白いハナミズキ

白いハナミズキ
公園の近くの家の庭に白いハナミズキがあった。清楚な感じが
気に入った。派手さはなかったが、そのままの美しさが見える。
彩らない美しさ、そんな生き方も必要なのかもしれない。

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# by minitayori | 2018-04-14 21:56 | Trackback | Comments(0)

「みにたより367」

「みにたより367」

 幕末の闘士であったある方が、「わたしはこのため死が待っていようと、前向きに死にたい。」と言われた話を聞いたことがある。昔の言葉ではもっと迫力があったが今の言葉でしか思い出せない。しかし私もいつもこのことを心に留めてきた。先日、新しいリハビリの施設に移った。元気に歩けるように、と言うキャッチフレーズを見てすぐに申し込んだ。

 今までと同じように水曜日の午後3時間ほどの運動とリハビリが行われている。水曜日の午後は女性ばかりですがいいですか?と問われたが「結構です。」と申し込んだ。今週初めてのリハビリに行ってきました。早速隣に座ったご婦人に「お年は?」とお決まりの挨拶。79歳になりました、と言うと、「お若いわねー!」と言われてしまった。

 その方は92歳、ご主人が96歳で病気がち、と早速グチから始まり、自分の体調の説明が始まった。黙って聞いているだけだが、心の中にあることを誰かにはけ出したいのだなーと思ったが、これが毎週続いたら、歩ける元気が出来ても大変だと思った。

 でも帰りにそのご婦人が嬉しそうに手を振って帰って行ったのを見て、何かのお役に立ったのかなーと多少気持ちが和らいだ。みんなどこかで助け合いながら生きている。話すのも聴くのも助け合いの一つと思いながら帰って来た。

 元気に歩けるようになった? 一回では無理ですね。帰って足が重くなりました。外に出て歩くエネルギーを作らないと。近くの好きな菓子パンを売っている所があるので、時々歩くが、そうは毎日行けないですね。でも途中に公園があって、シルバー玩具が設置してある。階段上りや腕をまわして肩を柔らかくする簡単なものだが、時々利用している。

 先日はその公園の中に『花水木』の気があるのを見つけ、写真に写して来た。強風の日であまりきれいに映っていないが、見上げながら写真を構えるのもリハビリの一つと思い頑張っている。いすに座って子供の砂遊びの姿もほほえましい。ただあまり見ていると「変なおじさんが見ている。」と思われてもいけないので、怪しまれないうちに退散してきた。紙芝居屋さんにでもなって、子供たちと話ができるといいな―とも思ったりしながら帰ってきました。

  

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# by minitayori | 2018-04-14 21:49 | Trackback | Comments(0)

ハナミズキ

ハナミズキ
近くの公園で見たハナミズキの花。
ピンクが青空に映えて美しかった。
確か池袋の教会までの街路樹がハナミズキ。
白色がきれい。明日が楽しみです。
風で散らなければよいが。

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# by minitayori | 2018-04-14 21:38 | Trackback | Comments(0)

4月15日「礼拝に備えて」 ヨハネ福音書21章1-14節

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4月15日「礼拝に備えて」 ヨハネによる福音書21章1-14

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◆イエス、七人の弟子に現れる

21:1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。

21:2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。

21:3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。 21:4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。 21:5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。 21:6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。

21:7 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。

21:8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。

21:9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。21:10 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。

21:11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。

21:12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。 21:13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。21:14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

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「礼拝に備えて」


 40年にわたる牧師生活の中で、私はどれほどの人に助けられたであろうか。信徒の人々の中には、体力的に弱ってきたご高齢の方もいたし、神学者もいれば、社会的に第一線で活躍している人々もいた。どの人も私にとっては神様のみ心を教えてくれた教師であったと思っている。間違いを正してくれた人もいれば、弱気になった私を励ましてくれた人もいた。細かい事をうるさいほどに注意したり、不満として行ってくる人もいた。皆私の欠け足る所を補おうとして善意で接してくれると感謝してお付き合いしているうちに、本当の信仰の友人になって行った。高齢者の人々の生活苦や日々の苦悩を知ることは、イエス様ならこの人にどのようなお話をするだろうか。どのように受け止められるだろうかと考える一かけとなった。実際聖書の中でお話しされるイエス様の前には、「人」がいました。いろいろな心の苦しみを持って菜やm人が。その人々に語るイエス様の声、眼差し、動作などいつも考えた。


