椿?

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 買い物に行く道路わきに椿とサザンカの木がある。目の悪い私には花だけみるとよくわからないが散り方が違う。満開になると潔くぱらぱらと落ちるのが椿、寒くても雪が降っても必死のこらえながら花を咲かせ、風に吹かれて落ちてゆくのがサザンカの花。私がどちらの生き方も好きだ

# by minitayori | 2016-12-03 21:02 | Trackback | Comments(0)

「みにたより280」

 「みにたより280」
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 この時期になると、いつも思いだされることがあります。
それは最後の任地である熊本教会での最初のクリスマスです。婦人会の方々がクリスマス主日礼拝と祝会のために、いろいろと心を配って働いてくださいました。ある方が最後まで片付けて、夕闇の迫り始めた時帰って行かれました。「ご苦労様!またイブ礼拝でお目にかかりましょうね。」と言って笑顔で別れました。
熊本教会での初めてのクリスマスイブ礼拝。6時から始まって3回のイブ礼拝が計画されていましたので、心の準備が必要でした。ところが、その日の早朝、電話で起こされました。「母が急死したので、すぐ病院に来てほしい。」と言う事でした。病院に駆けつけると、二日前に別れたばかりのあのご婦人が亡骸になって横たわっていました。イブ礼拝が終わり、次の日、そのご婦人の棺はクリスマスの飾りの中に安置され、通夜、葬儀が行われ、クリスマスのきれいな飾りの中、旅立たれました。
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お子さんから、「お母さんは、クリスマスの時には必ずパッチワークの靴下を作って、その中にプレゼントを入れて、孫たちに渡してくれたのですよ」と教えられました。なぜ靴下なのか、と考えて調べてみますと、クリスマスのシンボルの一つに靴下がありました。それは靴下が一番汚れているもので、その一番汚れている心にも、救い主イエス様が来てくださる、という事を表しているとありました。そのご婦人は、孫たちにそのことを教えたくて、何カ月も前から手作りの靴下を用意して、クリスマスに贈り物としていたのですね。
今は、お孫さんたちは成長して、人に仕え、愛されるクリスチャンとして、社会人として生活しています。ご婦人の真摯な信仰生活が、子供、孫たちに受け継がれていることを時々耳にして、あの時は夢中でしたけれど良い経験をさせていただいたと感謝しています。「また会いましょうね!」と心でつぶやきつつ。
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# by minitayori | 2016-12-03 20:52 | Trackback | Comments(0)

ニゲラ?

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 鉢植えの花を見つけました。クレマチスかと思いましたが少し違うようdす。名前を間違えては失礼かと思い何冊かある花の図鑑を調べましたがどうも季節が合わない。花の様子はニゲラという花に似ていましたので「まちがったらごめん!でも、きれいだよ!」と謝りながらこの名にしました。家の人がおひさまに当ててあげようと外に出したのかもしれません。秋の日差しの中でした。

# by minitayori | 2016-12-03 20:44 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 12月4日 待降節第2主日 マタイによる福音書3章1~12節

12月4日 待降節第2主日 マタイによる福音書3章1~12節
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◆洗礼者ヨハネ、教えを宣べる
3:1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、
3:2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。
3:3 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」
3:4 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。:5 そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、:6 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。:7 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。:8 悔い改めにふさわしい実を結べ。:9 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
3:10 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
3:11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。:12 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

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  「礼拝に備えて」
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 先日、整形外科にリハビリに行きましたら、玄関にクリスマスツリーが飾ってあって、点灯された電飾がきらびやかに輝いていました。クリスマスシーズンになると、何か祝いたい気持ちになるのだろうと思ったり、その気持ちを患者さんにも持ってほしいとの、病院側の好意と受け止めて、ほほえましい気持ちになりました。
 しかし、このアドベントの時期は本当にめでたい時なのだろうかと、ふと自分に問いかけてみました。どこかの礼拝に出席した時、この時期を祝いましょうというメッセージを聞きました。アド=ある方向に、ベント=行く・または来るという意味。それはかつてキリストが来られた誕生を祝うと同時に、再びこられるキリストと再会するときなのです。その時の備えができている人だけが、クリスマス・キリストとの再会を喜び、キリストと共に神の国へと凱旋することができるのです。
 その準備に一番必要なものは、イエス様が私達のために準備してくださった、十字架の贖いのみ業を受け入れることなのです。神様のあなたへの愛が、キリストの十字架として凝縮して示されているのです。
アドベントに入ると、教会では聖壇の所にクリスマス・リースが飾られます。なぜでしょうか。柊でできたリースの輪は、イエス様が十字架の前にかぶせられた茨の冠を表しています。そこには赤い柊の実が付けられています。それは、イエス様が茨の冠をかぶせられて流された血を意味しています。
私達はこの神様の救いの業が、世界のすべての人に与えられ、一人も漏れることなく、クリスマスを本当の意味で{おめでとう!}と言って祝えるように、全ての人々の救いを祈りつつこの時期を過ごしていきたいと思います。
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# by minitayori | 2016-12-03 20:31 | Trackback | Comments(0)

