一輪だけの薔薇

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 ノウゼンカズラのにぎやかな花が散ってさみしくなった裏庭。今日秋晴れの朝、ベランダカラダから裏庭を見たら、いつの間にかピンクのバラが一輪咲いていました。弱弱しい感じが、なんともこれからの季節、秋のさみしさをあらわしていました。
 リルケの秋という詩の一部に
  すべては落ちる
 しかし、落ちる葉を、静かに受け止めてくれる人がいる。
という詩が心に残っています。花も葉も人も散ります、それを大きな愛をもって受け止めてくださる暖かい手があることを信じ、安らいでいたい。「見よ、世の終わりまで、わたしはあなた方と共にいる。」マタイ28章28節
 

by minitayori | 2016-10-15 11:33 | Trackback | Comments(0)

 みにたより273

 「みにたより273」
 最近「時間」というものが気になってきた。いろいろしなければならないこと、やっておかなければならないことが頭の中をめぐるだが、一日終わってみると、無駄な時間の多かったことに悲しくなる。
 昨日は、いつもはしない仕事をし始めて、説明書が見えなかったので眼鏡をはずして仕事をしていた。ひと段落して片づけた後、メガネをどこに置いたか忘れてしまった。
 後片づけをしておかないといけないと思い、きれいに片づけて出したものを収納して、散歩がてら郵便局まで歩いた。途中で世の中がかすんでいると思ったら眼鏡をかけていなかった。ポストに投函して帰ったまでは良かったが、メガネがないと何もできない。 
 前の夜からの自分の行動を思い出しながら、探し回ったが見つからない。結局は午後を物探しに終わらせてしまった。それでも、私はあきらめが早いので、いつかは出てくると思いなおして、今できることをしておこうとごそごそし始めていた。しかし、見つからないというのが気になり、何度も中断して探し始める。
 私の様子を挙動不審に思った家内が、共同で探すことを申し出てくれたが、手を出されると、私には必要だが家内には不要に見えるものが出てくるので、そこでひと悶着起きかねない。それで意地でも自分で探そうと思って、懐中電灯、拡大鏡といろいろ使って探したがどうしても見つからない。
 見かねた家内が入って来て、そこにあるのはメガネではないの?と言われて、みると探していた眼鏡だった。昼間、新しい仕事をして、後片付けをした時に箱の中に入れたままになっていたのだ。眼鏡の端の方が突き出ていたので見つかったのだ。これでまた頭が上がらなくなりそうだ。
 前日からの出来事を事細かに思いだしながら、後追いして探していたのに、今日の昼間にした仕事のことをすっかり忘れ、その時に眼鏡をはずし、なくならないように箱に入れておいたのを忘れていた。こういうのが健忘症、悪く言えば認知症の始まりだろうか。
 前に入居していたケアハウスの近くに咲いていた、ボケの花がきれいだったなーと、ふと思い出す。「私の人生の大半は物探し!」と嘆いていた、ケアハウスの友人を思い出します。

by minitayori | 2016-10-15 11:18 | Trackback | Comments(0)

コスモス

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 近くの道の真ん中
花壇にコスモスが咲いていた。多くはなかったが久しぶりの日光に当たってとてもうれしそうだった。長野にいた時、アルプスのふもとの休耕田にコスモスがいっぱい咲いていた。背の高さほどに伸びたコスモスはとてもたくましく思えた。都会の花は小さな場所にっ咲いていたせいか、少し肩身の狭い、円了しているように思えた。でもどんなところでも花は精いっぱい自分の花を咲かす。それが美しさのもとなのだろうか。

by minitayori | 2016-10-15 11:13 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて  10月16日 ルカ福音書18章1~8節

 10月16日 聖霊降臨後第22主日 ルカによる福音書18章1~8節
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◆「やもめと裁判官」のたとえ
18:1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。
18:2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。
18:3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。
18:4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。
18:5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」
18:6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。
18:7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
18:8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

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「礼拝に備えて」
 苦しい時の神頼み!と言う言葉があります。良くとるか、悪くとるか、一般的にはどうでしょうか。広辞苑を見ると「普段神を拝まないものが、災難にあったり困りぬいた時にだけ、神の助けを求めること。神に頼ること。」とありました。
 今日の日課の聖書はそのままの出来事を示しているように思えます。しかし、イエス様のおっしゃる視点は、少し視点が違うように思えます。答える側に力点が置かれているように思えますがどうでしょうか。
 やもめと不正な裁判官の例え。やもめが必死に願う願いを、門前払いをしていたが、あまりにうるさいので黙らせるために願いを聞いてやる裁判官です。ここでの裁判官を神様とすれば、苦しんで願う人の祈りに、神様は面倒だから聞いてやることになります。
しかし、イエス様は困った時の神頼みこそ、真実の祈りになるのだとおっしゃっているのではないでしょうか。私達は祈ります。自分の力で解決できない問題をもって、祈り願い、神を求める者にこそ、神様は喜んで迎え、答えてくださるのです。なぜでしょうか。それは、その人が神様の義と神様の国とを必死に求め、神様に従い、神様と共に生きたいと願っているからです。あなたの心を神様はみなご存知です。
私は、これまでの働きの中で、自分の教会員の写真を見ながら祈るようにしてきました。一人一人の悩みや悲しみを思いながら祈ります。
日曜日にその人が明るい顔で来ると嬉しくて、笑顔であいさつします。笑顔で来ると嬉しくなります。しばらく来ない人が来ると「よかった!」と思いまた嬉しくなります。それが牧会であると、私は若い時に宣教師から教えていただきました。当時は家の手伝いをしながら高校に通っていました。近くに教会はありません。一カ月に一回くらい日曜日が休みになると、一時間ほど電車に乗って、バスに乗り換えて教会に行きます。田舎では一時間に一本くらいの電車、バスの乗り換えでの教会通いです。
少し遅れて教会に着く私を、受付にいた初老のご婦人がいつも笑顔で迎えてくれました。聖壇にいた宣教師も笑顔で迎えてくれました。一カ月待ちに待った休み、教会に行けるのが嬉しくて仕方なかった私の心を慰め、喜びに変えてくれたのが信徒の方や宣教師の笑顔でした。その笑顔がそのままイエス様の笑顔に見えました。神様に迎えられていることを感じさせてくれました。
イエス様は、神様の愛を求める者を「ましてや神は・・」と言われ、喜んで願いを聞いてくださる方であることを教えてくださいました。委ねて生きましょう、安心して神様に願い、神様と共に生きて行ってください。
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by minitayori | 2016-10-15 11:06 | Trackback | Comments(0)

センニチコウ

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 散歩の途中で見た珍しい花だと思って写したが、名前がわからなかった。花や葉の形で似たものはあるが小さな図鑑ではなかなか一致しない。いくつか調べてみたが「センニチコウ」が一番近かったのでそうした。
 花は自分の名前を知らないし、名前がどうであれ自分の花を一生懸命咲かしている。正しい名前で呼んであげることが花を愛する者の責任と思うが、私には花を愛する資格がないのかもしれない

by minitayori | 2016-10-15 10:57 | Trackback | Comments(0)