コスモス

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 私の住んでいる練馬区は畑や公園など、緑豊かなところです。しかし、この近くでも宅地への開発が進んでいる、あまり大きなマンションはないが、その代り小さな住宅がひしめいているところもある。そのような中で何箇所か庭木や花畑を残してくれているところがある。自然を大切にしてくれている、と感謝しながら散歩道に選んでいる。いつ宅地になるか心配しながら。

 

by minitayori | 2016-11-12 18:15 | Trackback | Comments(0)

 「みにたより277」

 「みにたより277」
 この所、病院に行ったり外出する機会が多かったが、病院でも、電車の中でもくしゃみをしている人が多かった。昨日から、唾をのみ込むことも、水を飲むこともできないほど、のどが痛かった。のどあめをなめ、買い置きの風邪薬を飲んでみたが良くならないので、今日はやむなく医者に行ってきた。
 「中程度の咽頭炎ですね」と、簡単におっしゃって薬を出してくれた。「咳や下痢などを起こした人が何人も来ていますよ」とのこと。そうか、それから見ればのどの痛みぐらい中程度なんだ、と納得して帰ってきた。
 小雨の降る道のりは寒かった。真冬にはまだ間があるのだろうが、寒さはどうもなじめない。私が育った温暖の地、愛知県の渥美半島では、雪をほとんど見たことがなかった。東京に来て、初めてくるぶしを超える積雪に合い、その美しさに感動したものです。
 東京の任地では、雪が降ると、教会の前で雪にすべってけが人が出ては大変と、通勤時間の前に教会前の歩道の雪かきをした。次の任地である長野県の飯田では、乾いた細かい雪がさらさら降ってくる感動を味わった。雪かきも半端ではなかった。そんな中でもほとんど風邪をひいたことはなかった。
 次の任地熊本では、雪は少なかったが、阿蘇おろしの冷たい風が結構寒かった。特に牧師館は周りをビルに囲まれて、夏は暑く、冬は寒かった。
こうして振り返ってみると、辛かったことも楽しい思い出となる。苦しみも思い出の中では楽しい出来事として思い出される。これも神様が人間に与えてくれた恵みの一つですね。
 今苦しみの中にいるあなたへ、いつかきっとその経験が生きてきて、ありがたい経験をしたことを感謝する時が来るでしょう。そうなることを祈ります。
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by minitayori | 2016-11-12 18:03 | Trackback | Comments(0)

朝顔

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 朝顔が寒さの中、肩を寄せ合うようにひと塊りになって咲いていた。朝顔は夏の花ではなかったかなーと思いながら、花の少なくなった季節に、寒さに負けずに美しく咲いている朝顔に「ありがとう!」と声をかけた。

by minitayori | 2016-11-12 17:58 | Trackback | Comments(0)

11月13日  ルカ福音書20章27~40節 

 11月13日 聖霊降臨後第26主日 ルカによる福音書20章27~40節 
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20:27 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。:28 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。29 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。30 次男、:31 三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。
20:32 最後にその女も死にました。
20:33 すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」:34 イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、35 次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。:36 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。
20:37 死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」