花壇のパンジー

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 アパートの駐車場の小さな花壇に今年もパンジーの花が咲き始めました。隣室のご婦人が毎年植え替えていて下さる。花をめでることのできる人は心優しき人。その通りです。

# by minitayori | 2016-12-03 20:15 | Trackback | Comments(0)

池袋教会の聖壇の花

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 池袋教会の聖壇に捧げられた花。会員のご婦人が日曜早朝に来ていけてくださる。礼拝への祈りの献花によって礼拝が喜びと花の賛美に包まれる。祈りつついけられる花の美しさ。この日の花は ドウダンツツとトバラ・ケイトウ・ブロベアとか。覚えきれないので書き留めておきました。

 

# by minitayori | 2016-11-26 19:46 | Trackback | Comments(0)

みにたより279

「みにたより279」
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 私が働きの中で与えられた、大切なみ言葉があります。耳の不自由な人々との交わりと会話の中で、「私達はどうして生まれてきたの?」との切実な問いかけの中で、神様がこの言葉「私たちは神の作品である」をくださいました。今は高齢者の仲間入りをして、病院通いをし、次々と新しい病名と薬が増えて行くなかで、この言葉をかみしめています。
 私たちの毎日の生活の中には、いつも楽しいこと、うれしいことばかりあるわけではありません。いろいろなことを経験し、悲しんだり、苦しんだり、悩んだりしています。そして、あるときには「自分なんかどうでもいい、どうなってもいいんだ。生きていても仕方がないんだ」と思い込んでしまうこともあります。生きていること自体に嫌気がさしてしまうこともあります。
 自分を中心にして考えると、そのようになってしまうのです。そうしたときに、この「私たちは神の作品である」と言う言葉を思い出すことが大切です。この言葉は、「私たちがどのような存在であるか」をもっとも明確に示している言葉です。
 絵の展覧会にでかけても、どの作品が素晴らしいのか良くわからないような時があります。そのようなときに、この作品はあの高名なだれそれさんが描いたのですよ、と言われると、じっくりと眺めてその作品のすばらしさに気付いていくことができたりします。
 ましてや、自分の存在が「神の作品」と言われるなら、「神様が必要だから今日の命が与えられている。」そう、あなたはそういう存在なのです。その神の作品をおろそかにすることはできないでしょう。自分だけでなく、他の人をもです。私達は人間の尊さを、この「神の作品である」と言う所に根拠をおいて考えたいものです。
 神様が、私たち一人一人を造ってくださったということは、いつも神様の暖かい愛のまなざしが、私どもに注がれていると言うことなのです。神様は、”あなた方は私が造ったものであり、わたしが愛したものであり、失ってはならない大切なものである”と宣言してくださっているのです。私達は、日ごとに神様の愛と慈しみの中に存在し、”在って欲しい、生きて欲しい”との神様の願いの中に存在するのです。

# by minitayori | 2016-11-26 19:31 | Trackback | Comments(0)

掌(てのひら)杉の花

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 家の近くに掌杉があった。長い間、白い花をつけていたのでこのままで終わるのかと思ったが、今日見たら花が割れたようになって花が咲いていた。ケアハウスの玄関にあって毎年掌杉の白い花は見ていたが、花が咲くのを見たのは初めてだった。何カ月も白い花のままであったのでこのまま終わるのかと思ったが、このような花が咲くとは、神様のご計画の不思議。花咲き、新しい種を生み出す時が来る。神様の定められたときに。あなたにもその時が来る。font>

