「みにたより297」

「みにたより297」

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 寒暖の差の激しさにもかかわらず、桜の花は満開に近づいてきたようです。近くを歩いていたら、桜のつぼみも膨らんでいましたし、八重椿も雨にぬれて寒そうでしたが、力を得たように元気に咲いていました。いつもお花の写真でお世話になっている庭のあるお宅の前に、建築の告示の看板が出ていました。平屋の家で懐かしさを感じ、小さな庭に、手入れされたきれいな花が咲いていたが、間もなく建築でなくなってしまうのでしょう。三階建の集合住宅になるらしいのだが、庭は残らないだろうなー。

 壊される前に写真を撮らしていただこうか。クロッカス、ミヤコワスレ、蝋梅等々立派な花が咲いていたが、寂しくなります。そんなことを思っていたら、長女が自分で丹精込めて育てたクリスマスローズの花束を持ってきてくれました。鉢植えの花を切り取ってくれたのです。美しいうちに何枚か写真に写しましたので紹介します。

 嬉しい時に花を見れば、花は優しく微笑んでくれ

 悲しい時に花を見れば、花は共に悲しんでくれる。

 寂しい時に花を見れば、花はにこやかに励ましてくれる。

 カメラをもって散歩しながら、花と語り合い、慰められている日々も、最近は足腰が弱くなって近くしか行けなくなりましたが、遠くの方で、待っているからと呼びかけてくれる声が聞こえるような気がするので、元気を出してまたカメラを肩に散歩に出ます。

 神様に生かされている小さな花に、勇気を貰いに行きたいと思って出かけます。

桜の花一つ一つ、それぞれ表情があります。満開の花を見ていると、昔幼稚園の運動会で、はつらつとしていた園児一人一人の顔を思い出します。

 「みんな違って、みんないい!」あなたも神様の目から見れば「わたしの愛する子!」なのです。今を喜んで生きていきましょう。


# by minitayori | 2017-04-01 18:02 | Trackback | Comments(0)

黒色のクリスマスローズ

黒色のクリスマスローズ
めずらし色だそうです。品種改良でできたということで、少し他の色より
ひ弱な感じがします。もう少し鮮明に写せるとよかったのですが、花は
一生懸命咲いていてくれ、カメラも友人から頂いたよいカメラなのですが
技術の方が今一つ足りなかったようで申し訳ない。花言葉は「共に楽しむ」

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# by minitayori | 2017-04-01 17:52 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 4月2日 ヨハネ福音書11章17-53節

4月2日 四旬節第5主日 ヨハネによる福音書1117-53

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11:17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。:18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。:19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。:21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。:22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」

11:23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、:24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」・・・・
 略

11:53 この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。

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「礼拝に備えて」

 1週間に一度、通所リハビリで、機能訓練のために11種類のマシーンを使って身体を動かしてきている。いつもは動かさない身体を動かすので、最初は関節が音を立てたり、筋肉が悲鳴を上げたりしている。しかし、1時間もたつと体が慣れてくるのか、少し楽しくなる。それでも3時間くらいになると、息切れがして来て、休息やむなしと自分で決めて休んでいる。

 準備体操の頃から息切れがすることもあるが、中には楽しみにしているマシーンもある。それはそのマシーンの近くに、シニアのためのクイズの本があるからだ。

サブタイトルに「認知症予防のために」と書いてあったが、結構面白い。その冒頭の所にシニアのための十カ条と言うのがあって、何回か全部覚えようと努力しているのだが、家に着くころにはすっかり忘れてしまっている。やはり認知症予防の本なのだな、とつい思ってしまう。

 今日の準備をしていて、その中の一つに「常識と非常識」とがあることはよく知られている。しかし、多くの人はもう一つ「未常識」があるのを忘れている、という項目があったのを思い出した。常識も非常識も人間の知恵や知識、経験の中から作りだされている人間と人間との間での話になる。しかし、私達は人間の常識を超えた神様の世界があることを心に覚えておかなければならない。

