人気ブログランキング |

2012年 09月 15日 ( 5 )

調査中

e0191585_204368.jpg


 近くの家の前の植え込みに珍しい花が咲いっていた。昨年も同じところに咲いていた。初めてではないが一年その名を探すことをしていなかった。友人にいただいた花の本にはない。本屋に行って探して来よう。
神様のお守りがありますように。

by minitayori | 2012-09-15 20:47

キヨセタヨリ011

キヨセタヨリ011
2012・9月16日(日)聖霊降臨後第16主日 
聖書 : マルコによる福音書7:31-37
7:31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。 32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。 33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。 34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。 35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。 36 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

e0191585_20382635.jpg

「礼拝に備えて」
“心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」 そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。 そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。”
ここには旧約の日課、イザヤ書に示される救い主到来の時の様子が示されている。救い主が来られるときには、律法の外に置かれ、神様の救いの外に置かれていると考えられていた人々が、癒され、神様の救いの恵みの中で、神を賛美できるようすを示している。
わたしはこのみ言を、実現された方を知っている。マタイ11章の初めに、洗礼者ヨハネの弟子たちに答えられたイエス様のお言葉が、このイザヤ書の実現を示していた。イエス様がいらっしゃる所に、いつも社会の中でなおざりにされている人が、中心に置かれ、神を喜び賛美している。
教会は復活の主のいますところ、と私たちは信じている。私たちの心の中にもその救い主イエス様が来てくださっていると信じている。もしそう信じているならば、「わたしの周りを御覧なさい。イエス様に愛され、罪許され、神の子として受け入れられて喜んでいる人々が、感謝しつつ賛美をしている状況を。」このように証できるのではないだろうか。
 教会の前に来て、そびえたつ教会を見て、祈りたいと願いながら、目の前の階段を上ってゆくことのできない人がいる。車いすの人がいる。目の不自由な人がいて、教会の入り口が分からないでいるかもしれない。礼拝に出席しても、お話が分からない、聞こえない人(ろう者・高齢者)がいる。教会の牧師、信徒はそのような人のいることを、せめて、痛みつつ覚えて欲しい。
 一番悲しんでいらっしゃるのは、その独り子を下さったほどに、この世(すべての人々)を愛していてくださる神様なのだから。神様のお心がイエス様の愛の中で実行できる教会、いや私たちでありたい。
 そしてあなたに。『あなたも招かれている。』イエス様の愛の満ちているところにいなさい。イエス様はあなたを探し出して、その両の腕に抱き、失った羊を探す羊飼いのように、あなたを探し、迎えてくださる。あなたが神様を父と呼ぶ日を神様は待っており、その心を喜んでくださるから。


e0191585_20403572.jpg

「断想」
・先週の日曜日、ケアハウスで敬老祭が行われた。お祝いの花束が贈られたのは、ケアハウスと、隣の特別養護老人ホームを合わせて90歳以上の方が25人、100歳以上の方が7人いたとの由。長寿の国日本を実感した一日だった。老いてなお笑顔であってほしいと思った。イエス様に在って。
・暑さは相変わらずだが、朝夕は涼しくなった。秋の気配がする。こおろぎや鈴虫の鳴き声も、セミの鳴き声も秋の間近いことを告げ知らせている。小さな蝶が少ない花の間を飛び回っている。のどかな光景です。
・この気候の変化は、意外と体調を崩しやすいと聞いた。みなさん元気に乗り切ってほしい。病の床にいる人や、高齢になって独り暮らしをしている人のために、特に祈りたい。
・あなたは一人ではない。弟子たちに、「見よ、わたしは世の終わりまで共にいる」と約束してくださったイエス様が、あなたのそばにいてくださる。
・眠るときにはあなたの枕辺にいてくださる、主のみ手に委ねて安心して休み、朝には主と共に、新しい一日を始めて欲しい。あなたに今日一日、主の平安がありますように。

by minitayori | 2012-09-15 20:41

名前分からずの花

e0191585_20305019.jpg


近くの散歩道で見つけたきれいな花。暑さにしおれかかった木の陰で、健気にも咲いていました。かわいい花でした。

by minitayori | 2012-09-15 20:34

ふうせんかずら

e0191585_20241988.jpg


 以前にも紹介したが、その時、「提灯かずら」と書いてしまった。読者の方から投稿いただき、正式な名前は「ふうせんかずら」ハートピー。あなたと共にという意味があるそうです。mさんありがとうございました。今年は暑さの中、たくさん実っています。秋でしょうか色づき始めています。