# by minitayori | 2016-11-26 19:14 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 11月27日  マタイ福音書21章1~10節

 11月27日 待降節第一主日 マタイによる福音書21章1~10節
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21:1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。:3 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」
21:4 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
21:5 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
21:6 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、:7 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
21:8 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。:9 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
21:10 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。:11 そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。
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>「礼拝に備えて」
 今週から教会の暦は新年になります。クリスマスの前(イエス様の降誕の4週前)に、イエス様をお迎えする準備を始めます。クリスマスはイエス様の降誕、今から2000年以上前に、パレスチナの小さな村ガリラヤの家畜小屋でお生まれになった若い夫婦の幼子を、天使は野原で野宿をしながら羊の番をしていた羊飼いに、「今日あなた方のために救い主がお生まれになった」と、告げました。羊飼いは天使のお告げを信じ、村外れの小さな家畜小屋で飼い葉桶の中に寝かせられていた幼子に出会い、救い主を礼拝して、喜んで帰って行きました。これが最初のクリスマスの出来事でした。
 デパートでは、もうすでにクリスマスセールが始まっています。また、イエス様のいないクリスマスが、日本では祝われようとしています。クリスマスの意味は、クリス=キリスト=救い主:マス=ミサ=礼拝、が本当の語源です。 クリスマスにはもう一つの意味があります。かつてお生まれになったイエス様が、再び来る、その時に心から救い主を拝する心をもって迎える準備をしておかなければなりません。何故なら、再来の時のクリスマスは、イエス様は裁き主として来られるからです。
 羊とヤギを分けるように、神様の国に入るにふさわしい者、そうでない者とを分ける審判者として来られるのです。でも、イエス様はご自分のご生涯を通して、その準備をしてくださいました。弱い子ロバに乗って、人々の汗と涙のしみた上着の上を歩いて、受難と十字架と死への道を歩まれました。私の罪、あなたの罪を担って。あなたの悲しみの真っただ中を歩いてくださったのです。
 今この時も、イエス様はあなたと一緒に歩いていてくださいます。いや、あなたはイエス様のまなざしの中に生きているのです。「わたしはあなた方のために、全ての苦しみと悲しみを背負って、ロバに揺られて行く。わたしを離れないでいなさい。」イエス様のお言葉を聞いてください。
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# by minitayori | 2016-11-26 18:11 | Trackback | Comments(0)

53年ぶりの11月の雪

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 53年ぶりの11月の大雪。見るのは美しい雪の花。しかし、通勤人は大変だったでしょう。せっかく咲いていたバラの花も震えていました。

# by minitayori | 2016-11-26 18:03 | Trackback | Comments(0)

寒椿

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 寒椿はきれいだが、散るのも早い、できるだけ一番美しいところを皆さんに見ていただきたいと、散歩のたびにカメラを持って花を見ている。寒椿の木のあるお宅の花がほとんどなくなりあきらめていたが、秋日和の暖かな朝、お宅の前を通ると、一輪だけきれいに咲いていた。待っていてくれたようでうれしかった!

# by minitayori | 2016-11-19 18:07 | Trackback | Comments(0)

「みにたより278」

 「みにたより278」
 少し前のことですが、娘夫妻の招きで川越に行ってきました。以前から、昔懐かしい街並みなどを見たいと思っていました。電車で行って本川越の駅で娘夫婦と落ち合い、しばらく街並みを見ながら散歩しました。
昔の家は意外と屋根が低いなぁ、などと思いながら散策していました。ふと見るとおもちゃ横町が目に入りました。ぶらりと入った駄菓子屋さんが懐かしく、しばらく中を見まわっていました。ガラスの入れ物に入った、色鮮やかなコンペートーを見つけたので、自分の分と孫の分を買って帰りました。
e0191585_1750599.jpg 子供の時に買ったものと全く同じで、どうしてあの形ができるのだろうと不思議に思いました。わたしは、あの懐かしいコンペートーのぎざぎざは、ちゃんとした型があって、そこに流し込まれて作られるのだと思っていました。しかし違いました。
コンペートーの初めは、コーヒーなどに使うグラニュー糖の小さな粒だったのです。それが斜めに傾いた大きな回転鍋に入れられ、温められます。その回転鍋に入れられたグラニュー糖がゆっくりゆっくり、ゴロゴロ、ゴロゴロ回されます。その回っているグラニュー糖に、職人さんが砂糖水をピシャッとかけます。ゴロゴロ回る鍋に、ピシャ、ゴロゴロ、と言うことになります。すると、ピシャッとかけられた砂糖水が、グラニュー糖のどこかにくっつき、そして固まります。それを何回も、何十回も繰り返します。なんと、私たちが知っているあのコンペートーができるまでに2週間もかかるのです。
 ある統計学者が、グラニュー糖のどこに砂糖水がくっつき、どんな具合に角ができ、それがどのように成長してあのコンペートーができるのかを、研究したと言うのです。その先生の説明によると、職人さんが良いコンペートーを作るコツは、ゆっくり回転し、タイミング良く砂糖水をかけ、ほどよい火加減を保つこと、この三つだそうです。こうして作られるコンペートーは、出来上がるまでに2週間もかかるのですから、今時コンペートーでもうけを考えるお菓子屋さんは少ないそうです。ですから、あまり見かけなくなったのですね。貴重なコンペートーの粒をゆっくり味わいました。
 こんなことから大切な人間について考えました。つまり、ゆっくり2週間もかけて一粒のコンペートーが出来上がるのに対して、私たちは、何でも「早く、早く」と急ぐわけです。「早く!」には、次のような言葉、気持ちがついて回ります。「早く、ぐずね」「早く、だめね」「早く、のろまね」「早く、ばかね!」と言うわけです。人が思う場合もそうですし、自分自身がそう思って、焦ったり、自己嫌悪に陥ったりします。
 でも人間の成長に対して、神様は実に忍耐深い方なのです。聖書には、「神の慈愛があなた方を悔い改めに導く・・」ロマ2:4と書かれています。あなたの成長を、神様は慈愛といつくしみとをもって、じっと待っていてくださいます。目の前にある小さな事に、愛をこめて生きることを通して、自分と言うコンペートーの形を作っていきましょう。
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# by minitayori | 2016-11-19 17:56 | Trackback | Comments(0)

