白いハナミズキ

白いハナミズキ
公園の近くの家の庭に白いハナミズキがあった。清楚な感じが
気に入った。派手さはなかったが、そのままの美しさが見える。
彩らない美しさ、そんな生き方も必要なのかもしれない。

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by minitayori | 2018-04-14 21:56 | Trackback | Comments(0)

「みにたより367」

「みにたより367」

 幕末の闘士であったある方が、「わたしはこのため死が待っていようと、前向きに死にたい。」と言われた話を聞いたことがある。昔の言葉ではもっと迫力があったが今の言葉でしか思い出せない。しかし私もいつもこのことを心に留めてきた。先日、新しいリハビリの施設に移った。元気に歩けるように、と言うキャッチフレーズを見てすぐに申し込んだ。

 今までと同じように水曜日の午後3時間ほどの運動とリハビリが行われている。水曜日の午後は女性ばかりですがいいですか?と問われたが「結構です。」と申し込んだ。今週初めてのリハビリに行ってきました。早速隣に座ったご婦人に「お年は?」とお決まりの挨拶。79歳になりました、と言うと、「お若いわねー!」と言われてしまった。

 その方は92歳、ご主人が96歳で病気がち、と早速グチから始まり、自分の体調の説明が始まった。黙って聞いているだけだが、心の中にあることを誰かにはけ出したいのだなーと思ったが、これが毎週続いたら、歩ける元気が出来ても大変だと思った。

 でも帰りにそのご婦人が嬉しそうに手を振って帰って行ったのを見て、何かのお役に立ったのかなーと多少気持ちが和らいだ。みんなどこかで助け合いながら生きている。話すのも聴くのも助け合いの一つと思いながら帰って来た。

 元気に歩けるようになった? 一回では無理ですね。帰って足が重くなりました。外に出て歩くエネルギーを作らないと。近くの好きな菓子パンを売っている所があるので、時々歩くが、そうは毎日行けないですね。でも途中に公園があって、シルバー玩具が設置してある。階段上りや腕をまわして肩を柔らかくする簡単なものだが、時々利用している。

 先日はその公園の中に『花水木』の気があるのを見つけ、写真に写して来た。強風の日であまりきれいに映っていないが、見上げながら写真を構えるのもリハビリの一つと思い頑張っている。いすに座って子供の砂遊びの姿もほほえましい。ただあまり見ていると「変なおじさんが見ている。」と思われてもいけないので、怪しまれないうちに退散してきた。紙芝居屋さんにでもなって、子供たちと話ができるといいな―とも思ったりしながら帰ってきました。

  

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by minitayori | 2018-04-14 21:49 | Trackback | Comments(0)

ハナミズキ

ハナミズキ
近くの公園で見たハナミズキの花。
ピンクが青空に映えて美しかった。
確か池袋の教会までの街路樹がハナミズキ。
白色がきれい。明日が楽しみです。
風で散らなければよいが。

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by minitayori | 2018-04-14 21:38 | Trackback | Comments(0)

4月15日「礼拝に備えて」 ヨハネ福音書21章1-14節

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4月15日「礼拝に備えて」 ヨハネによる福音書21章1-14

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◆イエス、七人の弟子に現れる

21:1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。

21:2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。

21:3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。 21:4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。 21:5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。 21:6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。

21:7 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。

21:8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。

21:9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。21:10 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。

21:11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。

21:12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。 21:13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。21:14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

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「礼拝に備えて」


 40年にわたる牧師生活の中で、私はどれほどの人に助けられたであろうか。信徒の人々の中には、体力的に弱ってきたご高齢の方もいたし、神学者もいれば、社会的に第一線で活躍している人々もいた。どの人も私にとっては神様のみ心を教えてくれた教師であったと思っている。間違いを正してくれた人もいれば、弱気になった私を励ましてくれた人もいた。細かい事をうるさいほどに注意したり、不満として行ってくる人もいた。皆私の欠け足る所を補おうとして善意で接してくれると感謝してお付き合いしているうちに、本当の信仰の友人になって行った。高齢者の人々の生活苦や日々の苦悩を知ることは、イエス様ならこの人にどのようなお話をするだろうか。どのように受け止められるだろうかと考える一かけとなった。実際聖書の中でお話しされるイエス様の前には、「人」がいました。いろいろな心の苦しみを持って菜やm人が。その人々に語るイエス様の声、眼差し、動作などいつも考えた。