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 「礼拝に備えて」
 昔々のことになりますが、私が洗礼を受ける決心をした時、どうしてもイエス様に会いたいと思いました。宣教師の先生に尋ねると、一生懸命説明してくださったが、理解できませんでした。
 一緒に働いていた婦人伝道師に尋ねました。しかし、納得できる答えはありませんでした。三人で祈った後で、宣教師がこんなお話をしてくださいました。「祈ってごらんなさい、必ずイエス様が会いに来てくれますから」。それから真剣に祈りました。「イエス様、私の前に来てください。お顔を見せてください」と。
 いくら祈ってもイエス様は会いに来てくれませんでした。ある深夜のことです。聖書読みながら転寝をしてしまいました。その夢の中で、イエス様がカーテンの向こうにおられたのです。しかし、足先しか見えませんでした。その話を宣教師にしました。すると宣教師は、にこにこ笑いながら言われました。「家の外にいてもイエス様に会えないですよ。その家の人と会いたかったら、戸を叩いて開けてもらい、家の中に入ってみないとその家の人の様子も、その家の人にも会えないでしょう。神様はイエス様のご生涯を通して、あなたへの愛の食卓を用意していてくださいます。イエス様の誕生、ご生涯、受難、十字架、復活のすべてがあなたへの愛のプレゼントですから。」
 聖書は外側から、自分の知識や常識の中から見ていては、分からないのですね。信仰によって神様の懐の中に飛び込んで、初めて神様の大きな愛のお心がわかるのです。昔最初の教会の代議員が、こんな話をしてくれました。「聖書は金時あめのようです。どこを切っても神様の愛のお顔が見えてきます。愛のみ旨が語られています。」e0191585_17512780.jpg 「38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」歴史の中で働かれる神様はアブラハムの神、イサク、ヤコブの神。そしてあなたを深く愛してくださる神様なのです。


by minitayori | 2016-11-12 17:52 | Trackback | Comments(0)

紅葉の木

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 木枯らし一番が吹いたようです。いよいよ冬将軍がやってきます。近くの公園には紅葉になる木があまりありません。少し足を延ばしたところで、イチョウの葉が少し黄色になっていました。その陰に隠れるように紅葉樹がありました。まだまだこのあたりは自然が豊かです。

 

by minitayori | 2016-11-12 17:39 | Trackback | Comments(0)

ゼニアオイ

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 見慣れているからかもしれないが、名前がなかなか出てこなかった。最近、教会でもこの人の名前はなんだったのかな?とずっと考えることがある。名前も呼べずに一日過ごし、家に帰ってからああそうだったと思いだす。笑顔でで「あなたのこと覚えているよ!」とメッセージを送る。ゆるしてね!

by minitayori | 2016-11-05 21:33 | Trackback | Comments(0)

みにたより 276

「みにたより276」
 ふと思ったのですが、この頃、昔のことが特に懐かしく思いだされます。人間って不思議なものですね。辛かったことも、振り返ってみると、楽しく思えるのはどうしてでしょうか。
 先日神学校時代の友人が亡くなったという知らせを風の便りで知りました。この方は、日本キリスト教協議会の、障害者と教会問題特別委員会の中で知り合った方でした。先天的に、左手が肩の中に深く入り込んでいました。
 この方とは神学校の近くの銭湯で親しくなりました。いつも一人で出かけていたのですが、お風呂に行きましょう、と誘われて一緒に出かけました。左手が埋まっている左肩にタオルをかけて、隠すように片隅で身体を洗っている彼の横に座って、「背中を洗いましょう。」タオルをとり、背中を洗いました。「久しぶりに背中がきれいになって気持ちいい!」と喜んでくれました。それからしばらく一緒に風呂に通いました。
 ある時、障害者委員会が、早稲田にあるキリスト教会館で開かれることになり出かけました。会議が終って暗くなってきた道を、バス停まで一緒に帰ることになりました。普通に歩いていると、彼が少し肩で息をしていましたので、どうしたの?と聞くと、障害で片方の肺が機能していないので、早く歩けないので、「お先にどうぞ!」と言われてしまいました。
 障害者委員会に出席しながら、障害を持つ方の身体の調子を配慮できなかった自分を責め、謝ってバス停まで歩調を合わせて帰りました。彼は、結局は牧師にはなりませんでしたが、その才能を神様は生かされました。ルーテルアワーと言う、ラジオによる伝道の場所で働き、視聴者の質問に答えたり、訪問したり、とても良い働きをしました。
 「一度会いたいね!」という希望は果たせなかったが、彼の訃報を聞いて、昔聞いた「お先にどうぞ!」と言う言葉を思い出しました。自分の弱さを受け入れてそれを恥としない生き方、自分に難しい事には「お先にどうぞ!」と、堂々と言いながら与えられた日々を一生懸命生きた彼を、忘れないでいきたいと思いました。
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by minitayori | 2016-11-05 21:23 | Trackback | Comments(0)

