1月17日の聖書の日課(ルーテル)

いっときに、一日だけを生き
いっときに、一瞬だけを喜ぶ。
苦しみも平和へ続く道として受け入れ
イエスの如く、
この罪深い世界をあるがままに理解して後悔せず
主の意志に身をゆだねれば、
すべてをあるべき姿にしてくれると信じて
そして、現世では適度の幸福を
来世では、
主と共に至高の幸福を感じることができるように。
                    アーメン
           アメリカの神学者ニーバーの祈りより。

2010・1月17日(日) 顕現節第3主日:ルカによる福音書4:16-32
4:16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。17預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。 
18「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、 
19主の恵みの年を告げるためである。」

   聖書より一言
 この聖書の箇所には、イエス様のご生涯への決心、神様のみ旨を受諾する服従の心が示されている。この聖書に記される人々はみなユダヤ人から阻害されていた人々であった。阻害と言うより、軽蔑され、人間として扱われなかった、と言ったほうが正しいかもしれない。いわゆる正当な、普通のユダヤ人から嫌われている人々を愛し、そのために生きるということは、その人々に与えられている差別を共に受けることであり、同時に差別をしている人々の心の痛みをも受けることであった。イエス様の愛は徹底していた。差別されている人々を愛し、差別をしている人々が、神様のお心に反していることをご自分の行動をもって示された。イエス様のやさしさや愛の行動は、ユダヤ人指導者たちの欺瞞に満ちた生活への糾弾となった。良心にやましさを持つ人々は反省をするどころか、怒り狂い、イエス様を十字架につけた。イエス様の十字架は人々の怒りに負けた形となったが、しかしそうではない。むしろ勝利の場所となった。次の言葉がそれを物語っている。
 ルカ23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕
これがイエス様のお心です。赦すことによって、自分を十字架につけたものまでも救われるものとしてくださったのです。あなたも今からでも間に合います。この祈りの「彼ら」の中にあなたも入っているのですから。
あなたのために祝福を祈ります。

by minitayori | 2010-01-14 21:10 | Trackback | Comments(0)

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