 今日の日課では、イエス様がラザロを生き返らせた出来事が記され、その周りに、信じたマルタとマリヤ、ユダヤや人々、そして、イエス様の力を恐れてイエス様を殺そうと考えたファリサイ人のお話が記されてる。未常識な出来事を、喜んで神の業として受け入れた人と、自分達の名誉のために、未常識な力を否定しようとした人々の姿が記されている。

 私はどちらに入っているだろうか。未常識、人の思いを超えた力にゆだねて生きているだろうか。それとも自分の身におこる出来事を、自分の常識の中で仕分けして生きているだろうか。未常識の出来ごとに、全てを支配される神様のお力にゆだねて生きる生き方をしていきたいと願っている。

 今私の横では、マタイ受難曲の音楽が流れている。不勉強で今の音楽がイエス様のご生涯のどの辺の出来ごとを語っているのか分からないが、この音楽がイエス様のご生涯に心を向けてくれていることは事実です。

 ヨハネ11:40イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。

 マルタに言われたイエス様のお言葉をいつも心に留めて、望みをもって生きて行きたものです。


# by minitayori | 2017-04-01 17:41 | Trackback | Comments(0)

白いクリスマスローズ

白色のクリスマスローズ
先日池袋で世界の花展覧会をしていたが、人込みを歩くのがつらいので
あきらめていた。クリスマスローズの特集ということで残念に思ってい
たが、近くの長女の家で鉢植えに咲いた花束を持ってきてくれた。赤、
白、紫、そして黒いクリスマスローズも入っていた。みな仲良くです。


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# by minitayori | 2017-04-01 17:31 | Trackback | Comments(0)

19日の聖壇の花(八重のトルコ桔梗)


19日の聖壇の花
八重のトルコキキョウの紫が美しく礼拝を整えていました。
紫はイエス様が鞭打たれ、茨の冠をかぶせられた後。紫の衣を着せられ
ユダヤ人の王、と嘲笑され、十字架に向かわれたことから、イエス様の受
難を表す色と考えられています

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# by minitayori | 2017-03-25 16:15 | Trackback | Comments(0)

「みにたより396」

「みにたより396」

河野進牧師の詩に「ぞうきん」と言う詩があります。

「ぞうきん」

困ったときに思い出され

用がすめば

すぐ忘れられる

ぞうきん

台所のすみに小さくなり

酬いを知らず

朝も夜も喜んで仕えるe0191585_15172343.jpg

ぞうきんに

 近頃やけにこの詩が頭をよぎります。自分がまだこの境地に至っていないことを思い、悲しくなることもあります。親しく語る人も少なくなり、手紙も電話もなくなり、それに代わって散歩の中で草花と語り合い、空の雲を見上げて、心慰められています。それでも、祈りの中で語り合えるイエス様を、身近に感じられる自分の幸せを思わされています。

そういえば昔、私が育った家には、何通りかのぞうきんがありました。それぞれに持ち場があって、仕事場の大切な台を拭くぞうきん、床を拭くぞうきん、玄関の窓ガラスを拭くぞうきん。みんな黙ってその場その場で用いられていました。どのぞうきんが貴いのではなく、用いる人と場所によって変わっていたのです。どれもぼろぼろになって絞れなくなるまで使ったものでした。当時はぞうきんでも貴重な布だったから。

 今の自分に当てはめながら、「朝も昼も、与えられた場所で、喜んで仕えるぞうきんになろう。神様が必要としてくださるのだから」と思っています。

 


# by minitayori | 2017-03-25 15:56 | Trackback | Comments(0)

イエスさまと目の不自由な人の癒し

イエスさまと目の不自由な人の癒し(キリエ)
このキリエは、イエス様の癒していただいていながら、任せきれない
人間の弱さを表しています。彼は生きるすべの杖を親指一本でつかんで
います。その弱さを聖霊の力が励まし支えて下さっています。