 聖書を読んでいると今イエス様の前にいる人、イエス様に語りかけている人の状態を知らなければ、お話の内容が分からない、理解できないと思うこともしばしばあった。今日の日課で復活されたイエス様に出会った人々がどんな状態にあったか考えてみよう。 全てを捨ててイエス様に従った漁師たちが、全てをゆだねたイエス様に死なれてどんなに絶望していただろうか。漁に出ても何もとれない。一晩中網を下ろして何も取れなかった。その虚しさはいかばかりか想像がつく。その弟子達に寄り添われたイエス様は虚しさのすべてを満たしてくださった。大量の魚、一緒の食事、弟子たちがどんなに心安らげたか・・。人生の虚しさ、今日の虚しさ、今の寂しさをイエス様は共に居てくださり、必ず励ましてくださいます。信じて、元気を出そう!


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# by minitayori | 2018-04-14 21:33 | Trackback | Comments(0)

サツキツツジ

サツキツツジ
裏庭が急に明るくなったと思ったらつつじが咲いていた。
辞典を見たら「サツキツツジ」とありました。別物かと
思っていたのですが、緑と真っ赤な花が血手もきれいです

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# by minitayori | 2018-04-14 21:03 | Trackback | Comments(0)

4月8日 礼拝に備えて マルコ福音書16章9-18節

48日 マルコによる福音書16章9-18

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◆マグダラのマリアに現れる

16:9 〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。:10 マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。:11 しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。 16:12 その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。:13 この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。16:14 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。:15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。:16 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。:17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る:18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

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「礼拝に備えて」

 イエス様の復活は、最初に婦人たちに現われた。この婦人は、マグダラノマリアと言って7つの悪霊を追い出していただいた婦人であったと記されている。人は自分の無力さや醜さを知る時に謙虚になると言われる。確かに健康で得意の絶頂にある人は素直に信仰に入ることは出来ないようだ。

 もちろん例外もある。私の最初の教会の役員の中に東京大学の物理の先生がいた。一番信仰に縁遠いようなお方だったが、そのことをある時尋ねた。先生は当たり前のように、神様のなさることは人の思いを超えているのが当たり前。神様を信じると言う事は、全てを受け入れること。人の知恵で選別することではない、とお話された。私は牧師として働いていた時、いつもこの言葉を心の片隅に置いて、自分もそうあるようにと心がけてきた。神様のなさることは人の思いを超えて素晴らしい!この信仰に立つためにはどうしたらよいだろうかとも思った。今日の日課で復活のイエス様はマグダラのマリアにあらっ割れた。7つの悪霊に取りつかれて苦しい中でイエス様に出会い、自分も神様に愛されている事を知った人だった。イエス様は山上の説教の中で「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は幸いである。その人は慰められる。」と教えられた。

 マリアもそうだった。「蔑まれていた自分をイエス様は神様の愛する子として迎えてくれた。」その感謝の思いが、何の疑いもなく復活の主、私のために復活して、今そばに来てくださった、その喜びで満たされた。エルサレムから離れて、田舎に帰って行こうとした弟子がいた。主がいなくなった事の悲しさはこれの心を満たしていた。自分に自信もなくしていたろう。だからこそ失意の中で出合った復活のイエス様との出会いが嬉しかった。恐れていたエルサレムに戻り、他の弟子達に主の復活を伝える気になったのだろう。

 こうして教会は弱さを知る者がイエス様と出会う事。神様のお心尾を知る喜びから始まった。これが教会の初めであった。私自身もこのようでありたい。
*前回、アップ失敗の礼拝に備えてです。お詫びしつつ。


# by minitayori | 2018-04-14 10:18 | Trackback | Comments(0)

チューリップ

チューリップ
色とりどりのチューリップが道路側の小さな花壇に咲いていた。
赤があり紫があり、青があった。白も。
みんな違ってみんないい。一生懸命咲いているから。

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# by minitayori | 2018-04-07 22:25 | Trackback | Comments(0)

