「ミニタヨリ211」

「ミニタヨリ211」
老いの苦悩を背負い、ここ数カ月は痛みと孤独と闘いながら生きてきた、ケアハウスの97歳の友人が天に召された。一か月前にケアハウスで語り合い、入院する前に手紙で、痛みと食欲不振、寝られない辛さを訴えてきた友人。
ケアハウスで隣室であり、親しくしていただいた。兄のようであり、年齢的には父に当たる方だった。昨年、私達がケアハウスを都合で退所することになった時、寂しいと呟かれた。
それからブログを送り続け、手紙を送り続けて、時に電話して、お互いの健康を気遣いあってきた。最後にいただいたはがきは、満開のカンナの花の絵ハガキだった。
退所の時に、胡蝶蘭がなくなるのが寂しいと言われたので、一鉢置いてきた。上手に育ててくれ、2月から咲き、5月に訪問した時には一緒に写真を撮ってきた。
私の家にも3鉢あるが、日当たりが変わってしまって、今年は咲かないかと思っていたが、3月に南向きの部屋に移動してから花芽がつき成長していた。そしてこの友人が召される前日一つ花が咲いた。この花は、めしべおしべの形が丁度、天使が両手を広げているように見える。それを見つけたのは、この友人だった。
もともとこの花を私達にプレゼントしてくれたのは、私がかつていた教会の、大切な敬愛する友人。病気がちの中、持参してくださった。天使の話を聞いてから、私はこの花を祈りの花、と名付けてこの友人の健康のために祈り続けてきた。
97歳で逝去された友人もこのことを知っていて、一緒に祈りに心を合わせてくれた。間もなく手術をなさるこの友人に、この長寿の友人の祈りが通じ、手術が成功して、これからも尊いお仕事ができるように、改めて祈っている。
 命は神様が与えるもの。今日生きていることは神様のみ旨の中にあるしるしと思っている。私自身にも、そしてあなたにも生きる大切な意味がある。あなたを必要としている神様のお心を知って感謝と喜びを持って生きて欲しい。



     悲しくて花を見れば 
     星野富弘さん詩 
 花は共に悲しみ
 うれしくて花を見れば
 花も共に喜ぶ
 心荒れた日に
 花を見れば
 花は静かに咲く。


by minitayori | 2015-06-13 21:43 | Trackback | Comments(0)

雨にぬれたアジサイ

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 私のアパートの裏庭に咲いていたアジサイ。霧雨に濡れて、雨の露が塊になって花や葉についていた。きれいな宝石のようでした。

by minitayori | 2015-06-13 21:08 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 6月14日  聖霊降臨後第3主日

6月14日  聖霊降臨後第3主日
                              マルコ2:18-22  断食についての問答
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2:18 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」 2:19 イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。2:20 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。 2:21 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。
2:22 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

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「礼拝に備えて」
 今日の日課には、ユダヤ教の人々が大切にしている「断食について」のイエス様のお考えが記されています。
 断食は旧約聖書レビ記16章を見ると、その由来と目的が記されています。
レビ記16章
16:30 なぜなら、この日にあなたたちを清めるために贖いの儀式が行われ、あなたたちのすべての罪責が主の御前に清められるからである。16:31 これは、あなたたちにとって最も厳かな安息日である。あなたたちは苦行をする。これは不変の定めである。

この苦行というのが断食であったのです。神殿では、贖いの儀式には、身代わりに子羊を祭壇にささげて、罪の許しを願います。この儀式を行うために、自らの罪を思い、断食をして悔い改めを行いました。
 このことを今もユダヤ教の方々やイスラム教の方々は忠実に行っています。大相撲に大砂嵐という人がいますが、この方は場所中でも、ラマダーンの月にあたると、場所中でも断食をして土俵に臨むと言われています。
イエス様はこの旧約聖書の教えは、イエス様の到来によって完成した、と言われます。この贖いの儀式にささげられる子羊を、ヨハネはイエス様だと明言しています。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と、イエス様は十字架にかかり、永遠のただ一回の捧げもの「子羊」となるために来てくださいました。
神様のみ心によって贖いは完成するから、旧約の戒めは完成した。新しき罪赦された者として、新しい革袋、神様からの約束の中に生きる者とされているのです。この喜びと感謝の中に生きる者が、キリスト者なのです。
あなたもこのイエス様に招かれています。新しく供えられたイエス様という愛のお心の中に生きる者となりましょう。感謝しながら。

by minitayori | 2015-06-13 21:04 | Trackback | Comments(0)

白いアジサイ

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 近くのお屋敷の塀越しに、きれいに咲いたアジサイの花を見つけた。3メートルほどの高さになっていた。星のように見えるアジサイ。名前は知らないが、いろいろな種類と名前があることは知っているが、白い星型のアジサイの花でした。

by minitayori | 2015-06-13 20:56 | Trackback | Comments(0)

アジサイとアルストロメリア

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 青のアジサイとアルストロメリアの花が助けあうように咲いていた。どちらもきれいで、お互いをたたえあっているように見えた。人間もこのように互いの違いを助けあうために必要な相手として受け入れたら、もっと平和な、幸せな世界になると思うのですが。

by minitayori | 2015-06-05 16:23 | Trackback | Comments(0)