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# by minitayori | 2017-03-25 15:50 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 3月26日  ヨハネ福音書9章13~25節

3月26日  ヨハネ福音書9章13~25節
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9:13 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。14 イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。15 そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」

9:16 ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。

9:17 そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。

9:21 しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」

9:22 両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。

9:23 両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。

9:24 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」

9:25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」

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「礼拝に備えて」

 今日の聖書を理解するためには、どうしても障害者問題を抜きにしては考えることができません。目の見えない人が、当時の世間でどんな状況に置かれていたかです。

 「この人が目が見えなくなったのは、親が悪いのですか、それとも誰か罪を犯したのですか。」この言葉は、弟子たちがイエス様に尋ねた言葉です。同じような考え方は日本にもありました。私は自分の生活の中で体験しました。40年間の、ろう者伝道担当牧師としての働きの中でも、何度も体験しました。

 イエス様のお考えは違いました。「この人が見えなくなったのは、神様の栄光が現れるためです」とおっしゃいました。

 旧約聖書では、神にささげる物は瑕疵のないものだけと考えられていました。障害を持っているという事は満足なものではない、瑕疵のあるものと考えられて軽蔑されていたのです。

 人の一生を考えてみましょう。人生90年と考えて、誕生の最初は、食事もできず排泄も自分ではできません。人の助けなくしては生きられないのです。そして70~80歳になって身体が衰え、身体だけではなく頭の方も幼子帰りをします。貴いのは心身ともに健康な時だけだと考えれば、自分の人生の三分の一は、生きる意味がない事になってしまいます。

 その障害を取り去って、今生きていることを通して神様の栄光を表すように用いてくださる方がいる、そう思うと、体が動かなくなっても命ある限り、生きることに意味を見出すことができるのではないでしょうか。日課の目の見えない人は、「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」と、彼を蔑視する人々に答えました。

私達も、どんな状態になっても、今日の命を与えてくださった神様に感謝しながら「ただ一つ知っていることは、今生かされていることです」と、信仰と感謝をもって生きたいと思います。神様が今日の命を与え、用い、神様の栄光を表してくださいますから。


# by minitayori | 2017-03-25 15:34 | Trackback | Comments(0)

裏庭の桜

練馬は桜の開花が遅いのかな?
と思っていたら身近なところで咲いていた。アパートのyら庭に
大きな桜の古木があったが、先日庭師が入り剪定され、幹ばかりと
思っていたらたくましく咲いていました。裏庭に入れないので、
小さな望遠で写したのではっきりとは見えにくいのですが、お許しを!
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# by minitayori | 2017-03-25 15:26 | Trackback | Comments(0)

3月12日の聖壇の花


3月12日の聖壇の花
礼拝の前の静寂の中、祈りつつ真剣に花と向かい合っている。神様に
ささげる花。後ろから見ていると花と語りあいつつ活けているようだった。
その人の祈りが聞こえる。

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# by minitayori | 2017-03-18 13:27 | Trackback | Comments(0)

「みにたより395」

「みにたより395」

 最近、自分の歩き方がおかしく感じるようになった。脊柱管狭窄症と坐骨神経痛が悪化してきたのかもしれない。なんとなく右足の感覚が薄くなってきたように感じる。身体の移動で足を開いたつもりが、体重を支えるほどには動いていなくて、転倒しそうになったりする。

 これも今までの経験の中にはない新しい経験だ。知人に尋ねたら、大腿骨骨折でもすると大変だから気を付けるように言われた。その帰り道、広い通りの横断歩道の信号が赤に変わりそうになったので、走って渡ってしまった。勿論三本足だった。待っていてくれた車に手を挙げて感謝の意を表しながら渡ったが、さすがに息切れがした。こういう時は、信号を一回待つ勇気をもつことが必要であることを、改めてかみしめた。待っている自動車のためにも、自分のためにも、心の余裕をもって生きることが必要であると自戒した。自戒しつつ、卑屈にならず今と言う時を楽しめるような心をもっていたいと思う。