by minitayori | 2012-09-15 20:28

3課2425創世記聖研手話訳

3課2425創世記聖研手話訳

24.次に起こった事が、「隣人との不調和」です。つまり、人と人との間の不調和です。
かつては、「わたしの骨の骨、肉の肉」、と自分の助けてとして造られたエバを喜んだアダムでしたが、神様からその罪を責められると、その罪の責任を、妻エバに転嫁しようとしました。さらに、エバを造った神様に、その罪の責任を転嫁しようとしたのです。
25.罪責感を自分のうちで解決できない人は、他の人に責任を転嫁したり、他の人を非難したり、傷つけたりする事によって、自分を正当化しようとします。この事は、今の私たちの社会にいくらでも見られる事です。自己中心の自己正当化の心が、人と人ばかりでなく、国と国との争いにまでなっていきます。「隣人との不調和」が始まりました。

<手話訳>
>24.次に起こった事が、「隣人との不調和」です。
* 2番目 始まる 状態 「仲間 人 不調和」 です。
注)不調和=仲たがい(背を向けあう状態)の手話を使います。
反対にして手を合わせて 握り合うと、仲良し、仲間、友達と言う意味になる。

>つまり、人と人との間の不調和です。
*結果(結ぶと言う動作) 人 人 間 仲たがい です

>かつては、「わたしの骨の骨、肉の肉」、と自分の助けてとして
*少し 以前 自分の 骨 同じ 肉 同じ と言って 自分 助ける 人 と思い

>造られたエバを喜んだアダムでしたが、神様からその罪を責められると、
*神 造る いただく エバ(女) 喜んだ アダム(男) 神 罪 言われた 時

>その罪の責任を、妻エバに転嫁しようとしました。
*自分の 罪の 責任 自分 女 エバに かぶせた
注)罪=神に背いた行為  責任=肩に乗っているもの 転嫁=相手にかぶせる

>さらに、エバを造った神様に、その罪の責任を転嫁しようとしたのです。
*さらに 女 造った 神様 悪い 言って 罪 責任 かぶせた

>25.罪責感を自分のうちで解決できない人は、他の人に責任を転嫁したり、
*罪 苦しみ 自分の 中 無くす 難しい 人 他の人に 責任 かぶせる

>他の人を非難したり、傷つけたりする事によって、自分を正当化しようとします。
*他の 人 悪く 言う 苦しみ 与えて    自分は 正しい 考える。

>この事は、今の私たちの社会にいくらでも見られる事です。
*この状態 今 私たちの 社会の 中 沢山 ある。

>自己中心の自己正当化の心が、人と人ばかりでなく、
*自己 中心 自己 だけ 正しい 思う 心 人 だけ 違う

>国と国との争いにまでなっていきます。「隣人との不調和」が始まりました。
*国 国 間 争い=戦争 源 なる。 他の人 喧嘩別れ 始まった。

e0191585_2031664.jpg


[手話訳より」
 創世記の中には、人間の持つ根本的な問題が、問いかけられ、また答えられています。この部分では、どうして人間の中に争いがあるのだろうか、という素朴な疑問への答えが記されています。
 仲の良かった友と仲たがいし、今までの仲間がいじめに回ったり。心燃やして夫婦になったのに、その男女がいつの間にか情熱が冷めてしまい、些細なことで攻め合い、許せなくなって離婚をしてしまうこともあります。またどうして、人間は神を敬いつつも、神を恐れるのか。また自分自身を恥じるのはなぜか、という現代の私たちにも当てはまる問いかけがなされています。
 それはすべての基準を神様にではなくて、自分の中に置き、自分だけを正しいと思うから、人の正しさが認められず、人の幸せが羨ましくなったりするのです。こんな私たちの心の弱さは、すべて心の基準を神様に置いていない人間の愚かさに源があるのです。聖書の教えは厳しいですが、真実です。自分自身を注意深く見詰めてみると、自分の弱さの原因が、自己中心の心にあることがわかります。ではどのようにして生きてゆくことが必要なのでしょうか。神様に背を向けたアダムのようにではなく、十字架の死に至るまで神様に従順であったイエス様に倣って生きること、これが神様の求める御心なのです。

by minitayori | 2012-09-15 20:21