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礼拝に備えて 2013・8月4日(日)「主の祈り」

2013・8月4日(日)聖霊降臨後第11主日「主の祈り」
聖書 : ルカによる福音書11:1-13
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11:1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
 2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。
3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
4 わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

 「礼拝に備えて」
・私たちがいつも用いている「主の祈り」の原型がここに記されている。イエス様がお祈りしているときに、弟子の一人がイエス様にお願いして教えてもらった祈りである。
・今現在は、この祈りの冒頭が少し変わっている。「天にましますわれらの父よ」という文が加えられている。
・ある方が、主の祈りは旧約聖書の十戒を祈りとして唱えるように教えられている、と言っていた。
・その真偽のほどは聖書学者ではない私にはわからないが、全体の流れ、構成は十戒によく似ている。
・神に対する祈り、と、人に対する祈り、とに分かれて記されている。確かに、そのようにみることもできる。
・その中でも、冒頭に付け加えられている言葉には、この主の祈りの根本的なことが含まれていると思う。
・第一、それは「わたしたちが、失ってしまったもので、しかも、求め続けているもの」が記されている。
・それは「天にまします」で示されるように、天、つまり神を見上げる心である。人は天(神)を見上げる心を失った時、自己中心の迷いの道に入ってしまったのである。
・人だけが、未知の崇高なものに向かって祈る心を持っている。それは神を知っている、ことである。しかし、神を恐れている。
・本当は、人は神を畏れ、共にいるように造られている。神を見失っていることによって、誰もが喪失感、心に空虚さを感じているのだ。
・第二のこと、それは神を恐れるのではなく、「父」と親しく呼び、放蕩息子のように父のもとに帰りたく思っている、そのことに気づかせてくれる。恐れている方を、天を見上げる心を持つならば、「父」と親しく呼べるのですよ、と教える。
・第三に、この冒頭の言葉には「われらの」という言葉がある。人は神を見失ったとき、自己中心になり、「これぞ、肉の肉、骨の骨」と呼んだ妻を、疎んじるものとなった。
・しかし、この祈りの冒頭に、「われら」と祈るように言われる。隣人は疎んじるものではなく、私たちの大切な友であると祈るのだ。
・この祈りは、「主の祈り」。イエス様もこのようにあなたのために祈っていてくださいます。
・神を見上げ、従い、十字架の上で最後に祈られた祈り、「父よ彼らをお許しください。彼らは何をしているのか知らないからです。」あなたのための祈りであり、私のための祈り。感謝!

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by minitayori | 2013-08-03 19:45