ゼニアオイ

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 見慣れているからかもしれないが、名前がなかなか出てこなかった。最近、教会でもこの人の名前はなんだったのかな?とずっと考えることがある。名前も呼べずに一日過ごし、家に帰ってからああそうだったと思いだす。笑顔でで「あなたのこと覚えているよ!」とメッセージを送る。ゆるしてね!

# by minitayori | 2016-11-05 21:33 | Trackback | Comments(0)

みにたより 276

「みにたより276」
 ふと思ったのですが、この頃、昔のことが特に懐かしく思いだされます。人間って不思議なものですね。辛かったことも、振り返ってみると、楽しく思えるのはどうしてでしょうか。
 先日神学校時代の友人が亡くなったという知らせを風の便りで知りました。この方は、日本キリスト教協議会の、障害者と教会問題特別委員会の中で知り合った方でした。先天的に、左手が肩の中に深く入り込んでいました。
 この方とは神学校の近くの銭湯で親しくなりました。いつも一人で出かけていたのですが、お風呂に行きましょう、と誘われて一緒に出かけました。左手が埋まっている左肩にタオルをかけて、隠すように片隅で身体を洗っている彼の横に座って、「背中を洗いましょう。」タオルをとり、背中を洗いました。「久しぶりに背中がきれいになって気持ちいい!」と喜んでくれました。それからしばらく一緒に風呂に通いました。
 ある時、障害者委員会が、早稲田にあるキリスト教会館で開かれることになり出かけました。会議が終って暗くなってきた道を、バス停まで一緒に帰ることになりました。普通に歩いていると、彼が少し肩で息をしていましたので、どうしたの?と聞くと、障害で片方の肺が機能していないので、早く歩けないので、「お先にどうぞ!」と言われてしまいました。
 障害者委員会に出席しながら、障害を持つ方の身体の調子を配慮できなかった自分を責め、謝ってバス停まで歩調を合わせて帰りました。彼は、結局は牧師にはなりませんでしたが、その才能を神様は生かされました。ルーテルアワーと言う、ラジオによる伝道の場所で働き、視聴者の質問に答えたり、訪問したり、とても良い働きをしました。
 「一度会いたいね!」という希望は果たせなかったが、彼の訃報を聞いて、昔聞いた「お先にどうぞ!」と言う言葉を思い出しました。自分の弱さを受け入れてそれを恥としない生き方、自分に難しい事には「お先にどうぞ!」と、堂々と言いながら与えられた日々を一生懸命生きた彼を、忘れないでいきたいと思いました。
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# by minitayori | 2016-11-05 21:23 | Trackback | Comments(0)

ゼラニウム

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 道端に並べられていた鉢植えの花も大半が枯れていたが、この花だけは元気良く咲いていた。「その元気はどこから来るの?」花は何も答えてくれなかったが、「今咲くのが私の務めだから・・。」と言っているようだった。

# by minitayori | 2016-11-05 21:19 | Trackback | Comments(0)

11月6日 礼拝に備えて  ルカ福音書19章11~27節 

聖霊降臨後主日(全聖徒の主日=ヨハネ16章15~) ルカ福音書19章11~27節
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19:11 人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。
19:12 イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。:13 そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。:14 しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。:15 さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。:16 最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。 19:17 主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』:18 二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。 19:19 主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。
19:20 また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。:21 あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』:22 主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。:23 ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』
19:24 そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』:25 僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、
19:26 主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。

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 「礼拝に備えて」
 日曜日は、教会では全聖徒主日として礼拝が守られます。教会の暦も一年の終わりに近づいてきます。この時期に私達は一年の終わりではなくて、自分の人生の終わりについて考えておかなければなりません。
 今日の日課で、ある主人が10人の僕に10ムナのお金を預けて旅立ちます。1ムナは100ドラクメ(1ドラクメは一日の賃金に相当する)。相当のお金であったことは確かです。マタイ福音書25章ではタラントのお話として書かれていますが、1タラントは6000ドラクメに相当します。
 マタイとルカが同じようなお話を伝えるのに、マタイは多額の金を違った額を預けて(1,2,5タラントを10人に預け)主人は結果を求めているのに、ルカは10ドラクメを10人に平等に預けているのはなにを意味しているのだろうか。それは聖書を書いた著者として、自分の読者に向かってふさわしいお話として伝えているからではないでしょうか。マタイはユダヤの知識人に向かって語り、ルカは世界のすべての人に、つまり神様に作られている全ての人々に、終わりの時に向かってどのように備えていかなければならないかを伝えているのではないでしょうか。
 つまり私達に向かってのお話なのです。私達は誰も神様から同じように1ムナを預けられています。その預けられているものをどのように用いて、終わりの時に神様にお返しできるかを問われているのです。
 1ムナは人によっては小さくもあり、また大きくも感じます。それは自分の才能とも考えられますし、毎日の命とも考えられます。私は牧師になった時に、ある教会の方から言われてしまいました。「先生がもう少し年をとっていたら、いろいろ相談したいことがあるのだが・・」と。その時は、早く年をとって高齢の方のお話を聞けるようになりたいと思いました。しかし、年齢を重ねるごとに忙しくなって、なかなか皆さんと話し込む時間が取れなくなりました。
今、自分が後期高齢者の仲間になってみて、教会に来る高齢者の方々と向き合う事が出来るようになりました。「腰が痛い、早くお迎えが来ないかなー」などなど、お話を共感をもって聞くことができるようになりました。
 その度に思います。人間、誰もが生きる限り、いや生かされている限り、預けられている命を生かして用いること、神様の前にこのように生かし、一生懸命生きましたと言えるような人生を送ることが求められているのです。何もできないなんてあきらめてはいけません。
 神様を賛美することができます。神様との間に立って、祭司のように隣人のためにとりなしの祈りをすることができます。教会に行けたら、出会う人と微笑みをかわすことができます。相手が微笑でくれない時にも、心痛めないで、その様な人こそ微笑みを必要としていることを覚えて、祈ってあげましょう。
 神さまに「良い僕だ。よくやった。」と誉められるように、今日を大切に生きていきましょう。
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# by minitayori | 2016-11-05 21:12 | Trackback | Comments(0)

