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4月8日 礼拝に備えて マルコ福音書16章9-18節

48日 マルコによる福音書16章9-18

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◆マグダラのマリアに現れる

16:9 〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。:10 マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。:11 しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。 16:12 その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。:13 この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。16:14 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。:15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。:16 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。:17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る:18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

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「礼拝に備えて」

 イエス様の復活は、最初に婦人たちに現われた。この婦人は、マグダラノマリアと言って7つの悪霊を追い出していただいた婦人であったと記されている。人は自分の無力さや醜さを知る時に謙虚になると言われる。確かに健康で得意の絶頂にある人は素直に信仰に入ることは出来ないようだ。

 もちろん例外もある。私の最初の教会の役員の中に東京大学の物理の先生がいた。一番信仰に縁遠いようなお方だったが、そのことをある時尋ねた。先生は当たり前のように、神様のなさることは人の思いを超えているのが当たり前。神様を信じると言う事は、全てを受け入れること。人の知恵で選別することではない、とお話された。私は牧師として働いていた時、いつもこの言葉を心の片隅に置いて、自分もそうあるようにと心がけてきた。神様のなさることは人の思いを超えて素晴らしい!この信仰に立つためにはどうしたらよいだろうかとも思った。今日の日課で復活のイエス様はマグダラのマリアにあらっ割れた。7つの悪霊に取りつかれて苦しい中でイエス様に出会い、自分も神様に愛されている事を知った人だった。イエス様は山上の説教の中で「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は幸いである。その人は慰められる。」と教えられた。

 マリアもそうだった。「蔑まれていた自分をイエス様は神様の愛する子として迎えてくれた。」その感謝の思いが、何の疑いもなく復活の主、私のために復活して、今そばに来てくださった、その喜びで満たされた。エルサレムから離れて、田舎に帰って行こうとした弟子がいた。主がいなくなった事の悲しさはこれの心を満たしていた。自分に自信もなくしていたろう。だからこそ失意の中で出合った復活のイエス様との出会いが嬉しかった。恐れていたエルサレムに戻り、他の弟子達に主の復活を伝える気になったのだろう。

 こうして教会は弱さを知る者がイエス様と出会う事。神様のお心尾を知る喜びから始まった。これが教会の初めであった。私自身もこのようでありたい。
*前回、アップ失敗の礼拝に備えてです。お詫びしつつ。


by minitayori | 2018-04-14 10:18