「みにたより366」

「みにたより366」

 友行きぬ!思いがけないほどに虚脱感に見舞われた。次の週は病院検診の日で出かけた。金曜日は呼吸器科で肺の検診。次の週の月曜は難病からくる眼科の検診。大きな異常は見つからなかったが、両先生からお疲れですか>と問われた。答える言葉もなかったが「はあ」と答えて帰って来た。

 病院の窓から見た桜が満開で、カメラを持って来なかったことが悔やまれた。4月に入って昨日は再度呼吸器科の検診。猛烈な台風並みの風が駅周辺を吹き荒れていて、倒れそうになった。

 前回、満開であった桜は全部散ってしまい新緑の葉で覆われていた。散る花があり、新しく芽が出る葉がある。移り変わりの早さ。これも神様のみ手の中。帰り強風で使用禁止になっていた地下鉄の出口のエレベーターの下で赤ちゃんを乳母車に乗せたお母さんが困っていた。折りたたんだ乳母車を持ちましょうかと声をかけると、おじいさんこそ風で危ないから、と断られた。

見るに忍びない状態だったが後ろから来た青年が荷物と乳母車をひょいと担いで階段を上っておった。吹き込む風に必死で登っている自分の姿とあまりにも対照的で、全てに時があることを痛感したひと時だった。でも嬉しい光景だった。e0191585_22113025.gif



# by minitayori | 2018-04-07 22:14 | Trackback | Comments(0)

菜の花

菜の花
道端に咲いていた菜の花。春を告げてくれたが、
どこから着たのだろうか。慰めてくれっる為に!


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# by minitayori | 2018-04-07 22:02 | Trackback | Comments(0)

クリスマスローズ

クリスマスローズ
長女が金婚式の祝いに大切な鉢植えから
花束を作って届けてくれました。

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# by minitayori | 2018-04-07 21:45 | Trackback | Comments(0)

キリエ「復活の朝」

復活の朝
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墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
        マルコによる福音書16章1~8節より 作 小嶋



# by minitayori | 2018-03-31 22:29 | Trackback | Comments(0)

「みにたより365」

「みにたより365」

 先週はお葬儀の準備で心身ともに緊張と疲労でブログの準備ができませんでした。老いの現実の厳しさを痛感した一週間でした。この2月の20日は79歳の誕生。娘や孫の手作りのプレゼントや、会食もしたが、心ここにあらずで過ごしてしまった。

 次の日曜日(41)は結婚50年の記念の日、この日も疲れてしまうだろうから、お菓子でも買ってきて、ささやかに健康で今日を迎えられたことを祝おうと思っている。でも、やはり敬愛する友ご夫妻の葬儀を行い、み国に送って二人で再会を祝っているだろう、とそのことが、残された者の寂しさと共に、心のどこかでほのかな暖かさを感じる。

 葬儀が終わって、疲れ切った月曜日、近くの団地の桜並木がきれいだと娘に聞いて見に行った。満開の桜は散り始めたが、新録の葉がもう出始めていた。かなりの老木もあり、電線にかかったのか上の方が切り取られた桜の木もあったが、満開の桜はきれいだった。

 満開の花あり、散る花びらあり、新緑の葉もあり、人生のように感じた。友人はウイーンで最初の国立歌劇場の専属歌手となり、第一線で活躍された。高齢んなられた母親のために日本での活躍を決断し、東京、そして藤沢に居を構えて活躍。小石川教会に転入され、何度もチャリティーコンサートをしてくださった。

 飯田に転任すると、飯田にも何度か来てくださり、熊本に転任したら、また多忙の中、予定を作ってくださって来熊。演奏会をしてくださり、次の日に帰京、体調の異変を感じ精密検査をしたら、進行性大腸がんと診断され、余命宣告もされた。

 私はこの友人とは祈りにおいての強いきずなで結ばれた。桜並木を歩きながら、その日々を思い出していた。15年の間、繰り返し手術をしながら病気と闘いながらコンサートを開催し続けた。昨年の月には、また再発、50周年記念のコンサートをぜひとも開催すると決断され、再発した病巣をそのまま、痛みどめで舞台に立たれた。

