創世記手話聖研3課1617より
3課1617創世記手話聖研より
16.彼らは、「神様を愛し、信頼し、喜んで従う」と言う立場からではなく、自分の欲望から「木の実」を見たのです。すると、それは、食べるに良く、目には美しく、賢くなるに好ましく思えたので、彼は取って食べた、のです。ここで用いられていることばはみな「彼ら」が主語になっている事に注意して下さい。
17.彼らの心が自分中心になってしまった時、「神様への服従」は失われてしまいました。それとともに、神様との調和も失われてしまったのです。そこから、人間の不幸が始まり、苦しみの始まりがあったのです。神様の命令に対する「反抗」こそが、聖書で言う罪となったのです。
<手話訳>
>16.彼らは、「神様を愛し、信頼し、喜んで従う」と言う立場からではなく、
* 彼ら(男女) 神様 大切 思い 委ね 喜んで 従う 違う
>自分の欲望から「木の実」を見たのです。すると、それは、食べるに良く、
*自分 思い 中心 木の 実 見た。 その 時 それ 食べる おいしい
>目には美しく、賢くなるに好ましく思えたので、彼は取って食べた、のです。
*目に きれい 賢く なる 良い 思った だから 彼ら 取り 食べた
>ここで用いられていることばはみな「彼ら」が主語になっている事に注意して下さい
*ここで 書いてある 言葉 みな 彼らが 主に なっている 注意 見てください
>17.彼らの心が自分中心になってしまった時、
*彼ら 心 中 自分 中心の 思い 一杯 変わった 時
>「神様への服従」は失われてしまいました。
*神様に 従う 心 失っった。
>それとともに、神様との調和も失われてしまったのです。
*それ 同時に 神様 仲良し(心合わせる) 関係 無くなる
>そこから、人間の不幸が始まり、苦しみの始まりがあったのです。
*その時 から 人間の 不幸 始まる 苦しみ 始まった。
>神様の命令に対する「反抗」こそが、聖書で言う罪となったのです。
*神様 命令 対する 反抗 行為が 聖書 教える 「罪」 である。
(手話訳から一言)
教会に行くと、罪とかあなたは罪びとです、と言われて、怒って帰ってしまった、と言う話をよく聞きます。一般に「罪」とは(悪いことをした)と考えるから、自分は悪いことをしていないと反発をします。確かに、まるで聖人のようだ、と言われる人がいます。しかし、その人も神様から見れば、罪びとなのです。どうしてでしょうか。神様が座るべきところに自分が座っているからです。
人間の和が壊れる時、大体自己中心の心が出ている時です。神様との関係もそうですし、自分の中でもそうです。自分がもっと偉いはずなのに、愛されるべきなのに、尊敬されるべきなのに、世の中は自分を大切にしてくれない。そんな思いが、自分を傷つけ、他人を傷つけていないでしょうか。
あの時、ごめんなさいと言っていたら、仲たがいをしなかったのに、いやな思いをしなくて済んだのに、と後悔することがあります。「自分と言うプライドが言わせない」それが人間の弱さです。聖書ではそれを罪の実である、と教えるのです。神様にも、自分自身の良心にも従順に、謙遜に生きることが必要なのです。人間の心にだれもが持っている「自己中心」の心を反省しつつ、それがどのようにしたら無くなるのか、聖書は教えてくれます。その答えはイエス様の十字架です。それは神様への絶対的な従順です。あなたと私に代わって成し遂げてくださったのです。イエス様、あなたのみ業を感謝して、わたしのものとしていただきます。そう祈って見てください。
by minitayori | 2012-07-28 21:53