コスモスとピラキカム

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 近くの都営住宅の中を散歩してみた。入口の小さな庭?に思い思いの花を咲かせている。きれいに手入れしている家、水がなくなって枯れそうになっている花。その家の姿を見るような思いだった。

# by minitayori | 2016-11-05 20:53 | Trackback | Comments(0)

雑草の中の花一輪

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 雑草の中の小さな花。鳥が持ってきたのか花一輪、底冷えのする公園の片隅で咲いていた。みんなで一緒のほうが楽しいのにと思ったが、「ここが神様に与えられた場所。ここで咲きます。」と震える声で囁いてくれた。おかれたところで精いっぱいに咲く花。学ばせられたひと時でした。

# by minitayori | 2016-10-29 17:20 | Trackback | Comments(0)

「みにたより275」

「みにたより275」
 ずいぶん昔のことですが、知的障害を持つ、児童施設で働いている方のお話を聞きました。その施設では、成人になったら自宅に帰り、自立できるように支援をしていたのです。その苦労は大変であることを、教えてもらいました。
 その中の一つのお話に、一人の少女の教育で苦労したお話が、心に残っていました。多恵ちゃんと言う名の子は、一年後には、家に帰らなければなりません。家には病弱な母親がいますから、その手伝いをするように、家事や買い物ができるように、教育が計画されました。
 まず、お金の価値について、教えなければなりませんでした。硬貨で一円、五円、十円、五十円、百円、五百円を並べて、どれが一番価値があるのかを尋ねました。すると多恵ちゃんは、迷わず十円硬貨を指さしました。先生は、1,10,50,100、500円の中で、500円が一番多くの物が買えることを、教えたいと思ったのです。何度教えようとしても、多恵ちゃんは、自分の一番欲しいのは10円だと言い張るのです。先生たちは、どうしたものかと話し合いました。多恵ちゃんが、なぜ10円が一番良いと思っているのか、その原因を考えました。担任の先生が、ハッと気がつきました。
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 それは、一週間に一度家庭に電話をし、お母さんと話すのを楽しみにしていた多恵ちゃんの、嬉しそうな姿です。その日になると、お母さんからもらっていた10円硬貨をもって、赤電話の所に行って、お母さんに電話をし、楽しそうに話している姿です。多恵ちゃんにとっては、どのお金よりも、お母さんと話せる10円硬貨こそ、宝物であったのです。 10円硬貨が、心の支えだったのですね。価値の大小ではなく、その使い道が硬貨の価値を決めていたのです。神様は今、私達をその様に診ていてくださいます。あなたには、あなただけに与えられた大切な価値がある。どんなに小さく、無力に思えても、あなたの命しかできない働きがあるから、神様は命を与えていてくださるのです。 10円は、小さなお金でした。しかし、愛するお母さんと話せる、唯一の大切なお金でした。あなたには、あなたにしかできない、大切な働きがあるのです。自分の置かれたところで、自分に委ねられている働きをしましょう。置かれたところで、自分にしか咲かせられない花を咲かしている野の花のように・・。

# by minitayori | 2016-10-29 17:14 | Trackback | Comments(0)

さざんか

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 もうこんな季節になったのか、サザンカの花。急な寒さであわてて咲いたしたような気がする。青い空に美しい。7年前に引退して東京に来た時、枯れかけたサザンカの花に無情の霙が降り注いでいた。寒さのせいか真っ赤になって落ちかかっている花弁に、がんばれと声をかけたのが、花とお話しするきっかけでした。

# by minitayori | 2016-10-29 16:51 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 10月30日 ルカ19章1~10節

 10月30日 聖霊降臨後24主日 ルカによる福音書19章1~10節
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19:1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。
19:2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
19:3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。:4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」:6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
19:7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
19:8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」 19:9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。:10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