 召される前日、完成した50周年記念のCDを初めて聞き、笑顔でよし!とうなずいて眠りにつかれた。そのまま誰にもみとられることなく旅立たれたという。

桜の老木の下に立ち、ひらひらと舞い来る花びらに打たれながら、この花も神様に託された最高の花を咲かせ、散ってきたのだろう、と手のひらにそっと受け止め、立ちつくしていた。

 新緑の葉が、棺を囲んでいたお弟子さん≪門下生)たちに思えた。きっと来年も新しい花が咲くだろう。

懸命に咲く花だからこそ美しく、自分の花としていとおしい。

私の中には他人の花は咲かない。

そよ風に散る花でも、一生懸命咲こうとする。

私の花だから、どんなに弱くても懸命に咲く花だから美しい。

そんな花を、私は飾りたい。

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# by minitayori | 2018-03-31 22:12 | Trackback | Comments(0)

満開の桜花の中に新緑の若葉も

新緑の若葉も
きれいに咲いた桜の花が、桜吹雪になり始めていたが、新しい
命を告げるように、若葉が見えた。復活の希望でしょうか。

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# by minitayori | 2018-03-31 21:59 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 復活日 4月1日 マルコ16章1~8節

41日 マルコによる福音書16章1~8

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16:1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。:2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。:3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。

16:4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。:5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。

16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

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「礼拝に備えて」

 今年も復活日に、悲しくも良い思いでが加わった。3月の半ばに敬愛する友人が病床で、会いたいと電話があった。16回目の手術を行ったあとで心配をしていた。古くからの教会の友人が車で送迎を申し出ていただき、安全な最寄りの駅から送迎をしてくださった。

 敬愛する友人は、病床に横たわっていたが、思いのほかしっかりした声でお話が出来、両手を握り合ったままでしばらく話していた。教会の友人と共に病床聖餐を行い、祈りをして別れた、「先生、天国でまた会えますよね!先に召された主人にも会えますよね。」

 今まで何度となく尋ねられた質問だった。「これはイエス様のお約束、神様のお約束ですから・・。」私にはどんなところか分かりませんが、そこでは神様が一緒にいてくださり、私達の涙を全て拭い去ってくださる(黙示録21章)のお約束を話し、イエス様がお約束してくださったことですから、必ず「また会いましょう!」と力ずよく手を握り合って別れた。「また会いましょう!」

 その約束は、私には近いうちに病院で会いたいと言う意味が強かったが、それから何日かすぎて、その方は11月に行われた50周年記念コンサートの自分の歌声を全曲聴いて、満足して眠りに着き、そのまま召されていった。

 日本を代表するオペラ歌手であったその方は、「私の事、話してね!」と後のことを託してくださった。私の第一号の洗礼者は父であり、79歳になって、最後に友人を送ると言う機会が与えられた。

 最後になるであろう敬愛する友人の葬儀。寂しいけれど不思議にかなしくなかった。「また会いましょう!」と言う言葉を心の中で繰り返しながら・・

次の日曜日はイエス様の復活日の記念礼拝。イエス様の復活の故に、別れが希望に代わる。その喜びを確認する礼拝にしたい。

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# by minitayori | 2018-03-31 21:53 | Trackback | Comments(0)

桜並木

桜並木
自宅から8分ほどのところにある団地の通路の桜並木。
古木が多くて昨年より私の桜見物の場になりました。
夜桜が見えないのが残念。

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# by minitayori | 2018-03-31 21:32 | Trackback | Comments(0)

桜開花

桜開花
青い空に桜、この日東京の桜の開花宣言がなされた。
基準はソメイヨシノという桜で公園の桜の木に咲いた
花の数によって宣言するのだそうだ。花見はここで
充分だ。この花の美しさはこの花だけの美しさだから。
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# by minitayori | 2018-03-17 21:29 | Trackback | Comments(0)

「みにたより363」

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現代という時代は、汗して人のために奉仕するということを嫌う時代になってしまった。自分が損をすることは何一つしないという考え方が、人々の心に蔓延してきていると嘆いた人がいます。「奉仕」とか、「奉仕的」とかいう言葉を聞いただけでも、鼻先で笑う人が多い今の世の中です。

