蝶と花

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 裏庭にきれいに咲いていたノウゼンカズラも後ひと固まりの花になってしまった。暑い夏の間、雨の中、嵐の中、がんばって慰めてくれた花も明日は散りそうな気配だった。ありがとう!と呟きながらみていると、いつもとは違うアゲハ蝶がやってきた。これから向かう厳しい季節のために、また新しい命のために蜜を吸いに来たのであろうか。心なしかノウゼンカズラの花が喜び、元気になったように思えた。自分を必要としてくれる蝶がいたことを喜んでいるようだった。

by minitayori | 2016-10-06 21:01 | Trackback | Comments(0)

「きよせたより272」

 「きよせたより272」
日曜日、敬愛する方の召天一年の記念礼拝を、墓前で行ってきました。雨続きの中、その日だけが晴天で、久しぶりに夏の暑さを味わってきました。親しい友人だけで、礼拝をし、夫人の手作りの料理で、和やかな語らいの時がもたれました。
足腰の弱くなった私達にとっては、最後のご奉仕でした。故人の部屋で10名ほどが、畳の上のテーブルを囲んでの偲ぶ会。ほとんど座ることのなかった私達にとっては、行儀悪くはできないし、でも座れないしで、テーブルの下に足を投げ出したり、曲げたりの笑えない時間でした。
隣にいたご婦人お二人が話しておられました。お二人は、「私達は二人とも障害児を抱えて、不安なのです。」この人々の心の中に、負いきれない重荷があることを知りました。「私もね・・、」と自分のことを話し、心が打ち解けたように思いました。障害者を家に与えられることは大変だけれど、神様が選んで預けてくださった大切な魂。いつくしんで共に生きるときに、神様がきっとその人を家の宝物、家族の宝物にしてくださると思います。
人の一生は障害者で始まり、障害者になって終わるのですよね。??
赤ちゃん、それは重度の障害者でしょう、でも家族の笑顔の元、希望のもとですね。元気で働ける時はわずか、高齢者になると粗大ごみのように扱われるけれど、経験、知識、いろいろなものが詰まっている福袋のようなもの。自由には動けなくなってはいますが、赤ちゃんと同じように家の宝になるものではないでしょうか。
 赤ちゃんも高齢者もおむつが必要になります。独居老人が増え、孤独死も増えています。与えられた新しい命を喜ぶもよし、長く世に奉仕をし、使いきって神様に返す命も、また尊し。命の全部を大切に思いあえる世界であってほしいですね。
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by minitayori | 2016-10-06 20:47 | Trackback | Comments(0)

ホトトギス

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 紫式部の花と同じ庭に咲いていた。何年か前にろう者のキャンプに行ったときにこの鳥の鳴き声を聞いたような気がする。「ほっちょん、かけたか」と聞こえると書いている人もいた。(野鳥図鑑)。清瀬の自然の森で見かけたような気もするが、羽根の姿がこの花の模様に似ている。懐かしさを感じる花です。

 

 

by minitayori | 2016-10-06 20:37 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 10月9日 ルカ福音書17章11~19節

10月9日 聖霊降臨後第21主日 ルカによる福音書17章11~19節
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17:11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。:12 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。
17:14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。:15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。:16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。:17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。:18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」:19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