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 「礼拝に備えて」
 神様に救われるのは、どのような人でしょうか。人が見る価値観と、神様が考えられる価値観とは違います。私達人間は、何をしてきたか、何ができるかで、人の価値を決め、考えてしまうが、神様はその存在そのものを、貴いとみてくださいます。神様は人の心の中に、神様を慕う心、委ねる心をもつことを、求めておられるのです。豊かな知恵と、多くの能力をもつことが、悪いのではありません。その能力を、どのように使っているかを、神様は問われているのです。
 今日の日課では、徴税人ザアカイのお話が出ています。ローマの政府に雇われた、いわゆる公務員でした。ローマ政府のために、同国人のユダヤの人々から、税金を取り立てる仕事をしていたのです。純粋主義のユダヤ人は、異教徒であるローマの人々との接触を、極力避けていました。汚れがうつる、と考えていたからです。
 ましてや、そのローマの手先になって、自分たちから税金を取り立てるのですから、ザアカイは汚れた罪人であり、裏切り者のように考えられていたのでしょう。ザーカイには、心を打ち明けて話す友もいませんでした。彼にとっても、同国人に軽蔑されて生きることは、寂しい事でした。そこで、不正に税金を取り立てて、金持ちになることによって、その寂しさを埋めようとしていたのです。
 物や金にだけ頼り、心を赦して話ができる友のいない生活は、どんなに寂しいものだったでしょうか。今日の日課では、孤独の中にいたザアカイが、イエス様に会うために、群衆のいる所に出てきました。イエス様に会いたい、と思ったのです。しかし、背が低かったので、イエス様の近くに行けませんでした。そこで彼は、恥も外聞も気にせずに、イチジク桑の木に上ります。
 このイチジク桑は、ブドウ園の片隅に植えられて、旅行く人や貧しい人が、ぶどうに手を出さないように、配慮されて植えられていたものだと聞きました。貧しい人が飢えをしのぐための、愛の木であると同時に、憐れみの木でもあったのです。金持ちのザアカイ、傲慢に生活していたザアカイが、イエス様に会うために、その貧しさの象徴でもある木に登ったのです。イチジク桑の木に登るザアカイは、人々の目にどのように映ったのでしょうか。
今思い出しましたが、昔幼稚園の保護者の人に{ザアカイのキリエ}を作ってほしいと頼まれていました。イメージを考えて、いろいろ下絵を考えていたのですが、完成しないうちに、転任してしまいました。
 ザアカイの、必死にイエス様を見つめる目、そして、そのザアカイを見上げ、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と、イエス様が言われた時の、ザアカイの喜びに満ちた顔、目の表情を、どのように表現しようか、自分ならどんな表情をするだろうか、と考えているうちに、時が過ぎてしまいました。
 イエス様の、優しい、愛に満ちたまなざしと表情、ザアカイの喜び、考えているうちに、それがいつの間にか、自分とイエス様の会話になり、喜びがあふれ、涙が出てきました。キリエに表現しきれなくて、とても残念に思いました。
 今思い出して、この絵を、一生の最後のキリエにしたいなーと、思うようになりました。自分のために・・・。イエス様に会った喜びは、ザアカイを変えました。財産を分け与えて、友と生きる自分になろうとしているのです。イエス様の愛が、ザアカイを、他者のために生きる者へと変えていったのです。自分一人ではなく、共にいてくださるイエス様の、愛のまなざしの中に生きることの喜びを全身で表せる人生、その様な生涯を、あなたも送ってみませんか。
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# by minitayori | 2016-10-29 16:42 | Trackback | Comments(0)

寒さに驚くバラの花

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 アパートの庭に咲いていたバラの花。急な気温の変化に戸惑っているようでした。家でもあわてて冬ものに入れ替えました。

# by minitayori | 2016-10-29 16:32 | Trackback | Comments(0)

寒椿

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 花が少なくなった、と思っていたら近くの庭に寒椿が一輪咲いていた。特別にきれいに見えました。

# by minitayori | 2016-10-22 21:53 | Trackback | Comments(0)

「みにたより274」

「みにたより274」
 プロ野球の話だが、先日ドラフト会議が行われて、指名されて新しい人生を始める若者たちの、喜びの姿を見ることができました。しかし、その一方で野球界を去ってゆく人もいます。惜しまれて去る人も、解雇されて去る人もいて、悲喜こもごもと言う感じがしました。
ある人のインタビューを見ていて、一つの言葉にひかれました。それは「ピンチはチャンス」と言う言葉でした。挫折でつぶれたり、過去の栄光の上にすがって生きて、人生を踏み外してしまう人もいますが、過去を生かして新しい人生を切り開くことの勇気が大切です。「ピンチはチャンス」と言う言葉は野球選手だけではなく、全ての人に言えるのではないかと思っています。
 人生は、やり直しがきかないといわれます。一人一人自分の人生を生きて行きます。その中で、逆境に合っても学ぶことは多いのではないかと思うのです。その時々に経験することを、たとえどのようなことであれ、自分に与えられた大切な経験として生かすことができるのです。
私は、中学を出てすぐに、家業を継ぐために職人の家に丁稚奉公に入りました。前にも話しましたが、この経験は、献身と言う道にはものすごくマイナスと感じたことが、しばしばありました。神学の世界は、基礎学習ができていない者が入る世界ではなかった、と思う事が何度もあり、自分の過去を恨みに思ったこともありました。しかし、この私の道は、私にしかできない多くの事柄を学ぶ機会を与えてくれた、と思うにいたった時、新しい世界が広がりました。
 学び舎では、いつも劣等感に悩まされました。しかし、働きの中に入って多くの人と出会った時、人生の底辺で苦しんでいる人と共感できる自分がありました。それは私の大きな財産になったのです。過去の出来事、悲しみや劣等感は、同じように悲しみや苦しみにある人の心を共有し、共に歩む心を教えてくれたのです。人生にマイナスだけのピンチはないと思います。今の苦しみや悲しみは、大切な財産になると思います。ピンチをチャンスに、今の苦しみや悲しみをそのまま自分の中に蓄えて、それを生かせる自分の道があるはずです。 
 教会の歴史を振り返って見ると、その伝道の歴史は、苦難の連続ではなかったでしょうか。初代の教会のことを考えてみましょう。「…エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた…散らされた人たちは、みことばを宣べ伝えながら、巡り歩いた。」(使徒8:1, 4) 迫害は、当時のクリスチャンにとって最悪の出来事であったが、最終的には福音が広がるきっかけになったので、その最悪が最悪のままでは終わらなかったのです。神様は、私たちにとっての「最悪」を、「意味深いもの」へと変えてくださいます。
 「今のピンチは、神様とあなたのチャンス。」逆境の中にあるあなた、神様に希望をおいてみませんか。最後まで諦めずに・・・。結論は人生の最後に出せばよいのです。
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# by minitayori | 2016-10-22 21:49 | Trackback | Comments(0)