高齢者の中には、教会に来ても話し相手がなくて、寂しそうに帰ってゆく人もいる。イエス様に出会った喜びと、信仰にある家族に出会った喜びはあるのであろうが、自分の生きている世界を共有できる人がいたらと思いつつ、寂しく帰ってゆく人もいるのだろう。

今年亡くなられたお医者さんで、高齢になって時々しか教会に来られなくなった方がいた。この方は教会に来られるときは、高齢のご婦人たちと必ず昼食を一緒にして帰っておられた。このような配慮が必要だと思う。それは高齢者だけではなく、若い人々にも心を開いて話し合う時が、時には必要ではないかと思う。

そんなことに皆が気づく、心の豊かさのある教会になってほしいものです。e0191585_11120793.gif


# by minitayori | 2017-03-18 13:21 | Trackback | Comments(0)

キリエ イエス様とサマリアの女







イエス様とサマリアの女

女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」

イエスは言われた。
「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」


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# by minitayori | 2017-03-18 13:16 | Trackback | Comments(0)

3月19日 四旬節第3主日 福音書4章5~26節

3月19日 四旬節第3主日 福音書4章5~26節

e0191585_11131548.jpg4:5 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。

4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。

4:8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。

4:9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。


4:13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

4:15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

4:25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」 4:26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

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「礼拝に備えて」

 何年か前に、山手線に乗って渋谷に行った。車内で何気なく都留市の広告を見ていた。すると面白い広告の文字が目に入ってきた。それはひらがなで「であいであい」と書いてあるあけだった。スポンサーの名前が分からないままに、その意味を考えていた。「であいであい?」何だろうと思っていると、不思議なことに気がついた、「であいで、あい」」とも読めるのだ。

 その時渋谷について電車を降りる時に、この広告が「旅の出会い」を表現しているものとやっとわかった。しかし、自分が考えていた「出会いで、愛」と言うのもいいなとも思っていた。

 今日の日課で、イエス様はヤコブの井戸のところで、一人のサマリヤの女と出会っている。この女性は不幸を背負い、町の人々からつまはじきにされていた。通常は朝早くか、夕方涼しくなってから水を汲みに来るのにこの女性は日中、多分炎天下一人で水を汲みに来ている。人々と会いたくない、会えない事情があったのだろう。しかも聖書はサマリヤの女と記している。ユダヤ人から軽蔑されていた名前だった。

 その女性とイエス様は出会った。イスラエルにとっては歴史的に由緒あるヤコブの井戸のほとりで。イエス様はサマリアの女の人の境遇を瞬時に知り、声をかけられた。悲しみと孤独の中にいるこの女の人は、イエス様との出会いの中で、人を差別しないイエス様の愛、神様の愛をすぐに感じ取ったであろうと思われる。彼女は心の底からキリストと言われる救い主が来られることを信じ、出会いを願っていた。自らの悲しみと孤独の中でその願いは切実だったろう。イエス様は心貧しく、救い主との出会いを望む人に言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

今もあなたに語りかけておられる。苦しい時、孤独に感じる時、イエス様と「出会いで、愛。」あなたも経験してみませんか。


# by minitayori | 2017-03-18 13:11 | Trackback | Comments(0)

教会の帰りに見た河津桜

教会の帰りに見た河津桜
花の満開も過ぎているようだったが、新芽の葉が花を支えるように美しく
彩っていた。自然の織りなす美しさですね。人もかくありたい。
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# by minitayori | 2017-03-18 11:37 | Trackback | Comments(0)

3月5日の聖壇の花

3月5日の聖壇の花
ジャーマン・アイリスのブルーの色がとてもきれいだった。
私がキリエに好んで使うコバルトブルー。アイリスのの花言葉は
「吉報=よい知らせ」聖書では福音という意味。神様のあなたへの愛
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# by minitayori | 2017-03-11 20:49 | Trackback | Comments(0)