裏庭に白いバラ一輪

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、いっし、

 裏のベランダから見える庭には花がなくなってさみしくなりました。風邪をひいたのか、のどの痛みは取れたが、咳が激しくなり、一週間は大事を取って家に引きこもっていました。今朝秋日和の太陽に惹かれてベランダに出ていると、薄暗い木の下に真っ白なバラの花が咲いていました。慰めに来てくれたのか、励ましに来てくれたのか。よく見えるように白い花にしてくださったのですね。ご配慮を感謝!
 ♪ さみしかった僕の心にバラが咲いた。♪

# by minitayori | 2016-11-19 17:47 | Trackback | Comments(0)

 11月20日 ルカによる福音書21章5~19節

 11月20日 聖霊降臨後最終終日 ルカによる福音書21章5~19節
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21:5 ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。:6 「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」:7 そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」
21:8 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。 戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」
21:10 そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。11 そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。:12 しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。:13 それはあなたがたにとって証しをする機会となる。:14 だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。
21:15 どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。:16 あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。
21:17 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。
21:18 しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。
21:19 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

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「礼拝に備えて」
 昔読んだ本の中に、「メ・メント・メモリー」という言葉があったのを記憶しています。もう少し正確に、と思って原本を探したのですが、誰かにあげてしまってない。パソコンの中に記録してあったはずだと、見えない目を凝らして探してみたが見つからないのです。
 実は大切なものを記録していたハードデスクが、古くなってしまい、使えなくなってしまったのです。数年分の記録と写真などが入っていたので、復元してもらおうかと思いましたが、今更いらないと廃棄してしまいました。その前は小さなUSBと言う記憶装置に小出しに入れておいたのですが、ハードデスクを買ったので一つにまとめておけばよいと考えて、まとめていれました。それでも、もしものことがあった場合と思って、USBは大切にしまっておいたつもりですが、しまった場所を忘れるという大失態。
 さて、「メ・メント・メモリー」と言う言葉は西欧のある修道院の入口に書いてあったという事でした。修道僧はいつもこの場所で立ち止まり、見上げてから学びの場に入るのだそうです。その言葉の意味は、「死を思いつつ生きる」と言うことだそうです。神様に仕える修道僧が、死を思いつつ生きるとはどういう事でしょうか。
 次の日曜日は、聖霊降臨後最終主日です。教会では、この日をキリストが再来される時として覚えます。キリストが、裁きの主として来られる準備のときが始まるのです。かつて来られた時、それはクリスマスとして祝われますが、再来の時は、裁きの主として来られます。
 人間の一生は、避けることの出来ない死に向かっての一生です。これをある方は、「人間はすべての人が死に至る病を担って生きている。終わりの時は与っている今日の命を神の前で清算する時」とも言われます。私達は「メ・メント・メモリー」を前に生きているのです。
 でも、肉体の死の先には、神様の国で神様と共に生きる、新しい世界が待っています。先日、救世軍のホスピスにお見舞いに行きました。ケアハウス時代のお友達でした。お話をして帰る前に一緒に祈る時間をもちました。死を前にしての祈りの言葉は、感謝と賛美、そしてハレルヤと言う言葉でした。神様の前に精一杯生きた人の祈りの言葉だ、と心に深くとめて帰ってきました。もう一度と思ったのですが、それからしばらくして天に召されていかれました終わりの日に、主の前でハレルヤと笑顔で賛美できるように生きたいと思いました。
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# by minitayori | 2016-11-19 17:30 | Trackback | Comments(0)

紅葉

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 近くの公園の木々にも秋が来たようです。木の葉は一生懸命うつくしく散るための努力をしています。何の不安も見せずに。また風が吹いて2,3枚の葉が落ちてきた。

# by minitayori | 2016-11-19 17:16 | Trackback | Comments(0)

コスモス

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 私の住んでいる練馬区は畑や公園など、緑豊かなところです。しかし、この近くでも宅地への開発が進んでいる、あまり大きなマンションはないが、その代り小さな住宅がひしめいているところもある。そのような中で何箇所か庭木や花畑を残してくれているところがある。自然を大切にしてくれている、と感謝しながら散歩道に選んでいる。いつ宅地になるか心配しながら。