キリエ イエスさまと幼子

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子供を祝福する(ルカ福音書より)
18:15 イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。18:16 しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 18:17 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

# by minitayori | 2016-10-22 21:45 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 10月23日  ルカによる福音書18章9~14節 

 10月23日 聖霊降臨後第23主日 ルカによる福音書18章9~14節
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18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
◆子供を祝福する
18:15 イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。:16 しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
18:17 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」


e0191585_21391153.jpg"> 「礼拝に備えて」
 神様が喜ばれるのは、どのような人の事でしょうか。詩篇の記者は「34:18 主は助けを求める人の叫びを聞き/苦難から常に彼らを助け出される。:19 主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。」と教えています。イエス様はそのお話と出来事を通して、この神様のお心を弟子達、そして私達に確認するように求めておられます。
 今日の日課ではまず、「ファリサイ派の人と徴税人」が出てきます。ファリサイ派の人は、自分の良い行いを並べ、近くにいる徴税人のようでないことを神様に感謝しています。しかし、誇ることのない徴税人は「目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』と。イエス様は言われました。「 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、傲慢に自分の立派さを誇った人ではなく、胸を打ちたたいて自分の弱さを嘆き、神様に憐みを求めた人であった」と教えられたのです。
自分の弱さ、足りなさは恥ではない、罪ではない。大切なのはその自分を素直に認めて、神様の憐みを求める心をもつことである、と教えられました。
さらにイエス様は、{イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」}とも言われました。
 神様の喜ばれる信仰とは、自分を誇る立派さをもった心ではありません。自分の弱さを素直に認めて、神様の憐みを求める心をもつ人、幼子が母の胸に抱かれて安らかであるように、神様にすべてをゆだねて心に平安をもつことです。あるがままで神様にゆだねきって生きる、これならあなたにもできます。神様の前に素直に生きましょう。


# by minitayori | 2016-10-22 21:39 | Trackback | Comments(0)

ヴィラカンサス

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 散歩道にある家の庭から道にはみ出していたきれいな実、と思ったがヴィラカンサすという花でした。ふしぎな花です。でも見事に実って?いました。

# by minitayori | 2016-10-22 21:34 | Trackback | Comments(0)

一輪だけの薔薇

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 ノウゼンカズラのにぎやかな花が散ってさみしくなった裏庭。今日秋晴れの朝、ベランダカラダから裏庭を見たら、いつの間にかピンクのバラが一輪咲いていました。弱弱しい感じが、なんともこれからの季節、秋のさみしさをあらわしていました。
 リルケの秋という詩の一部に
  すべては落ちる
 しかし、落ちる葉を、静かに受け止めてくれる人がいる。
という詩が心に残っています。花も葉も人も散ります、それを大きな愛をもって受け止めてくださる暖かい手があることを信じ、安らいでいたい。「見よ、世の終わりまで、わたしはあなた方と共にいる。」マタイ28章28節
 