しかし、不思議なことに私たちの心には、他を愛することを喜び、他を喜ばすことができたとき、ほのかな心のぬくもりとを、感じるものです。近年起こった菜災害地に入り、ボランティアをした青年たちが、すがすがしい笑顔で喜んで報告していました。これは私たちに与えられた神の恵みであると思います。

 ある少女が、富士の裾野にある病院に入院することになりました。はじめて自分の病名を知った少女の驚きと絶望は、どんなであったでしょう。彼女は自死の誘惑と戦う日々が続きました。ある時、病院を訪問した牧師さんからもらったー冊の聖書を、少女は一生懸命に読みました。そして2年。少女はイエス様の十字架の愛を知り、その愛に包まれている自分を知り、イエス様をを信じるようになりました。

 そんなある日のこと、再診で少女は誤診であったことが判明したのです。少女の心境はどんなでしたでしょう。彼女はこの間の経験を決して無駄にしませんでした。退院した彼女は、東京に出て2年間、看護婦養成所で勉強し、看護婦の資格を得ました。そして自分の家にではなく、自分がもと入院していた病院に看護婦として帰って行ったのです。そして70歳の高齢で死ぬまで、そのー生を病者の杖、病院の柱となって、奉仕の生活を生き抜いたのです。

 私たちももっとゆとりをもって、人々のために奉仕のできる人間、キリストのために愛を担って、奉仕のできる人間になりたいものです。いや、自分自身の心の喜びに正直に生きる人となりたいものです。この時代は、そういう人間を求めていると思うのです。

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# by minitayori | 2018-03-17 21:19 | Trackback | Comments(0)

花壇の黄色水仙

花壇の黄色水仙
裏に庭に桜、表には白と黄色のスイセンが咲いていた。こんなに近くに
美しい花があるのを見落としていた。神様の恵みも身近にあるが見落とし
てしまうことが多い。いや神様に目を向けるのを忘れているからだろう

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# by minitayori | 2018-03-17 21:09 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 3月18日 受難節第5主日 ヨハネ12章36-50節

318日 受難節第5主日 ヨハネ福音書1236-50
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12:36 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」

12:44 イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。 12:45 わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。

12:46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。

12:47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。


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「礼拝に備えて」


 「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」イエス様の十字架の時が間近になって、イエス様のみ言が燃えるような情熱が加わってきました。そのイエス様のお心は、私達が神様の命、永遠の命に至ることを願っての思いです。


 特に今日の日課で「12:47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」とのみ言が木になりました。み言を聞いても守れないことが多い人であっても、イエス様は「その者を裁かない。」と言われました。


 イエス様のお心は、ひたすら、全ての人、そしてあなたへの愛であり、私への愛であることをおっしゃりたいのです。その実現のためにイエス様はひたすら十字架の道を歩まれます。裏切りの弟子達と共に、あざける人々のとの中を、子ロバに乗って歩まれるイエス様。その先に待っている十字架の苦しみをしっかりと見つめて進まれる。


 その人々の中に自分の姿を見出し、心が痛む。昔、青年の頃、何人かの仲間と一緒に当時はやっていたゴスペルソングを歌った。その中に「ドロロッサ=悲しみの道」と言う歌があったのを思いだした。歌いつつ心に熱いものを感じたものです。


改めてこの歌の本を見つけ歌ってみた。イエス様のお心を思うと涙を禁じえない思いがする。あの時の純粋な思いが今も残っていたのか、それとも老いて涙もろくなったのか。私達へのイエス様の思い、しっかりと受け止めたい。



# by minitayori | 2018-03-17 21:04 | Trackback | Comments(0)

裏庭の桜

裏庭の桜
このアパートに来て4年になるが、初めて裏庭にある桜の花に
気がついた。ベランダにある桜花、青空にきれいだった。

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# by minitayori | 2018-03-17 20:52 | Trackback | Comments(0)