 

# by minitayori | 2016-11-12 18:15 | Trackback | Comments(0)

 「みにたより277」

 「みにたより277」
 この所、病院に行ったり外出する機会が多かったが、病院でも、電車の中でもくしゃみをしている人が多かった。昨日から、唾をのみ込むことも、水を飲むこともできないほど、のどが痛かった。のどあめをなめ、買い置きの風邪薬を飲んでみたが良くならないので、今日はやむなく医者に行ってきた。
 「中程度の咽頭炎ですね」と、簡単におっしゃって薬を出してくれた。「咳や下痢などを起こした人が何人も来ていますよ」とのこと。そうか、それから見ればのどの痛みぐらい中程度なんだ、と納得して帰ってきた。
 小雨の降る道のりは寒かった。真冬にはまだ間があるのだろうが、寒さはどうもなじめない。私が育った温暖の地、愛知県の渥美半島では、雪をほとんど見たことがなかった。東京に来て、初めてくるぶしを超える積雪に合い、その美しさに感動したものです。
 東京の任地では、雪が降ると、教会の前で雪にすべってけが人が出ては大変と、通勤時間の前に教会前の歩道の雪かきをした。次の任地である長野県の飯田では、乾いた細かい雪がさらさら降ってくる感動を味わった。雪かきも半端ではなかった。そんな中でもほとんど風邪をひいたことはなかった。
 次の任地熊本では、雪は少なかったが、阿蘇おろしの冷たい風が結構寒かった。特に牧師館は周りをビルに囲まれて、夏は暑く、冬は寒かった。
こうして振り返ってみると、辛かったことも楽しい思い出となる。苦しみも思い出の中では楽しい出来事として思い出される。これも神様が人間に与えてくれた恵みの一つですね。
 今苦しみの中にいるあなたへ、いつかきっとその経験が生きてきて、ありがたい経験をしたことを感謝する時が来るでしょう。そうなることを祈ります。
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# by minitayori | 2016-11-12 18:03 | Trackback | Comments(0)

朝顔

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 朝顔が寒さの中、肩を寄せ合うようにひと塊りになって咲いていた。朝顔は夏の花ではなかったかなーと思いながら、花の少なくなった季節に、寒さに負けずに美しく咲いている朝顔に「ありがとう!」と声をかけた。

# by minitayori | 2016-11-12 17:58 | Trackback | Comments(0)

11月13日  ルカ福音書20章27~40節 

 11月13日 聖霊降臨後第26主日 ルカによる福音書20章27~40節 
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20:27 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。:28 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。29 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。30 次男、:31 三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。
20:32 最後にその女も死にました。
20:33 すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」:34 イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、35 次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。:36 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。
20:37 死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」

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 「礼拝に備えて」
 昔々のことになりますが、私が洗礼を受ける決心をした時、どうしてもイエス様に会いたいと思いました。宣教師の先生に尋ねると、一生懸命説明してくださったが、理解できませんでした。
 一緒に働いていた婦人伝道師に尋ねました。しかし、納得できる答えはありませんでした。三人で祈った後で、宣教師がこんなお話をしてくださいました。「祈ってごらんなさい、必ずイエス様が会いに来てくれますから」。それから真剣に祈りました。「イエス様、私の前に来てください。お顔を見せてください」と。
 いくら祈ってもイエス様は会いに来てくれませんでした。ある深夜のことです。聖書読みながら転寝をしてしまいました。その夢の中で、イエス様がカーテンの向こうにおられたのです。しかし、足先しか見えませんでした。その話を宣教師にしました。すると宣教師は、にこにこ笑いながら言われました。「家の外にいてもイエス様に会えないですよ。その家の人と会いたかったら、戸を叩いて開けてもらい、家の中に入ってみないとその家の人の様子も、その家の人にも会えないでしょう。神様はイエス様のご生涯を通して、あなたへの愛の食卓を用意していてくださいます。イエス様の誕生、ご生涯、受難、十字架、復活のすべてがあなたへの愛のプレゼントですから。」
 聖書は外側から、自分の知識や常識の中から見ていては、分からないのですね。信仰によって神様の懐の中に飛び込んで、初めて神様の大きな愛のお心がわかるのです。昔最初の教会の代議員が、こんな話をしてくれました。「聖書は金時あめのようです。どこを切っても神様の愛のお顔が見えてきます。愛のみ旨が語られています。」e0191585_17512780.jpg 「38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」歴史の中で働かれる神様はアブラハムの神、イサク、ヤコブの神。そしてあなたを深く愛してくださる神様なのです。