# by minitayori | 2016-10-15 11:33 | Trackback | Comments(0)

 みにたより273

 「みにたより273」
 最近「時間」というものが気になってきた。いろいろしなければならないこと、やっておかなければならないことが頭の中をめぐるだが、一日終わってみると、無駄な時間の多かったことに悲しくなる。
 昨日は、いつもはしない仕事をし始めて、説明書が見えなかったので眼鏡をはずして仕事をしていた。ひと段落して片づけた後、メガネをどこに置いたか忘れてしまった。
 後片づけをしておかないといけないと思い、きれいに片づけて出したものを収納して、散歩がてら郵便局まで歩いた。途中で世の中がかすんでいると思ったら眼鏡をかけていなかった。ポストに投函して帰ったまでは良かったが、メガネがないと何もできない。 
 前の夜からの自分の行動を思い出しながら、探し回ったが見つからない。結局は午後を物探しに終わらせてしまった。それでも、私はあきらめが早いので、いつかは出てくると思いなおして、今できることをしておこうとごそごそし始めていた。しかし、見つからないというのが気になり、何度も中断して探し始める。
 私の様子を挙動不審に思った家内が、共同で探すことを申し出てくれたが、手を出されると、私には必要だが家内には不要に見えるものが出てくるので、そこでひと悶着起きかねない。それで意地でも自分で探そうと思って、懐中電灯、拡大鏡といろいろ使って探したがどうしても見つからない。
 見かねた家内が入って来て、そこにあるのはメガネではないの?と言われて、みると探していた眼鏡だった。昼間、新しい仕事をして、後片付けをした時に箱の中に入れたままになっていたのだ。眼鏡の端の方が突き出ていたので見つかったのだ。これでまた頭が上がらなくなりそうだ。
 前日からの出来事を事細かに思いだしながら、後追いして探していたのに、今日の昼間にした仕事のことをすっかり忘れ、その時に眼鏡をはずし、なくならないように箱に入れておいたのを忘れていた。こういうのが健忘症、悪く言えば認知症の始まりだろうか。
 前に入居していたケアハウスの近くに咲いていた、ボケの花がきれいだったなーと、ふと思い出す。「私の人生の大半は物探し!」と嘆いていた、ケアハウスの友人を思い出します。

# by minitayori | 2016-10-15 11:18 | Trackback | Comments(0)

コスモス

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 近くの道の真ん中
花壇にコスモスが咲いていた。多くはなかったが久しぶりの日光に当たってとてもうれしそうだった。長野にいた時、アルプスのふもとの休耕田にコスモスがいっぱい咲いていた。背の高さほどに伸びたコスモスはとてもたくましく思えた。都会の花は小さな場所にっ咲いていたせいか、少し肩身の狭い、円了しているように思えた。でもどんなところでも花は精いっぱい自分の花を咲かす。それが美しさのもとなのだろうか。

# by minitayori | 2016-10-15 11:13 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて  10月16日 ルカ福音書18章1~8節

 10月16日 聖霊降臨後第22主日 ルカによる福音書18章1~8節
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◆「やもめと裁判官」のたとえ
18:1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。
18:2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。
18:3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。
18:4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。
18:5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」
18:6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。
18:7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
18:8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

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「礼拝に備えて」
 苦しい時の神頼み!と言う言葉があります。良くとるか、悪くとるか、一般的にはどうでしょうか。広辞苑を見ると「普段神を拝まないものが、災難にあったり困りぬいた時にだけ、神の助けを求めること。神に頼ること。」とありました。
 今日の日課の聖書はそのままの出来事を示しているように思えます。しかし、イエス様のおっしゃる視点は、少し視点が違うように思えます。答える側に力点が置かれているように思えますがどうでしょうか。
 やもめと不正な裁判官の例え。やもめが必死に願う願いを、門前払いをしていたが、あまりにうるさいので黙らせるために願いを聞いてやる裁判官です。ここでの裁判官を神様とすれば、苦しんで願う人の祈りに、神様は面倒だから聞いてやることになります。
しかし、イエス様は困った時の神頼みこそ、真実の祈りになるのだとおっしゃっているのではないでしょうか。私達は祈ります。自分の力で解決できない問題をもって、祈り願い、神を求める者にこそ、神様は喜んで迎え、答えてくださるのです。なぜでしょうか。それは、その人が神様の義と神様の国とを必死に求め、神様に従い、神様と共に生きたいと願っているからです。あなたの心を神様はみなご存知です。
私は、これまでの働きの中で、自分の教会員の写真を見ながら祈るようにしてきました。一人一人の悩みや悲しみを思いながら祈ります。
日曜日にその人が明るい顔で来ると嬉しくて、笑顔であいさつします。笑顔で来ると嬉しくなります。しばらく来ない人が来ると「よかった!」と思いまた嬉しくなります。それが牧会であると、私は若い時に宣教師から教えていただきました。当時は家の手伝いをしながら高校に通っていました。近くに教会はありません。一カ月に一回くらい日曜日が休みになると、一時間ほど電車に乗って、バスに乗り換えて教会に行きます。田舎では一時間に一本くらいの電車、バスの乗り換えでの教会通いです。
少し遅れて教会に着く私を、受付にいた初老のご婦人がいつも笑顔で迎えてくれました。聖壇にいた宣教師も笑顔で迎えてくれました。一カ月待ちに待った休み、教会に行けるのが嬉しくて仕方なかった私の心を慰め、喜びに変えてくれたのが信徒の方や宣教師の笑顔でした。その笑顔がそのままイエス様の笑顔に見えました。神様に迎えられていることを感じさせてくれました。
イエス様は、神様の愛を求める者を「ましてや神は・・」と言われ、喜んで願いを聞いてくださる方であることを教えてくださいました。委ねて生きましょう、安心して神様に願い、神様と共に生きて行ってください。
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# by minitayori | 2016-10-15 11:06 | Trackback | Comments(0)