「みにたより294」

「みにたより294」

 夏があり、秋があり、冬があり、春があって美しい花が咲く。私達の人生もそうなのかもしれない。いつもが自分の好きな季節ではない。寒い季節には、じっと家に閉じこもり、春になれば花と同じように生き生きと生きられるようになるのかもしれない。

教会に行く途中の河津桜は、満開を過ぎて新緑の葉が出始めていた。花は枯れ、散り始めていたが、そこに憐れさは感じなかった。新しい命の芽吹きがあったから、また来年会おうね!と語ることができた。新緑に彩られた美しい桜の最後を映したいと思ったが、残念ながらいつも持参のカメラが壊れて写せなかった。

美しいままで心に残してほしいと語っているようで、ほほえましかった。教会である方と話し合った。なぞなぞだが、最初四つ足で歩き、次に二本足で歩き、次に三本足で歩く動物は何か?答えは人間。私は今3本足で歩いている。身体も頭も少しずつ赤ちゃん帰りをするのだそうである。

でも赤ちゃんのように可愛く、みんなに好かれ、笑顔で迎えられるような幼児帰り≪高齢者≫になれないものかと思う。知ったかぶりをし、都合の悪い時は聞こえないふりをし、力仕事も避けるようになる。これではかわいい幼児帰りはできない。

素直に自分の弱さを認め、謝る謙遜さをもち、助けられている喜びを「微笑みで返す」くらいの余裕をもって生きていたいものですね。

マザーテレサの言葉

親切で慎み深くありなさい

あなたに出会った人がだれでも

前よりももっと気持ちよく

明るくなって帰れるようになさい

親切があなたの表情に

まなざしに、ほほえみに

温かく声をかけることばにあらわれるように

子どもにも貧しい人にも

苦しんでいる孤独な人すべてに

いつでもよろこびにあふれた笑顔をむけなさい

世話するだけでなく

あなたの心を与えなさい

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# by minitayori | 2017-03-11 20:40 | Trackback | Comments(0)

メジロ

メジロ
アパートの敷地に来たメジロ。前回梅の花を食べに来たメジロかな?
もう梅の花はなくなったね。もうじき桜の花が咲くからね。それまで
元気で、がんばって!
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# by minitayori | 2017-03-11 20:31 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 3月12日

 312日 四旬節第2主日 マタイ福音書201728

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20:17 イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。

20:18 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」

◆ヤコブとヨハネの母の願い

20:20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」

20:22 イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」 ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。

20:25 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、

20:27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。

20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

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「礼拝に備えて」

 今は四旬節(昔は受難節と呼んでいた)の季節。旬=10日のことで40日の間イエス様の合われた苦難を覚えて受難主日に備える。そして受難主日の次の日曜日に主の復活を祝う。復活から50日目の日には、弟子たちに約束の聖霊が下った聖霊降臨日を覚えることになる。そしてこの聖霊降臨日が、実は弟子達が恐れから勇気をもって宣教する人なった日でもある。

 この日のために弟子達を教育する教えが続く。まず今日は、イエス様がエルサレムに入って苦難をうけることが語られている。何を勘違いしたのか、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエス様のところに来てひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」

 弟子たちが、イエス様の心を理解せず、自分達のことだけを考えていることに気づかされる。イエス様が全ての人の救いのために苦難を受けようとするとき、人々は自分が天国でイエス様と一緒に、誰よりも高い位置に着きたいと願っていたのだ。今までのイエス様の教えは、弟子たちの心にしみこんではいなかったのだ。

 弟子達にはイエス様の心がわかっていなかった。それは今の教会でも一緒ではないだろうか。本当に苦しむ者、悲しむ者と共にあろうとする教会であっただろうか。障害者の委員会で全国の教会に「障害者のために必要な施設が整っていますか?」というアンケートを取ったことがある。「点字の聖書を整えています」とか、「エレベーターを設置しました」等々、いろいろな配慮が示されていることを知った。