「ミニタヨリ 210」

「ミニタヨリ 210」
 人間、環境が急に変わると自分を見失ってしまう事がある。私もそんな経験をした。三つの教会でご奉仕させていただいたが、それぞれ特徴ある教会で、多くのことを学び、教えられた。最初の教会では、ろう者伝道という働きと共に、健聴者も共にいる教会を牧会し、ろう者の人々の素朴な心と聖書の言葉への探求心に、窮することもあったが、教えられることが多かった。
 次の飯田では、教会と幼稚園という新しい分野で働いた。子供の好きだった私には、楽しい時期だった。しかし、雪国での生活は温暖の地出身の私には初めての経験も多かった。雪の中での園バスの運転は、チェーンの播き方も知らなかった私には四苦八苦だった。
 しかし、子供たちとの一時は楽しかった。最近になって飯田から上京してくる子供たちは背丈も私より大きくなって、立派に成長している。音楽の道に進む人や政治や経済に進む人。幼稚園の思い出と重なって楽しいものである。
 飯田での8年の働きを終えて、お召しをいただいて九州熊本で最後の時を過ごすことになった。着任してすぐに冠婚葬祭をしたり、病院訪問、学校での聖書の教えの責任など、今までに経験したことのない忙しい日々が続いた。任期の終わり近くになって、九州地方を襲った地震で、木造の教会は梁や柱がひび割れたため、補修をするという大仕事が始まった。過密な働きの中で脳出血という思いがけない病気を経験し、教会に出席していた引退牧師に助けられて、そのありがたさを身にしみて感じた。
多忙な40年だったが、今思うと楽しかった日々、成長させていただいた日々、感謝の日々でこの働きを終えることができた。
 引退して東京に帰る時、車を手放し、ゆっくりするつもりでいたが、ユックリがいかに寂しいものであるかしみじみ味わった。もう引退して7年、落ちついてきたら、今度は体がついてゆけなくなった。
 神様は、必要だから今日の命を与え、生かしてくださる。どんなになってもその時々にしかできない働きがある。自分らしい花を咲かせ続ける日々を送りたい。どんなに小さくても、神様の前で恥じないように。


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生きる
神さまの大きな御手の中で
かたつむりは かたつむりらしく歩み
蛍草は蛍草らしく咲き
雨蛙は雨蛙らしく鳴き
神さまの大きな御手の中で
私は私らしく生きる。
水野源三さんの詩集より

by minitayori | 2015-06-05 16:16 | Trackback | Comments(0)

アルストロメリア

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 アパートの裏庭にいろいろな色の花が次から次にと咲いている。この花の名前はアルストロメリアというのだそうです。スエーデン人の植物学者アルストレーメルにちなんで名付けられたと言われます。アジサイの紫とよく合う花です。

by minitayori | 2015-06-05 16:02 | Trackback | Comments(0)

礼拝に備えて 2017年6月7日 『レビを招かれるイエス様』

『レビを招かれるイエス様』聖霊降臨後第2主日 2017年6月7日 池袋教会にて説教
マルコ2:13-17(レビの召命)
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◆レビを弟子にする
2:13 イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。
2:14 そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
2:15 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。
2:16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
2:17 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

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「礼拝に備えて」
 イエス様が神の子として、いや神の御心を示す者として、何をなさったかを福音書は語っている。
 神様は遠くにいらっしゃるのではなく私達と同じ所に立ってくださる。今週の聖書では、イエス様は道すがら、収税人レビという人が、罪人と呼ばれる人々と一緒に食事をしているのをご覧になってこの人をイエス様の弟子として招かれたのだ。
 神様は清い方だから、罪人を嫌われる。そう教え、人々もそう信じていた。しかし、イエス様は違った。いや神様は違った。
 旧約聖書の出エジプト記に記されているが、神様は神様の民の罪の状態を知っていて、エジプトの地から導きだした、とまず最初に神様が人々を愛されたことを語っている。
 神様の人間への愛は、人間の行為と交換ではない。まず神様が愛し、その神様に感謝して、神様と共に歩み出す信仰が生まれることを望んでおられる。
 イエス様を信じるとは、イエス様と共に生きること。イエス様と共に生きるとは、イエス様の歩いた道を行くこと。十字架・復活・昇天(召天)。罪赦され、新たな命に生き、神様のみもとでの幸いを望み見つつ生きることである。そのことをイエス様は全ての人に与えられ、全ての人が自分への約束として喜んで受け取ることを望まれる。
 人生の坂道は登り坂、苦しいこともあるでしょう。しかし、いつも同伴者イエス様がいてくださる。倒れた時にはイエス様が背負ってくださる。安心して、全てをゆだねて生きよう。希望を持って。


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by minitayori | 2015-06-05 15:21 | Trackback | Comments(0)

アジサイ1

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 アパートの裏庭にアジサイが咲き始めた。梅雨の花といわれるが、異常気象の中、忠実に自分の時期を覚えて咲き始める、まじめな花です。

by minitayori | 2015-06-05 15:08 | Trackback | Comments(0)