センニチコウ

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 散歩の途中で見た珍しい花だと思って写したが、名前がわからなかった。花や葉の形で似たものはあるが小さな図鑑ではなかなか一致しない。いくつか調べてみたが「センニチコウ」が一番近かったのでそうした。
 花は自分の名前を知らないし、名前がどうであれ自分の花を一生懸命咲かしている。正しい名前で呼んであげることが花を愛する者の責任と思うが、私には花を愛する資格がないのかもしれない

# by minitayori | 2016-10-15 10:57 | Trackback | Comments(0)

蝶と花

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 裏庭にきれいに咲いていたノウゼンカズラも後ひと固まりの花になってしまった。暑い夏の間、雨の中、嵐の中、がんばって慰めてくれた花も明日は散りそうな気配だった。ありがとう!と呟きながらみていると、いつもとは違うアゲハ蝶がやってきた。これから向かう厳しい季節のために、また新しい命のために蜜を吸いに来たのであろうか。心なしかノウゼンカズラの花が喜び、元気になったように思えた。自分を必要としてくれる蝶がいたことを喜んでいるようだった。

# by minitayori | 2016-10-06 21:01 | Trackback | Comments(0)

「きよせたより272」

 「きよせたより272」
日曜日、敬愛する方の召天一年の記念礼拝を、墓前で行ってきました。雨続きの中、その日だけが晴天で、久しぶりに夏の暑さを味わってきました。親しい友人だけで、礼拝をし、夫人の手作りの料理で、和やかな語らいの時がもたれました。
足腰の弱くなった私達にとっては、最後のご奉仕でした。故人の部屋で10名ほどが、畳の上のテーブルを囲んでの偲ぶ会。ほとんど座ることのなかった私達にとっては、行儀悪くはできないし、でも座れないしで、テーブルの下に足を投げ出したり、曲げたりの笑えない時間でした。
隣にいたご婦人お二人が話しておられました。お二人は、「私達は二人とも障害児を抱えて、不安なのです。」この人々の心の中に、負いきれない重荷があることを知りました。「私もね・・、」と自分のことを話し、心が打ち解けたように思いました。障害者を家に与えられることは大変だけれど、神様が選んで預けてくださった大切な魂。いつくしんで共に生きるときに、神様がきっとその人を家の宝物、家族の宝物にしてくださると思います。
人の一生は障害者で始まり、障害者になって終わるのですよね。??
赤ちゃん、それは重度の障害者でしょう、でも家族の笑顔の元、希望のもとですね。元気で働ける時はわずか、高齢者になると粗大ごみのように扱われるけれど、経験、知識、いろいろなものが詰まっている福袋のようなもの。自由には動けなくなってはいますが、赤ちゃんと同じように家の宝になるものではないでしょうか。
 赤ちゃんも高齢者もおむつが必要になります。独居老人が増え、孤独死も増えています。与えられた新しい命を喜ぶもよし、長く世に奉仕をし、使いきって神様に返す命も、また尊し。命の全部を大切に思いあえる世界であってほしいですね。
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# by minitayori | 2016-10-06 20:47 | Trackback | Comments(0)

ホトトギス

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 紫式部の花と同じ庭に咲いていた。何年か前にろう者のキャンプに行ったときにこの鳥の鳴き声を聞いたような気がする。「ほっちょん、かけたか」と聞こえると書いている人もいた。(野鳥図鑑)。清瀬の自然の森で見かけたような気もするが、羽根の姿がこの花の模様に似ている。懐かしさを感じる花です。

 

 

# by minitayori | 2016-10-06 20:37 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 10月9日 ルカ福音書17章11~19節

10月9日 聖霊降臨後第21主日 ルカによる福音書17章11~19節
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17:11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。:12 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。
17:14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。:15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。:16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。:17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。:18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」:19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