 聖書を読んでいると今イエス様の前にいる人、イエス様に語りかけている人の状態を知らなければ、お話の内容が分からない、理解できないと思うこともしばしばあった。今日の日課で復活されたイエス様に出会った人々がどんな状態にあったか考えてみよう。 全てを捨ててイエス様に従った漁師たちが、全てをゆだねたイエス様に死なれてどんなに絶望していただろうか。漁に出ても何もとれない。一晩中網を下ろして何も取れなかった。その虚しさはいかばかりか想像がつく。その弟子達に寄り添われたイエス様は虚しさのすべてを満たしてくださった。大量の魚、一緒の食事、弟子たちがどんなに心安らげたか・・。人生の虚しさ、今日の虚しさ、今の寂しさをイエス様は共に居てくださり、必ず励ましてくださいます。信じて、元気を出そう!


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by minitayori | 2018-04-14 21:33 | Trackback | Comments(0)

サツキツツジ

サツキツツジ
裏庭が急に明るくなったと思ったらつつじが咲いていた。
辞典を見たら「サツキツツジ」とありました。別物かと
思っていたのですが、緑と真っ赤な花が血手もきれいです

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by minitayori | 2018-04-14 21:03 | Trackback | Comments(0)

4月8日 礼拝に備えて マルコ福音書16章9-18節

48日 マルコによる福音書16章9-18

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◆マグダラのマリアに現れる

16:9 〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。:10 マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。:11 しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。 16:12 その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。:13 この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。16:14 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。:15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。:16 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。:17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る:18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

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「礼拝に備えて」

 イエス様の復活は、最初に婦人たちに現われた。この婦人は、マグダラノマリアと言って7つの悪霊を追い出していただいた婦人であったと記されている。人は自分の無力さや醜さを知る時に謙虚になると言われる。確かに健康で得意の絶頂にある人は素直に信仰に入ることは出来ないようだ。

 もちろん例外もある。私の最初の教会の役員の中に東京大学の物理の先生がいた。一番信仰に縁遠いようなお方だったが、そのことをある時尋ねた。先生は当たり前のように、神様のなさることは人の思いを超えているのが当たり前。神様を信じると言う事は、全てを受け入れること。人の知恵で選別することではない、とお話された。私は牧師として働いていた時、いつもこの言葉を心の片隅に置いて、自分もそうあるようにと心がけてきた。神様のなさることは人の思いを超えて素晴らしい!この信仰に立つためにはどうしたらよいだろうかとも思った。今日の日課で復活のイエス様はマグダラのマリアにあらっ割れた。7つの悪霊に取りつかれて苦しい中でイエス様に出会い、自分も神様に愛されている事を知った人だった。イエス様は山上の説教の中で「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は幸いである。その人は慰められる。」と教えられた。

 マリアもそうだった。「蔑まれていた自分をイエス様は神様の愛する子として迎えてくれた。」その感謝の思いが、何の疑いもなく復活の主、私のために復活して、今そばに来てくださった、その喜びで満たされた。エルサレムから離れて、田舎に帰って行こうとした弟子がいた。主がいなくなった事の悲しさはこれの心を満たしていた。自分に自信もなくしていたろう。だからこそ失意の中で出合った復活のイエス様との出会いが嬉しかった。恐れていたエルサレムに戻り、他の弟子達に主の復活を伝える気になったのだろう。

 こうして教会は弱さを知る者がイエス様と出会う事。神様のお心尾を知る喜びから始まった。これが教会の初めであった。私自身もこのようでありたい。
*前回、アップ失敗の礼拝に備えてです。お詫びしつつ。


by minitayori | 2018-04-14 10:18 | Trackback | Comments(0)