3月4日の池袋教会の聖壇

3月4日の池袋教会の聖壇
今は受難節、イエス様の十字架の苦しみを覚えて紫の聖壇布。
鞭打たれ傷だらけの体に紫の衣が掛けられ「ユダヤ人の王」と
ののしられたイエス様の苦しみ。それは私のため、あなたのため。

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# by minitayori | 2018-03-10 17:50 | Trackback | Comments(0)

「みにたより361」

「みにたより361」

 先週は途中まで書きはじめたら、目が見えなくなってしまった。パソコンは白黒反転にしてやっと見えるのだが、それでも大切なキーボードが見えなくなって、さすがに中止しました。

 楽しみにしてくれている友人や見も知らぬ多くの方々には申し訳なかったが、休ませてもらった。その一言だけでも載せておけばよかったのですが、それさえできなかった自分の気力のなさに、いささか限界を感じつつ一週間を過ごした。

 それでも日曜日の聖餐補助のご奉仕をさせていただき、夜には若い牧師の按手式に参加した。私の最後の任地の熊本の教会学校で育った青年が按手を受けた。一緒に教会生活をした好青年がまぶしいほど立派に成長していた。

 体力の限界を感じていたのでお祝いの会には出られなかった。一言も声もかけずに失礼してしまったが、赦してもらいたい。今も元気に働く後輩の牧師たち。杖をつきながらよたよた歩く老いた自分。でも精一杯働いてきたのだから、と胸を張って挨拶をしてきた。

 帰りは新大久保駅までの道のりが、日本ではないような街並みと若者がたむろしているので、タクシーで池袋に出て帰って来た。池袋の駅構内がまぶしくて、乗る電車の場所が分からなくなりそうになったりしたが、とにかく無事に我が家に辿り着いた。
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 これが今の自分であることを受け入れつつ、日々感謝で生きたいと改めて思った。なかなかむつかしい事であるとは思うが。


# by minitayori | 2018-03-10 17:35 | Trackback | Comments(0)

花キャベツ

花キャベツ?
梅と桜の花を探して帰ってきたら、アパートの小さな花壇の片隅に
白や黄色のスイセンの花に交じって一輪の紫の花が目についた。
花キャベツのようだが、他の花に負けない美しさだった。
自分の精いっぱいの花を咲かしているから美しいのだろう。

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# by minitayori | 2018-03-10 17:27 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 3月11日


311日 ヨハネによる福音書313-21

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3:13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。:15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。


3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。


3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。「3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」このみ言の中に集約されている。

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礼拝に備えて」

 イエス様がこの世に来られた目的は、神様のみ心を実現するためであった。旧約聖書の初めにはじめに言がった、と書かれ、言=神様の御心が、イエス様を通してこの世に実現することを願われた。それがヨハネの書き方であり、目的であった。

 み言とは神様のお心そのものであり、それは「「3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

 イエス様はゲッセマネの園で十字架にかかる前の夜、血の汗を滴らせながら祈られたことを思いだしたい。「イエス様は苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように苦しみつつ、『父よ、み心ならこの杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく御心のままに行ってください。』と祈られた。神様の御心を行う事、それはイエス様の十字架であり、文字通りイエス様は十字架で苦しみ、命を捧げられた。あなたや私に永遠の神様の清い命を与えるために。

 そのみ言は教会に託されている。今も教会を通して、いや私達を通して神様の愛は伝えられなければならない。

弟子たちはこの祈りの間、寝っていたと記される。この弟子たちの姿はもしかしたら今の教会のことであり、私達のことではないだろうか。神様の切実な人々への愛の強さ伝えるためにイエス様は十字架にかかられた。私達は今何をしているのだろうか。家族や友人のために血の汗を滴らせるほどに懸命に生き、祈っているだろうか。

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 今の時期、受難節はこのことを思い起こすために備えられている時ではないであるか。まずは、これほどに神様に愛されている自分を知ってほしい。そして感謝しつつ、今日の命を大切に生きて欲しい。自らへの命への感謝と他者の魂の救いのために祈りつつ!