# by minitayori | 2016-11-12 17:52 | Trackback | Comments(0)

紅葉の木

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 木枯らし一番が吹いたようです。いよいよ冬将軍がやってきます。近くの公園には紅葉になる木があまりありません。少し足を延ばしたところで、イチョウの葉が少し黄色になっていました。その陰に隠れるように紅葉樹がありました。まだまだこのあたりは自然が豊かです。

 

# by minitayori | 2016-11-12 17:39 | Trackback | Comments(0)

ゼニアオイ

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 見慣れているからかもしれないが、名前がなかなか出てこなかった。最近、教会でもこの人の名前はなんだったのかな?とずっと考えることがある。名前も呼べずに一日過ごし、家に帰ってからああそうだったと思いだす。笑顔でで「あなたのこと覚えているよ!」とメッセージを送る。ゆるしてね!

# by minitayori | 2016-11-05 21:33 | Trackback | Comments(0)

みにたより 276

「みにたより276」
 ふと思ったのですが、この頃、昔のことが特に懐かしく思いだされます。人間って不思議なものですね。辛かったことも、振り返ってみると、楽しく思えるのはどうしてでしょうか。
 先日神学校時代の友人が亡くなったという知らせを風の便りで知りました。この方は、日本キリスト教協議会の、障害者と教会問題特別委員会の中で知り合った方でした。先天的に、左手が肩の中に深く入り込んでいました。
 この方とは神学校の近くの銭湯で親しくなりました。いつも一人で出かけていたのですが、お風呂に行きましょう、と誘われて一緒に出かけました。左手が埋まっている左肩にタオルをかけて、隠すように片隅で身体を洗っている彼の横に座って、「背中を洗いましょう。」タオルをとり、背中を洗いました。「久しぶりに背中がきれいになって気持ちいい!」と喜んでくれました。それからしばらく一緒に風呂に通いました。
 ある時、障害者委員会が、早稲田にあるキリスト教会館で開かれることになり出かけました。会議が終って暗くなってきた道を、バス停まで一緒に帰ることになりました。普通に歩いていると、彼が少し肩で息をしていましたので、どうしたの?と聞くと、障害で片方の肺が機能していないので、早く歩けないので、「お先にどうぞ!」と言われてしまいました。
 障害者委員会に出席しながら、障害を持つ方の身体の調子を配慮できなかった自分を責め、謝ってバス停まで歩調を合わせて帰りました。彼は、結局は牧師にはなりませんでしたが、その才能を神様は生かされました。ルーテルアワーと言う、ラジオによる伝道の場所で働き、視聴者の質問に答えたり、訪問したり、とても良い働きをしました。
 「一度会いたいね!」という希望は果たせなかったが、彼の訃報を聞いて、昔聞いた「お先にどうぞ!」と言う言葉を思い出しました。自分の弱さを受け入れてそれを恥としない生き方、自分に難しい事には「お先にどうぞ!」と、堂々と言いながら与えられた日々を一生懸命生きた彼を、忘れないでいきたいと思いました。
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# by minitayori | 2016-11-05 21:23 | Trackback | Comments(0)

ゼラニウム

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 道端に並べられていた鉢植えの花も大半が枯れていたが、この花だけは元気良く咲いていた。「その元気はどこから来るの?」花は何も答えてくれなかったが、「今咲くのが私の務めだから・・。」と言っているようだった。

# by minitayori | 2016-11-05 21:19 | Trackback | Comments(0)

11月6日 礼拝に備えて  ルカ福音書19章11~27節 

聖霊降臨後主日(全聖徒の主日=ヨハネ16章15~) ルカ福音書19章11~27節
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19:11 人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。
19:12 イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。:13 そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。:14 しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。:15 さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。:16 最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。 19:17 主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』:18 二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。 19:19 主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。
19:20 また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。:21 あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』:22 主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。:23 ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』
19:24 そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』:25 僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、
19:26 主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。