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 「礼拝に備えて」
 少し前に、知的障害者の施設が襲われて、多くの人が死傷した。障害者は生きていても無駄だから殺したと、加害者はうそぶいていたという。近々では、老人病院でここ数カ月の内に40名近くの人が亡くなり、その内の二名の方が命を繋ぐべき点滴によって死亡し、警察の手が入っているという。
これが同根だと恐ろしい。同根ではないと思うが、世界中で人権が無視されて、主義主張のために一般市民や幼い子供まで殺されるという、いたましい出来事が多発しているのだ。
 障害者・弱者への目は厳しい。昔は富国強兵の思想の中で、障害者、つまり戦争に出られない人は、「ごく潰し」と言われて辛い思いをしたと聞く。豊橋の猛烈な空爆に焼け出されて、母の故郷に逃げ帰った私たち一家、40代の両親は、食糧難の中で6人の子供を養ってきた。当然、子供たちは栄養失調になっていた。私が最初に紫斑病にかかり、重度の水疱瘡にかかった。両親は蓄えをはたいて医者にかからせてくれた。次の弟が同じ病気にかかって、全身紫になって死んだ。それから少しして、その次の弟が同じ病気にかかり、高熱で聴覚を失った。田舎の事、障害者をもつ家は、その家の先祖が悪いとか、血が汚れているとか言われて、差別を受けた。両親は、病気でなったのだから治るはずだと信じ、良い医者がいると聞けば、弟をどこまでも連れて行った。やがて、医学では治らないとあきらめて、いろんな人に勧められて、新興宗教にも頼った。
 お寺では、先祖の血が悪いと言われて、衝撃を受けて帰ってきた。キツネがついていると、山伏のお払いも受けた。お水とりと言われてどこかから持ってきた、一升瓶の水を飲まされていた。兄は結婚を断られ、私も友達と遊んでいると「耳の悪いのがうつるから。」と聞えよがしに言われて、遊びの中から友達が去って行った。障害者をもつ家庭の苦しみなのです。
 イエス様の時代、重い皮膚病(らい病、今のハンセン氏病であったと思われる)の人々が、日本もそうだったが、当時は町から隔離されて生活しなければならなかった。長い杖を持ち、町に入る時は自分の病名を叫びながら、人々が近寄らないようにしなければならなかった、と言われる。
 屈辱と絶望しかなかった人々は、サマリヤとガリラヤの間にあった谷間に、住みかを限定されて住んでいたのだろう。イエス様のうわさを聞き、近くに来られることを聴いて、10人の同じ病気をもつ人々が、「遠く離れて」イエス様を迎えた。そして「私達を憐れんで下さい」と叫んだ。
 「癒してください」、ではなくて、「憐れんで下さい。」。これはどんな意味だろうか。聖書ではこの同じ言葉が、神様のイスラエルに対する愛として用いられている。「私達を愛してください。人間らしく扱ってください。」彼らの悲しみと孤独さを浮き立たせる言葉ではないだろうか。
 彼らの願いを聞かれたイエス様は、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らはイエス様のお言葉を信じて、病をもったままで祭司たちの所へと、一歩を踏み出した。まだ病をもったままで祭司のもとに行く、大変勇気のいることだろう。しかしその途中、自分の病が癒されていることを知った。9人は喜んでどこかへ行ってしまったが、一人サマリヤ人(ユダヤ人に、汚れた人として軽蔑されていた人)だけがイエス様のもとに帰って来て、喜びの報告をした。
イエス様はその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」ここにイエス様が求められる、信仰の本当の姿があるのではないだろうか。どんな悲しい状況にあっても、神様は愛を与えてくださる。その愛を知って、神様に立ち帰り感謝する、そこに本当の救いがある、と思うのです。
人生の辛い試練も、神様の愛の中に包まれる時に、きっと幸いになる。それをもう一度神様に向き合って、謙虚に神様に感謝できる時に、「あなたの信仰があなたを救った。」と言われたように、初めて信仰が本当の救いになるのではないだろうか。障害を持つことは辛い事。本人にとっても家族にとっても。しかしそれは決してマイナスには終わらない。神様の深い愛の中で、辛さが幸いに代わる時が来ると信じたい。
辛さの漢字の上の点を、十字架に変える時、「辛」が「幸」と言う字になることに気がつきました。
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by minitayori | 2016-10-06 20:20 | Trackback | Comments(0)

ムラサキシキブ

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 紫式部という名前の花に接したのは、ケアハウスの玄関近くにあった花壇の中だった。あまりきらびやかな花ではなかったが、花の下に書かれていた花名の札を見ていたく感心したものです。紫色の実がなん富む美しく感じたのを覚えている。最近近くのお庭でこの花を見つけた。やはり紫が美しかった。

by minitayori | 2016-10-06 20:06 | Trackback | Comments(0)