらい大切な所だ。
 繰り返して暗唱し覚えよう。きっと大きな力になってくれるだろう。あなたは神様に愛されている、それは間違いのない事。安心しなさい、勇気を持ちなさい、神様の愛はいつもあなたと一緒ですから。
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# by minitayori | 2016-12-24 21:06 | Trackback | Comments(0)

菊とッセンリョウ

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 菊とせんりょう、少々奇妙な取り合わせだが、たまたま通りかかった道路の面した花壇に咲いていた。クリスマス、新しい年に向かう時、会社で忘年会。忘れたいこともたくさんあろうが、忘年を望年会に変えて希望を持って明るく生きていきたいですね。

# by minitayori | 2016-12-24 20:44 | Trackback | Comments(0)