 しかし、一つの教会からは驚くような答えが返ってきた。「幸いにも、私達の教会には障害者は来ていませんので、特別な用意はありません。」幸いにも・・・。

 イエス様は天に昇られる日に、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言っておられる。

 これは教会に対する厳命である。私たち一人一人への命令だと思う。人を差別しない教会、宣教の仕方を通して一人でも多くの人の救いを願う教会であり、私たちでありたいと思います。

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# by minitayori | 2017-03-11 20:27 | Trackback | Comments(0)

青空に映える椿の花

近くのお宅の椿の木
もう一本あったが、いろいろな色の大きな椿の花が咲いていた。
次回に写せたらお見せします。青空をバックにした花はきれいです。
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# by minitayori | 2017-03-11 20:11 | Trackback | Comments(0)

散歩道で出会った花

散歩道で出会った花
芝生の奥に咲いていたので、よく見えなかったが、名前もわからなかった。
でも、花の少ない季節に美しく語りかけてくれた。
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# by minitayori | 2017-03-04 21:50 | Trackback | Comments(0)

「みにたより293」

「みにたより293」

人間と言うものは勝手なもので、自分がかわいいので、何とかして自分をかばおうとしている。亡くなられた三浦綾子さんが、対談の中で次のようなことを言っていた。「自分は、リンゴの皮もむけないほど役立たずであるにもかかわらず、ただ小説を書いていると言うだけで、大事にしてくれる人がいる。しかし、自分の役に立ってくれる人はかわいいが、じゃまする人をかわいいと感謝する、という思いにはなかなかいかない。どうも自分勝手な自分を見る」と言う。

「たとえば、自分が大切にしている高価な器があったとする。自分が留守の時、誰かが壊してしまったら、ものすごい形相で怒るだろう。しかし、その大事にしている器をだれも見ていないところで自分自身が壊したとしたら、他人が壊したと同じような形相で怒るだろうか。『あ、しまった』と言って頭を軽くたたくかなでるかして、あたりを見渡して、そそくさと後かたづけをして、しらんかをしているのではないか。一番恐ろしいのは、『すべての尺度は自分である』と言うように、自分がしたことはたいしたことはないと過小評価し、他人のことになると不当に評価すること」といっていた。

自分が中心になって、自分かわいさのあまり、ゴムのような「伸縮自在の物差し」を心に持って、自分で勝手に伸ばしたり縮めたりして測って、人を裁いてしまうのだ。イエス様はそんなわたしたちの心を知っていらしたから、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」と言われた。弟子たちはイエス様の憐れみの深さ、愛の広さを、なかなか理解できなかった。 また、ゴムひもの物差しでイエス様を測り、イエス様を十字架に追いやってしまったのが、ユダヤ人のパリサイ派の人々ではなかっただろうか。

 しかし、この自在の物差しを「赦しとして」神様がもたれたらどうだろう。その人にふさわしい赦しを与えてくださる神様の愛。老若男女、貧富、力の強弱に関わらず、神様の愛はその人に充分に注がれる。ありがたいことです。


 キリストは、すなわち神である

だからキリストの手は、 またわたしまで伸びてくる。

八木重吉

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# by minitayori | 2017-03-04 21:42 | Trackback | Comments(0)

にらの花

にら花
私がこの花に出会ったのは、清瀬にある全生園という施設の庭だった。
広い敷地の片隅にあった焼却場の前、一面に真っ白に咲いていた。
偏見の中で隔離されていた人々の持ちモノでも燃やしたのかもしれない。
花が涙のようにも見えたし、天使の白い衣のように思えた。思わずこうべを
垂れて祈りを捧げました。
この花は近くの団地の片隅に咲いていたものです。
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# by minitayori | 2017-03-04 21:31 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 3月5日  マタイ福音書4章1~11節

月5日  マタイ福音書4章1~11節

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4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。