# by minitayori | 2018-03-10 17:08 | Trackback | Comments(0)

しだれ梅

白 梅
アパートの敷地の中にあるしだれ梅の花が満開になった。
白が清楚な感じがした。ふと思った私の色はどんな色かと。

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# by minitayori | 2018-03-10 16:54 | Trackback | Comments(0)

18日の池袋教会の聖壇の花

18日の池袋教会の聖壇の花
紫は苦難を表す色。この日から受難節が始まった。

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# by minitayori | 2018-02-24 21:41 | Trackback | Comments(0)

「みにたより360」

「みにたより360」
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 久しぶりの小春日和で、近くをカメラを持って歩いてみた。自然は正直だ、この春の暖かさで梅の花と桜の花が咲いているのを見つけた。正直私の眼には梅と桜の区別は分からない。ただカメラに頼るしかない。

 最近何人かの友人にメールをしたのだが、うっかり送信を押してから、変換ミスでとんでもない文字になっていて、恥ずかしい限りだ。このような文章を書くときには、後で確認することが出来るので何とか間違いを直しているが、それでも書いている時とブログに送った後では違うようで、後で何度も編集し直して、間違いを最小限に抑えているのだが・・。

 老いの坂は降るのか登るのか、と言うなぞなぞの文章を見つけた。面白いと思ったが、自分としてはなんと答えようかと思った。

老いと言うのは弱くなると言う意味にもなるが、豊かな経験を持つという意味でもあるはずだ。しかし、世の中では、老いは働きが出来ないと言う意味にもなる。人生100年時代と言われるが、100年を何を目的に生きたらよいのか分からない。

 しかし、私は信仰に置いて、老いの坂は登るものだと思いたい。新しい天地。神様が待っていてくださる天に向かい、苦しみも悲しみもない、私の涙をぬぐいさって下さる方のみもとに憩う、その様な場所に向かって登ってゆく、それがイエス様にある信仰の生き方であると思っている。

日々、「見よ世の終わりまで、いつもあなたと共にいる。」と言われたイエス様と共に、天に向かって登る道を、意気揚々と進んでいきたい。このように感じるのは、老いてきたせいかもしれないが、日々を楽しみ、希望を持って生きたいものです。e0191585_21224247.gif



# by minitayori | 2018-02-24 21:25 | Trackback | Comments(0)

紅梅

紅梅
近くの日当たりのよい駐車場に咲いていた紅梅。
青空に誇らしげに咲いていた。桜かな?とも思ったが・

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# by minitayori | 2018-02-24 21:18 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 2月25日 マルコによる福音書10章33-45節

225日 四旬節第2主日 マルコによる福音書1033-45
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10:33 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。 10:34 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

◆ヤコブとヨハネの願い

10:35 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」

10:36 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、

10:37 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」

10:38 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」

10:39 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。 10:40 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」

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「礼拝に備えて」


 イエス様は今私達の救いのために十字架への道を歩み始める決意を弟子たちに伝えています。しかし、弟子たちは主の決意よりも自分達の願いを優先して期待しています。


『イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、:37 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」』これが弟子たちの気持ち、いや今の私達の気持ではないだろうか。イエス様が弟子達と今の私達に問いかけているのは、10:38 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」と言う言葉ではないか。

イエス様は私達が受ける杯(十字架)を負う事が出来るか、と問われた。自分の十字架を負えるのだろうか、と自問してしまう。

しかし、イエス様の十字架はイエス様に与えられた神様のみ旨。私には教会には、あなたにはあなただけに与えられたみ旨、十字架がある。神様の愛のみ旨を行うと言う使命。そのために命をかけると言う事ではないだろうか。

 教会が信徒が、イエス様を通して示される「神様の愛=み心」を委ねられた十字架として負う覚悟がなければ、教会は命を失い、力を失ってしまうだろう。
 しかし。教会に預けられている十字架による神様の愛は決して力を失う事はないし、輝きを失いうこともない。私はそのことを信じ、老いても神様の愛に輝く生き生きした教会になることを願い続けている。

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# by minitayori | 2018-02-24 21:12 | Trackback | Comments(0)

しだれ梅

しだれ梅
アパートの裏にあるしだれ梅の木に花が咲いていた。
5分咲きかな。日のあたりが悪いのか、いまひとつかな。でもやっと春が来た。

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# by minitayori | 2018-02-24 20:57 | Trackback | Comments(0)