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 「礼拝に備えて」
 日曜日は、教会では全聖徒主日として礼拝が守られます。教会の暦も一年の終わりに近づいてきます。この時期に私達は一年の終わりではなくて、自分の人生の終わりについて考えておかなければなりません。
 今日の日課で、ある主人が10人の僕に10ムナのお金を預けて旅立ちます。1ムナは100ドラクメ(1ドラクメは一日の賃金に相当する)。相当のお金であったことは確かです。マタイ福音書25章ではタラントのお話として書かれていますが、1タラントは6000ドラクメに相当します。
 マタイとルカが同じようなお話を伝えるのに、マタイは多額の金を違った額を預けて(1,2,5タラントを10人に預け)主人は結果を求めているのに、ルカは10ドラクメを10人に平等に預けているのはなにを意味しているのだろうか。それは聖書を書いた著者として、自分の読者に向かってふさわしいお話として伝えているからではないでしょうか。マタイはユダヤの知識人に向かって語り、ルカは世界のすべての人に、つまり神様に作られている全ての人々に、終わりの時に向かってどのように備えていかなければならないかを伝えているのではないでしょうか。
 つまり私達に向かってのお話なのです。私達は誰も神様から同じように1ムナを預けられています。その預けられているものをどのように用いて、終わりの時に神様にお返しできるかを問われているのです。
 1ムナは人によっては小さくもあり、また大きくも感じます。それは自分の才能とも考えられますし、毎日の命とも考えられます。私は牧師になった時に、ある教会の方から言われてしまいました。「先生がもう少し年をとっていたら、いろいろ相談したいことがあるのだが・・」と。その時は、早く年をとって高齢の方のお話を聞けるようになりたいと思いました。しかし、年齢を重ねるごとに忙しくなって、なかなか皆さんと話し込む時間が取れなくなりました。
今、自分が後期高齢者の仲間になってみて、教会に来る高齢者の方々と向き合う事が出来るようになりました。「腰が痛い、早くお迎えが来ないかなー」などなど、お話を共感をもって聞くことができるようになりました。
 その度に思います。人間、誰もが生きる限り、いや生かされている限り、預けられている命を生かして用いること、神様の前にこのように生かし、一生懸命生きましたと言えるような人生を送ることが求められているのです。何もできないなんてあきらめてはいけません。
 神様を賛美することができます。神様との間に立って、祭司のように隣人のためにとりなしの祈りをすることができます。教会に行けたら、出会う人と微笑みをかわすことができます。相手が微笑でくれない時にも、心痛めないで、その様な人こそ微笑みを必要としていることを覚えて、祈ってあげましょう。
 神さまに「良い僕だ。よくやった。」と誉められるように、今日を大切に生きていきましょう。
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# by minitayori | 2016-11-05 21:12 | Trackback | Comments(0)

コスモスとピラキカム

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 近くの都営住宅の中を散歩してみた。入口の小さな庭?に思い思いの花を咲かせている。きれいに手入れしている家、水がなくなって枯れそうになっている花。その家の姿を見るような思いだった。

# by minitayori | 2016-11-05 20:53 | Trackback | Comments(0)

雑草の中の花一輪

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 雑草の中の小さな花。鳥が持ってきたのか花一輪、底冷えのする公園の片隅で咲いていた。みんなで一緒のほうが楽しいのにと思ったが、「ここが神様に与えられた場所。ここで咲きます。」と震える声で囁いてくれた。おかれたところで精いっぱいに咲く花。学ばせられたひと時でした。

# by minitayori | 2016-10-29 17:20 | Trackback | Comments(0)

「みにたより275」

「みにたより275」
 ずいぶん昔のことですが、知的障害を持つ、児童施設で働いている方のお話を聞きました。その施設では、成人になったら自宅に帰り、自立できるように支援をしていたのです。その苦労は大変であることを、教えてもらいました。
 その中の一つのお話に、一人の少女の教育で苦労したお話が、心に残っていました。多恵ちゃんと言う名の子は、一年後には、家に帰らなければなりません。家には病弱な母親がいますから、その手伝いをするように、家事や買い物ができるように、教育が計画されました。
 まず、お金の価値について、教えなければなりませんでした。硬貨で一円、五円、十円、五十円、百円、五百円を並べて、どれが一番価値があるのかを尋ねました。すると多恵ちゃんは、迷わず十円硬貨を指さしました。先生は、1,10,50,100、500円の中で、500円が一番多くの物が買えることを、教えたいと思ったのです。何度教えようとしても、多恵ちゃんは、自分の一番欲しいのは10円だと言い張るのです。先生たちは、どうしたものかと話し合いました。多恵ちゃんが、なぜ10円が一番良いと思っているのか、その原因を考えました。担任の先生が、ハッと気がつきました。
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 それは、一週間に一度家庭に電話をし、お母さんと話すのを楽しみにしていた多恵ちゃんの、嬉しそうな姿です。その日になると、お母さんからもらっていた10円硬貨をもって、赤電話の所に行って、お母さんに電話をし、楽しそうに話している姿です。多恵ちゃんにとっては、どのお金よりも、お母さんと話せる10円硬貨こそ、宝物であったのです。 10円硬貨が、心の支えだったのですね。価値の大小ではなく、その使い道が硬貨の価値を決めていたのです。神様は今、私達をその様に診ていてくださいます。あなたには、あなただけに与えられた大切な価値がある。どんなに小さく、無力に思えても、あなたの命しかできない働きがあるから、神様は命を与えていてくださるのです。 10円は、小さなお金でした。しかし、愛するお母さんと話せる、唯一の大切なお金でした。あなたには、あなたにしかできない、大切な働きがあるのです。自分の置かれたところで、自分に委ねられている働きをしましょう。置かれたところで、自分にしか咲かせられない花を咲かしている野の花のように・・。