4:2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」

4:5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」

4:7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。

4:8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。

4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」

4:11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

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「礼拝に備えて」

 聖書の中の創世記を見ると、最初の人間が誘惑に合った話が出てくる。エデンの園での出来事であった。サタンは蛇の姿を取って最初の人を誘惑した、と書いてある。蛇の誘惑の目的は、人から、神に従う心を失わせること、そして自分自身の思いで行動するように変えることであった。

 新約聖書が書かれたギリシャ語では、試練と誘惑とは、同じ言葉が使われているという。これも面白い表現であると思う。人生はいつも岐路に立っているといわれる。いつも何かの選択をするように求められている。右に行くか左に行くか。

引退して清瀬のケアハウスに入った時、慣れない道を、花の写真を写しながら散歩に出かけた。少し新しい道を歩いたつもりが、隣の町まで行ってしまって、交番に駆け込んで道を聞いたことがある。その時はまだ元気に歩けたので、結局はもと来た道を歩いて家にたどり着けたが、30分の散歩のつもりが1時間以上歩いてしまった。

 イエス様の公生涯の初めは、荒れ野での誘惑から始まった。その第一は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」40日の飢えと渇きの末の誘惑だった。この誘惑に対して、イエス様は「人はパンだけで生きるものではない」と答え、また、「主なるあなたの神を愛し、また神にのみ仕えよ」と言われた。

 アダムはエデンの園で、豊かな食べ物を与えられながら神のようになりたいと思い、神に従う心を放棄し、禁じられていた園の中央の木の実を食べてしまった。その時から人の心に、自分中心の心、自分を常に正当化する罪の心が始まった。しかし、イエス様は飢餓の中でも「主なるあなたの神を愛し、また神にのみ仕えよ」と、神への従順を第一とされた。

 私達の人生は試練の連続である。苦難に合う時もある。その時にイエス様に従って、「主なるあなたの神を愛し、また神にのみ仕えよ」と言うイエス様のお心を、イエス様と共に持ち続けたい。


# by minitayori | 2017-03-04 21:22 | Trackback | Comments(0)

団地の中の裸のイチョウの木

団地の中の裸のイチョウの木
春の陽気に誘われて近くの団地の中を散歩した。この団地には
桜の木があって、美しく咲くのだが、まだつぼみもなかった。
裸にされたイチョウの木が、なぜか誇らしげに見えた。新しい
芽吹きが近いからか。がんばって!自然の木がうらやましい。
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# by minitayori | 2017-03-04 21:14 | Trackback | Comments(0)

2月19日の聖壇の花

2月19日の聖壇の花
この日はわたしの誕生記念(20日)

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# by minitayori | 2017-02-25 21:04 | Trackback | Comments(0)

「みにたより292」

「みにたより292」
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私の家の家庭礼拝では、聖書日課を使っています。しばらく創世記のお話が続くので、確認するために聖書の巻末にあるパレスチナの地図を見直しています。こんな話をどこかの聖書研究でお話したことがありますので紹介します。

北のへルモン山から発した川が、二つの湖を作りながら南にまっすぐ降りて塩の海に入ります。 一番北の小さい湖は「フーレ湖」、その次は「テベリヤ湖」、南のー番大きい湖が「死海」(塩の海)です。このテベリヤ湖は、聖書では「キネレトの海」「ガリラヤの海」としてしばしば出てきますし、イエスさまの最初に伝道なさった地方はこの湖の主として北から西にかけてです。

この三つの湖をつないでいるのがヨルダン川です。ところでこのガリラヤ湖と塩の海は見たところどちらもたいへん美しい湖ですが、ガリラヤ湖のほうは淡水で魚がたくさんすんでいるのに、塩の海のほうは魚もすめないほど濃い塩水です。

それはガリラヤ湖のほうはいつもヨルダン川の上流から水が注ぎこんでおり、またそれが死海のほうへと流れ出ているのに対し、死海のほうは川の水が注ぎ込んでいるだけで流れ出て行きません。地中海などの海面よりも392メートルも低いうえに近くの岩塩などが溶けこみ、蒸発によってだんだんその塩分が濃くなってしまったと考えられています。そのため名前までも「死海」となってしまいました。