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 「礼拝に備えて」
 少し前に、知的障害者の施設が襲われて、多くの人が死傷した。障害者は生きていても無駄だから殺したと、加害者はうそぶいていたという。近々では、老人病院でここ数カ月の内に40名近くの人が亡くなり、その内の二名の方が命を繋ぐべき点滴によって死亡し、警察の手が入っているという。
これが同根だと恐ろしい。同根ではないと思うが、世界中で人権が無視されて、主義主張のために一般市民や幼い子供まで殺されるという、いたましい出来事が多発しているのだ。
 障害者・弱者への目は厳しい。昔は富国強兵の思想の中で、障害者、つまり戦争に出られない人は、「ごく潰し」と言われて辛い思いをしたと聞く。豊橋の猛烈な空爆に焼け出されて、母の故郷に逃げ帰った私たち一家、40代の両親は、食糧難の中で6人の子供を養ってきた。当然、子供たちは栄養失調になっていた。私が最初に紫斑病にかかり、重度の水疱瘡にかかった。両親は蓄えをはたいて医者にかからせてくれた。次の弟が同じ病気にかかって、全身紫になって死んだ。それから少しして、その次の弟が同じ病気にかかり、高熱で聴覚を失った。田舎の事、障害者をもつ家は、その家の先祖が悪いとか、血が汚れているとか言われて、差別を受けた。両親は、病気でなったのだから治るはずだと信じ、良い医者がいると聞けば、弟をどこまでも連れて行った。やがて、医学では治らないとあきらめて、いろんな人に勧められて、新興宗教にも頼った。
 お寺では、先祖の血が悪いと言われて、衝撃を受けて帰ってきた。キツネがついていると、山伏のお払いも受けた。お水とりと言われてどこかから持ってきた、一升瓶の水を飲まされていた。兄は結婚を断られ、私も友達と遊んでいると「耳の悪いのがうつるから。」と聞えよがしに言われて、遊びの中から友達が去って行った。障害者をもつ家庭の苦しみなのです。
 イエス様の時代、重い皮膚病(らい病、今のハンセン氏病であったと思われる)の人々が、日本もそうだったが、当時は町から隔離されて生活しなければならなかった。長い杖を持ち、町に入る時は自分の病名を叫びながら、人々が近寄らないようにしなければならなかった、と言われる。
 屈辱と絶望しかなかった人々は、サマリヤとガリラヤの間にあった谷間に、住みかを限定されて住んでいたのだろう。イエス様のうわさを聞き、近くに来られることを聴いて、10人の同じ病気をもつ人々が、「遠く離れて」イエス様を迎えた。そして「私達を憐れんで下さい」と叫んだ。
 「癒してください」、ではなくて、「憐れんで下さい。」。これはどんな意味だろうか。聖書ではこの同じ言葉が、神様のイスラエルに対する愛として用いられている。「私達を愛してください。人間らしく扱ってください。」彼らの悲しみと孤独さを浮き立たせる言葉ではないだろうか。
 彼らの願いを聞かれたイエス様は、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らはイエス様のお言葉を信じて、病をもったままで祭司たちの所へと、一歩を踏み出した。まだ病をもったままで祭司のもとに行く、大変勇気のいることだろう。しかしその途中、自分の病が癒されていることを知った。9人は喜んでどこかへ行ってしまったが、一人サマリヤ人(ユダヤ人に、汚れた人として軽蔑されていた人)だけがイエス様のもとに帰って来て、喜びの報告をした。
イエス様はその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」ここにイエス様が求められる、信仰の本当の姿があるのではないだろうか。どんな悲しい状況にあっても、神様は愛を与えてくださる。その愛を知って、神様に立ち帰り感謝する、そこに本当の救いがある、と思うのです。
人生の辛い試練も、神様の愛の中に包まれる時に、きっと幸いになる。それをもう一度神様に向き合って、謙虚に神様に感謝できる時に、「あなたの信仰があなたを救った。」と言われたように、初めて信仰が本当の救いになるのではないだろうか。障害を持つことは辛い事。本人にとっても家族にとっても。しかしそれは決してマイナスには終わらない。神様の深い愛の中で、辛さが幸いに代わる時が来ると信じたい。
辛さの漢字の上の点を、十字架に変える時、「辛」が「幸」と言う字になることに気がつきました。
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# by minitayori | 2016-10-06 20:20 | Trackback | Comments(0)

ムラサキシキブ

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 紫式部という名前の花に接したのは、ケアハウスの玄関近くにあった花壇の中だった。あまりきらびやかな花ではなかったが、花の下に書かれていた花名の札を見ていたく感心したものです。紫色の実がなん富む美しく感じたのを覚えている。最近近くのお庭でこの花を見つけた。やはり紫が美しかった。

# by minitayori | 2016-10-06 20:06 | Trackback | Comments(0)

床下の宝石

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 アパートの床下の花がなくなってしまったと、さみしく思いながらよく見ると小さな花が咲いていました。床下をのぞきこまなければ見えないような小さな花でした。誰にも見られなくても、一生懸命咲いている花がいじらしくなりました。こんなにきれいな花なのに、床下で咲いている。自分に定められたところだから、文句を言わないで懸命に咲いている。「床下の宝石」と名づけました。
  河野 進先生の詩を思い出した。
      