# by minitayori | 2016-10-29 17:14 | Trackback | Comments(0)

さざんか

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 もうこんな季節になったのか、サザンカの花。急な寒さであわてて咲いたしたような気がする。青い空に美しい。7年前に引退して東京に来た時、枯れかけたサザンカの花に無情の霙が降り注いでいた。寒さのせいか真っ赤になって落ちかかっている花弁に、がんばれと声をかけたのが、花とお話しするきっかけでした。

# by minitayori | 2016-10-29 16:51 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 10月30日 ルカ19章1~10節

 10月30日 聖霊降臨後24主日 ルカによる福音書19章1~10節
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19:1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。
19:2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
19:3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。:4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」:6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
19:7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
19:8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」 19:9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。:10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

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 「礼拝に備えて」
 神様に救われるのは、どのような人でしょうか。人が見る価値観と、神様が考えられる価値観とは違います。私達人間は、何をしてきたか、何ができるかで、人の価値を決め、考えてしまうが、神様はその存在そのものを、貴いとみてくださいます。神様は人の心の中に、神様を慕う心、委ねる心をもつことを、求めておられるのです。豊かな知恵と、多くの能力をもつことが、悪いのではありません。その能力を、どのように使っているかを、神様は問われているのです。
 今日の日課では、徴税人ザアカイのお話が出ています。ローマの政府に雇われた、いわゆる公務員でした。ローマ政府のために、同国人のユダヤの人々から、税金を取り立てる仕事をしていたのです。純粋主義のユダヤ人は、異教徒であるローマの人々との接触を、極力避けていました。汚れがうつる、と考えていたからです。
 ましてや、そのローマの手先になって、自分たちから税金を取り立てるのですから、ザアカイは汚れた罪人であり、裏切り者のように考えられていたのでしょう。ザーカイには、心を打ち明けて話す友もいませんでした。彼にとっても、同国人に軽蔑されて生きることは、寂しい事でした。そこで、不正に税金を取り立てて、金持ちになることによって、その寂しさを埋めようとしていたのです。
 物や金にだけ頼り、心を赦して話ができる友のいない生活は、どんなに寂しいものだったでしょうか。今日の日課では、孤独の中にいたザアカイが、イエス様に会うために、群衆のいる所に出てきました。イエス様に会いたい、と思ったのです。しかし、背が低かったので、イエス様の近くに行けませんでした。そこで彼は、恥も外聞も気にせずに、イチジク桑の木に上ります。
 このイチジク桑は、ブドウ園の片隅に植えられて、旅行く人や貧しい人が、ぶどうに手を出さないように、配慮されて植えられていたものだと聞きました。貧しい人が飢えをしのぐための、愛の木であると同時に、憐れみの木でもあったのです。金持ちのザアカイ、傲慢に生活していたザアカイが、イエス様に会うために、その貧しさの象徴でもある木に登ったのです。イチジク桑の木に登るザアカイは、人々の目にどのように映ったのでしょうか。
今思い出しましたが、昔幼稚園の保護者の人に{ザアカイのキリエ}を作ってほしいと頼まれていました。イメージを考えて、いろいろ下絵を考えていたのですが、完成しないうちに、転任してしまいました。
 ザアカイの、必死にイエス様を見つめる目、そして、そのザアカイを見上げ、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と、イエス様が言われた時の、ザアカイの喜びに満ちた顔、目の表情を、どのように表現しようか、自分ならどんな表情をするだろうか、と考えているうちに、時が過ぎてしまいました。
 イエス様の、優しい、愛に満ちたまなざしと表情、ザアカイの喜び、考えているうちに、それがいつの間にか、自分とイエス様の会話になり、喜びがあふれ、涙が出てきました。キリエに表現しきれなくて、とても残念に思いました。
 今思い出して、この絵を、一生の最後のキリエにしたいなーと、思うようになりました。自分のために・・・。イエス様に会った喜びは、ザアカイを変えました。財産を分け与えて、友と生きる自分になろうとしているのです。イエス様の愛が、ザアカイを、他者のために生きる者へと変えていったのです。自分一人ではなく、共にいてくださるイエス様の、愛のまなざしの中に生きることの喜びを全身で表せる人生、その様な生涯を、あなたも送ってみませんか。
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# by minitayori | 2016-10-29 16:42 | Trackback | Comments(0)

寒さに驚くバラの花

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 アパートの庭に咲いていたバラの花。急な気温の変化に戸惑っているようでした。家でもあわてて冬ものに入れ替えました。

# by minitayori | 2016-10-29 16:32 | Trackback | Comments(0)