イエスさまの教えてくださった愛も、このガリラヤ湖と死海をたとえとして考えることができます。私たちの信仰が、もらうだけで与えることをちっともしない心になってしまえば、川が流れこんでくるばかりで出口のないために、塩分の濃度が濃くなった「死海」のように、愛の住むことのできない心になってしまいます。老若男女に関係なく、神に愛されている私たちが、人々を愛していく歩みーーガリラヤ湖のようなーー、生きている信仰生活をしたいものです。マタイ253135


# by minitayori | 2017-02-25 21:00 | Trackback | Comments(0)

椿の花

散歩途中のお宅に、椿の木がありました。少しづつ花が咲き始め
招いてくれるようでした。小さなデジカメで写しましたので少し
ボケて見えますが、近くまた写し直してお目にかけます。

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# by minitayori | 2017-02-25 20:49 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 2月26日





2月26日 変容の主日 マタイ 171~9節

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17:1 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 17:2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。

17:3 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。 17:4 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

17:5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。 17:6 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。

17:7 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」

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「礼拝に備えて」


 このイエス様の変容の記事は、ルカによる福音書9:28-36にも載っています。イエス様の変容のお姿に感激した弟子たちの姿が記されており、目を覚ました弟子たちが、「モーセとエリヤが、栄光の中でイエス様がエルサレムで遂げようとしている最後のことについて話していた。」と記され、その後で弟子たちが、この栄光の山の上に小屋を建てて住みたいと、イエス様に提案します。


 しかし、イエス様は栄光の山にとどまらないで山を下りていかれます。イエス様が下りられた山のふもとにはイエス様の助けを必要としている人々が多く待っていました。


 イエス様は栄光の中にいる救い主ではなく、病める人、苦しむ人、孤独の中にいる人と共にいる救い主となり、最後には十字架にかかり、罪の故に苦しむ全ての人の救い主となることを選んでくださいました。


 このことは教会のあるべき姿、キリスト者のあるべき姿を示してはいないでしょうか。私の好きな詩で、{聖フランシスの平和の祈り}と言う詩があります。歌にもなっていて、手話でも教えてきました。



(聖フランシスコの「平和の祈り」より)


神よ、わたしを、 あなたの平和を実らせるために、用いてください。


わたしが、憎しみのあるところに、愛をもたらすことができるように、


また、争いのあるところに、和解を、


分裂のあるところに、一致を、


疑いのあるところに、真実を、


絶望のあるところに、希望を、


悲しみのあるところに、よろこびを、


暗闇のあるところに、光をもたらすことができるように、助け、導いてください。


神よ、わたしに、


慰められることよりも、慰めることを、


理解されることよりも、理解することを、


愛されることよりも、愛することを望ませてください。


わたしたちは、


自分を与えることによって、与えられ、


すすんでゆるすことによって、ゆるされ、


人のために死ぬことによって、永遠に生きることができるからです。


 なにやら騒然としている世相です。この時にこそ、平和と一致、愛することの大切さと、愛されていることを知る喜びをもって生きる者でありたいと思います。イエス様と共にいるならば、神様のお声「これはわたしの愛する子」と言うお言葉を、イエス様と共にあなたも聞くことができます。


この美しい地球に平和を!e0191585_20414459.gif






# by minitayori | 2017-02-25 20:44 | Trackback | Comments(0)

クリスマス・ローズ




クリスマスローズ
クリスマスでもないのになぜクリスマスという名がつくのだろうか?
図鑑によると荒涼とした山地に咲くことからつけられたとの由。
キリストは悲しむ人の心、貧しい人の心に来て下さる、からかな!
ちなみに花ことばは「共にに楽しむ」とのよし。みんな幸せに、
神様の願いですね!

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# by minitayori | 2017-02-18 21:17 | Trackback | Comments(0)