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礼拝に備えて 2月15日(日) 変容主日

2月15日(日) 変容主日 ●マルコ9章2~9
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9:2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、9:3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。9:4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
9:5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」9:6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。
9:7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」9:8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
9:9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

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「礼拝に備えて」『仮小屋でいいですか』 マルコ9:1-9
1、序
物事には、逆算することによって、より期待がふくらむものと、そうでないものがあります。例えば、「結婚する人々はもう幾つ寝ると…・・・。早く来い来い」、結婚式に向けて残りの日々を数えるという楽しみがあります。逆に、原稿の締め切りまであと何日と数えると、事態はまったく違って、これは恐怖であるというものです。数え方は同じでも、置かれている状況によって作用にも反作用にもなるようです。
本日の聖書の日課は「イエス様の変容」、また「山上の変貌」と言われる箇所です。山の上でイエス様のお姿が光り輝き、モーセとエリヤが現れてイエス様となにやら話し合った、と言うのです。

さて、聖書を見てみましょう。弟子たちは、イエス様の姿が真っ白に輝き、モーセ、エリヤと共にいた瞬間、まさに「イエス様は神の子」としての姿を見たことでしょう。そして、「ラビ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。わたしたちはここに三つ仮小屋を造り、一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのためにいたしましょう」と申します。
それは輝かしいイエス様の姿をそのまま取っておきたいという欲望です。これは私達の信仰生活への忠告です。教会の愛の交わり、おごそかな礼拝、心休まる讃美歌。私達にとってはこれで十分と思ってはいないでしょうか。ここに私達の仮小屋を作ってはいないでしょうか。
栄光のイエス様はもとの姿に戻り、病人や苦しんでいる人のただ中に降りて行かれました。そして、受難、十字架への道を歩まれました。まさに教会の暦は受難節に入ります。私達はキリストの十字架のお姿を学びます。しかし、忘れてはならないことは、十字架は、必ず復活へと続きます。復活抜きの十字架を考えてはなりません。けれども「あなたがたはこの世では、悩みがあります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでにこの世に勝利しています」。わたしたちはこの世の悩みを負って生きて行かねばなりません。それはわたしたちの負う十字架です。負うのは一人ではなく共におられる主が一緒に負ってくださるのです。
春一番とは、もうそこまで春が来ていることを私たちに知らせるものでもあります。しかし、揺り返しのようにくる寒さに震えるのもこの時期です。そして、その寒さの只中で、確かに、ここに春があること私たちは感知しています。
間もなく受難節に入ります。どんな惨めな姿のイエス様が示されようとも、山上の変容は救い主イエス様を告げる春一番であることを覚えておきたいと思います。私達も仮小屋に満足しないで主の後を従って行きましょう。イエス様は変容の山から降り、苦難の日々を歩んで行かれました。それは私たちの救いという春の訪れのしるしでもあるのです。イエス様は栄光の主であると同時に、受難の主でもあります。ここにこそ私たちの罪が許され、復活と栄光の希望に生きることができるのです。


by minitayori | 2015-02-14 17:35