          「花」
花は自分の美しさに 気がつかない。
自分の良い香りを知らない
どうして 人や虫が喜ぶのかわからない
花は 自然のままに 咲くだけ 香るだけ


# by minitayori | 2016-09-30 18:18 | Trackback | Comments(0)

 「みにたより271」

 「みにたより271」
 この「ミニタヨリ」、初任教会の小石川教会で始めたもの。一週間に一度、教会で顔を合わせる人が、礼拝後共通の話題もなく、黙って教会から帰てゆく姿を見て、教会に来て、みんなと話せる話題を提供しようとして、はがきで「ミニタヨリ」を始めた。
 最初は10数人だったが、やがて50人を超えるようになり、100人を超えるようになった。私が勝手に始めたこと、私費で始めていたが、このはがきに献金してくれる人ができて、50枚、100枚のはがきの献品があり、不思議に続けられた。何も大したことは書いていなかったが、週の半ばに教会の様子がわかることで、教会に親近感を持ってくださったのだと思う。
 家の事、庭の落ち葉や、小さな花が咲いたこと、訪問の途中で感じたことなど、牧師の目で見、感じたことを伝えた。当時は、はがきを三段にし、最初の段には、次の礼拝に備えてみ言葉の短い解説。中段には牧師の目で礼拝で感じたこと。そして下段にはよもやま話を綴ってきた。
 はがき通信は2000号まで続ける予定だったが、病気のために一年早く引退したために達成できなかった。何とか目標を達成したいと引退後も続けようと思ったが資金が続かなくて、インターネットのブログで継続することになった。2000号に到達してから、いまの「きよせたより」に代わり、何人かの人に見てもらうようにした。続けて欲しいと頼まれた方には、プリントアウトして2週に一回くらい送らせてもらってきた。
 中古のパソコンが壊れるたびに、これで終ろうと思ったことがあったが、弱気になったとき必ず、誰かが励ましのコメントをくれるので、今まで続けることができました。最近ではごく親しい人が、「ブログやめさせては駄目よ!先生ボケるから。」と厳しい励ましの言葉を妻にくださった。
 今回が通算2271回目になる。2300回まで、いや2500回までと、自問自答をしながらの今日この頃。物忘れ、字忘れ、誤変換など、厳しくチェックしてくれる人がいるので、なんとかお送りしている。
 はがき1号から保管してくださった方がいた。お二人が段ボールで届けてくださった。ガリ版印刷の見にくい一号から、和文タイプの抜けてしまった見にくい文字の物まで、貴重な資料だった。今になって整理しようと探しているが、牧師の転居は次の人が来るので、短い時間でしなければならず、とりあえず必要なものだけを持って行く、必要最低限の物以外は捨てるという決断の中で、処理されてしまったようだ。20数年の手書きの説教も処分してきた。悔やんでも仕方がないので、神様にお返ししたと思っている。
 私はあなたの僕、なすべきことをなしたに過ぎませんと、素直に思っています。
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# by minitayori | 2016-09-30 18:02 | Trackback | Comments(0)

マダカスカル・ジャスミン?

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 散歩の途中で垣根の下から顔を出していたかわいらしい花。よく見る花のような気がしたが、なかなかはなの名前が見つかりませんでした。マダカスカルジャスミンの花が似ていたので、?をつけて書きました。葉が少し違うようでしたが、私の本には見つかりませんでした。知っている方教えてください。

# by minitayori | 2016-09-30 17:45 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 10月2日  ルカ福音書17章1~10節

10月2日 聖霊降臨後第20主日 ルカによる福音書17章1~10節
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17:5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、:6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。:7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。:8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。:9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。
17:10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
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 「礼拝に備えて」
 私は、自分が召された仕事にふさわしいとは思えなかった。学歴も知識もない、しかも口下手で負けず嫌いで・・と数え上げれば、身はすくむ思いであった。聖書学院を出て、初めて教会で働き始めた時、3カ月余りでその教会の責任者である宣教師が、病気で帰国してしまった。それから次の宣教師が就任するまで、一人で教会を守らなければならなかった。
 日曜日は、教会学校から始まり、信仰入門の集まりを行い、礼拝では奏楽と司式と説教まで一人で行った。水曜日の聖書研究会も行った。聖書学院で学んだ知識は、3カ月で底をついた。絞り切った手ぬぐいのように、語る言葉を失った。こんな私がこの働きを続けられない、と聖書学院の先生の所に泣きついた。
 その先生は、ブルーの大きな瞳に涙をいっぱい浮かべて、私の手を握り、「よかったね・・。そのままの弱い心を、神様にゆだねて生きるのですよ。神様がいつも一緒にいてくださるから・・」と涙を流して祈ってくださった。
 神学校を出て牧会に出る時も、こんな自分が、初めて教会に来る人にみことばを語り、もしその人が失望し、つまずいて二度と教会に来なくなったらどうしようと思うと、説教壇に立つのが怖かった。いつしか、説教前の讃美歌を歌う時に脈拍を数え、首にかけた十字架を握りしめ、「主よ、助けてください。」と祈り、説教壇に立つ時には、首にかけたストールに手を触れて上がるようになった。
 授按の時に、宣教師の先生が、卒業生にストールを贈ってくださった。その時、「これは『クビキ』、イエス様と一緒に説教壇に立ち、イエス様のお心を語る口になりなさい。」と言われたのを思い出していた。
 口で語り、手話で同時通訳をして語った20余年、たどたどしい言葉になり、手話も十分ではなかった。今思うと身がすくむ思い。それは、通訳がつく様になった最後の6年になっても変わらなかった。脈拍を数え、ストールに触って、イエス様のお心を語る口になろうと願ってきた。
 逆にいえば、私の人生は弱かったが故に、力がなかったが故に、神様に頼り続けた人生であったように思う。よい僕ではなかった。神様に迷惑ばかりかけてきた自分であったと思う。神様は沢山の信仰の友を与えてくださり、出来の悪い僕を支えてくださった。
 それを、今感謝を持って振り返ることができる自分であることが嬉しい。自分一人では何もできなかった。でもそれを支えてくださった沢山の信仰の友の力があった。そのお蔭で神様の僕であることができたことを、今感謝をもって振り返っている。

# by minitayori | 2016-09-30 17:32 | Trackback | Comments(0)

ザクロの実

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 実りの秋の始まりでしょうか。近くの駐車場のザクロに実がついていました。この駐車場にはバナナの木もあり、まだ実りの姿を見たことがありませんが、いつか見られるのを楽しみにしています。

# by minitayori | 2016-09-30 17:17 | Trackback | Comments(0)