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礼拝に備えて 3月20日 枝の主日 ルカ19章28~46 

 3月20日 枝の主日 ルカ19章28~46
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20:27 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。:28 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
20:29 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。 20:30 次男、:31 三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。:32 最後にその女も死にました。:33 すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
20:34 イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、:35 次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。
20:36 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。
20:37 死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。:38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」

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「礼拝に備えて」
 今日の日課では、イエス様はサドカイ派の人たちと論争をしている。彼らは復活を否定していた。彼らの話を見ていると、彼らが自分の論理の中で否定の材料を探していることがわかる。
 手話でお話するようになって、キリスト教用語の難しさをつくづく思わされた。自分の経験の中で同じ現象を探してそれを動作で表すのだが、その実態がどうしても具体的に頭に浮かんで来てくれないと、手話には表現できない。キリスト教用語には人間の理解の中では具体化できない事柄が多い。
 私の父は膵臓癌から内臓のいろいろな所に転移して、半年余りの闘病の末なくなった。危篤状態になり、私は神学校の最終学年だったが、一時自宅に帰ることにした。母は父の好きだった鶏肉ですき焼きを作って、家族で鍋を囲んで団欒した。平穏であったが、父は自分の最後の近い事を知っていた。
 私を枕元に呼んで讃美歌を歌ってくれ、と言った。教団讃美歌515番の「十字架の血に」を歌った。この歌は私の大好きな讃美歌だった。夜遅く風呂に入っている時この歌を歌っていた。ぬるくなった風呂を父がよく追いだきしてくれた。その時に聞いていてくれたのだ。父は宣教師の先生を自宅に招き、仕事場を開放して家庭集会を行っていたこともあった。讃美歌が好きだった。
 父は癌の末期に、教会の人から献血をしてもらって命を永らえていた。私の歌う讃美歌を聞いた後、「今までお前には何もできなかったが、一つしてもらいたい事がある。お前から洗礼を受けたい。」と言ってくれた。
献血の血、そして十字架の血によって生かされる事のありがたさを、父なりに強く感じ、全てを十字架のイエス様に委ねようと決心してくれたのだ。神学生であった私は、その町の牧師に頼んで介添えをしてもらい、洗礼式を行った。
 その夜悪化して再入院、次の日、ちょうど復活日に召天した。父は町の檀家総代、母も仏教徒、私は納棺までキリスト教式で行い、後は母の気の済むように仏教式で葬儀を行った。
 父が何を思い、何を願って洗礼を希望したのか、その心の中までは正確にはわからない。しかし、イエス様と共に居ればみ手に守られている、そのことだけを信じ、委ねたのだろうと思う。イエス様と共に神の命の中に移り、神様の所に帰る、そのことだけを信じていたと思う。

 十字架の血に、清めぬれば
 こよとのみ声を 我はきけり
 主よ我は今ぞ行く 十字架の血にて
 清めたまえ

「父よ彼らをゆるしたまえ。彼らは何をしているのかわからないからです。」とのイエス様の赦しの中にいることを素直に信じ、受け入れてお委ねしていきたいと思う。

by minitayori | 2016-03-19 21:20