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礼拝に備えて 10月9日 ルカ福音書17章11~19節

10月9日 聖霊降臨後第21主日 ルカによる福音書17章11~19節
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17:11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。:12 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。
17:14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。:15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。:16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。:17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。:18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」:19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

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 「礼拝に備えて」
 少し前に、知的障害者の施設が襲われて、多くの人が死傷した。障害者は生きていても無駄だから殺したと、加害者はうそぶいていたという。近々では、老人病院でここ数カ月の内に40名近くの人が亡くなり、その内の二名の方が命を繋ぐべき点滴によって死亡し、警察の手が入っているという。
これが同根だと恐ろしい。同根ではないと思うが、世界中で人権が無視されて、主義主張のために一般市民や幼い子供まで殺されるという、いたましい出来事が多発しているのだ。
 障害者・弱者への目は厳しい。昔は富国強兵の思想の中で、障害者、つまり戦争に出られない人は、「ごく潰し」と言われて辛い思いをしたと聞く。豊橋の猛烈な空爆に焼け出されて、母の故郷に逃げ帰った私たち一家、40代の両親は、食糧難の中で6人の子供を養ってきた。当然、子供たちは栄養失調になっていた。私が最初に紫斑病にかかり、重度の水疱瘡にかかった。両親は蓄えをはたいて医者にかからせてくれた。次の弟が同じ病気にかかって、全身紫になって死んだ。それから少しして、その次の弟が同じ病気にかかり、高熱で聴覚を失った。田舎の事、障害者をもつ家は、その家の先祖が悪いとか、血が汚れているとか言われて、差別を受けた。両親は、病気でなったのだから治るはずだと信じ、良い医者がいると聞けば、弟をどこまでも連れて行った。やがて、医学では治らないとあきらめて、いろんな人に勧められて、新興宗教にも頼った。
 お寺では、先祖の血が悪いと言われて、衝撃を受けて帰ってきた。キツネがついていると、山伏のお払いも受けた。お水とりと言われてどこかから持ってきた、一升瓶の水を飲まされていた。兄は結婚を断られ、私も友達と遊んでいると「耳の悪いのがうつるから。」と聞えよがしに言われて、遊びの中から友達が去って行った。障害者をもつ家庭の苦しみなのです。
 イエス様の時代、重い皮膚病(らい病、今のハンセン氏病であったと思われる)の人々が、日本もそうだったが、当時は町から隔離されて生活しなければならなかった。長い杖を持ち、町に入る時は自分の病名を叫びながら、人々が近寄らないようにしなければならなかった、と言われる。
 屈辱と絶望しかなかった人々は、サマリヤとガリラヤの間にあった谷間に、住みかを限定されて住んでいたのだろう。イエス様のうわさを聞き、近くに来られることを聴いて、10人の同じ病気をもつ人々が、「遠く離れて」イエス様を迎えた。そして「私達を憐れんで下さい」と叫んだ。
 「癒してください」、ではなくて、「憐れんで下さい。」。これはどんな意味だろうか。聖書ではこの同じ言葉が、神様のイスラエルに対する愛として用いられている。「私達を愛してください。人間らしく扱ってください。」彼らの悲しみと孤独さを浮き立たせる言葉ではないだろうか。
 彼らの願いを聞かれたイエス様は、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らはイエス様のお言葉を信じて、病をもったままで祭司たちの所へと、一歩を踏み出した。まだ病をもったままで祭司のもとに行く、大変勇気のいることだろう。しかしその途中、自分の病が癒されていることを知った。9人は喜んでどこかへ行ってしまったが、一人サマリヤ人(ユダヤ人に、汚れた人として軽蔑されていた人)だけがイエス様のもとに帰って来て、喜びの報告をした。
イエス様はその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」ここにイエス様が求められる、信仰の本当の姿があるのではないだろうか。どんな悲しい状況にあっても、神様は愛を与えてくださる。その愛を知って、神様に立ち帰り感謝する、そこに本当の救いがある、と思うのです。
人生の辛い試練も、神様の愛の中に包まれる時に、きっと幸いになる。それをもう一度神様に向き合って、謙虚に神様に感謝できる時に、「あなたの信仰があなたを救った。」と言われたように、初めて信仰が本当の救いになるのではないだろうか。障害を持つことは辛い事。本人にとっても家族にとっても。しかしそれは決してマイナスには終わらない。神様の深い愛の中で、辛さが幸いに代わる時が来ると信じたい。
辛さの漢字の上の点を、十字架に変える時、「辛」が「幸」と言う字になることに気がつきました。
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by minitayori | 2016-10-06 20:20