ゼラニウム

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 道端に並べられていた鉢植えの花も大半が枯れていたが、この花だけは元気良く咲いていた。「その元気はどこから来るの?」花は何も答えてくれなかったが、「今咲くのが私の務めだから・・。」と言っているようだった。

by minitayori | 2016-11-05 21:19 | Trackback | Comments(0)

11月6日 礼拝に備えて  ルカ福音書19章11~27節 

聖霊降臨後主日(全聖徒の主日=ヨハネ16章15~) ルカ福音書19章11~27節
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19:11 人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。
19:12 イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。:13 そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。:14 しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。:15 さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。:16 最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。 19:17 主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』:18 二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。 19:19 主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。
19:20 また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。:21 あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』:22 主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。:23 ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』
19:24 そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』:25 僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、
19:26 主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。

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 「礼拝に備えて」
 日曜日は、教会では全聖徒主日として礼拝が守られます。教会の暦も一年の終わりに近づいてきます。この時期に私達は一年の終わりではなくて、自分の人生の終わりについて考えておかなければなりません。
 今日の日課で、ある主人が10人の僕に10ムナのお金を預けて旅立ちます。1ムナは100ドラクメ(1ドラクメは一日の賃金に相当する)。相当のお金であったことは確かです。マタイ福音書25章ではタラントのお話として書かれていますが、1タラントは6000ドラクメに相当します。
 マタイとルカが同じようなお話を伝えるのに、マタイは多額の金を違った額を預けて(1,2,5タラントを10人に預け)主人は結果を求めているのに、ルカは10ドラクメを10人に平等に預けているのはなにを意味しているのだろうか。それは聖書を書いた著者として、自分の読者に向かってふさわしいお話として伝えているからではないでしょうか。マタイはユダヤの知識人に向かって語り、ルカは世界のすべての人に、つまり神様に作られている全ての人々に、終わりの時に向かってどのように備えていかなければならないかを伝えているのではないでしょうか。
 つまり私達に向かってのお話なのです。私達は誰も神様から同じように1ムナを預けられています。その預けられているものをどのように用いて、終わりの時に神様にお返しできるかを問われているのです。
 1ムナは人によっては小さくもあり、また大きくも感じます。それは自分の才能とも考えられますし、毎日の命とも考えられます。私は牧師になった時に、ある教会の方から言われてしまいました。「先生がもう少し年をとっていたら、いろいろ相談したいことがあるのだが・・」と。その時は、早く年をとって高齢の方のお話を聞けるようになりたいと思いました。しかし、年齢を重ねるごとに忙しくなって、なかなか皆さんと話し込む時間が取れなくなりました。
今、自分が後期高齢者の仲間になってみて、教会に来る高齢者の方々と向き合う事が出来るようになりました。「腰が痛い、早くお迎えが来ないかなー」などなど、お話を共感をもって聞くことができるようになりました。
 その度に思います。人間、誰もが生きる限り、いや生かされている限り、預けられている命を生かして用いること、神様の前にこのように生かし、一生懸命生きましたと言えるような人生を送ることが求められているのです。何もできないなんてあきらめてはいけません。
 神様を賛美することができます。神様との間に立って、祭司のように隣人のためにとりなしの祈りをすることができます。教会に行けたら、出会う人と微笑みをかわすことができます。相手が微笑でくれない時にも、心痛めないで、その様な人こそ微笑みを必要としていることを覚えて、祈ってあげましょう。
 神さまに「良い僕だ。よくやった。」と誉められるように、今日を大切に生きていきましょう。
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by minitayori | 2016-11-05 21:12 | Trackback | Comments(0)

コスモスとピラキカム

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 近くの都営住宅の中を散歩してみた。入口の小さな庭?に思い思いの花を咲かせている。きれいに手入れしている家、水がなくなって枯れそうになっている花。その家の姿を見るような思いだった。

by minitayori | 2016-11-05 20:53 | Trackback | Comments(0)