# by minitayori | 2017-11-18 17:51 | Trackback | Comments(0)
全聖徒の主日、召天された方を覚えての礼拝が行われました。
復活の象徴である百合の花が目立っていました。

# by minitayori | 2017-11-18 17:51 | Trackback | Comments(0)
# by minitayori | 2017-11-11 21:04 | Trackback | Comments(0)
「ミニタヨリ327」
私の寝室の頭の所に、来年のカレンダーが飾られている。このカレンダーは星野富弘さんの詩画によるカレンダーで、毎年熊本の友人が送って下さるものです。もう来年の一ページめの画面がでているので紹介しよう。
自分の背中
自分の顔が いつも見えていたら
悪い事なんか 出来ないだろう
自分の背中が いつも見えていたら
侘びしくて 涙が出てしまうだろう
あなたは私の顔をいつも見ている
私の背中をいつも見ている。
この詩には星野さんが筆を口にくわえながら描かれた花が描かれている。先にご紹介した「ホトトギス」の絵でした。今日偶然アパートの周りを散歩していたら、「ホトトギス」の花が咲いていた。少し盛りが過ぎてしまっていたが、カメラを持って写して来ました。「ホトトギス」なんとなく遠き昔のロマンを感じさせる花の名前ですね。
最近身近に花を見る機会が多くなりました。バラや菊の花などが見られます。寒さの中で花と出会うと、なんとなくほっとします。ここにも神様に守られて、命の花を咲かしている。神様のみ守りを感じるのです。
天候不順さに負けないで、神様に守られて、自分の与えられた勤めを立派に果たしている花に、神様のお守りとお支えの恵みを感いました。# by minitayori | 2017-11-11 20:58 | Trackback | Comments(0)
# by minitayori | 2017-11-11 20:51 | Trackback | Comments(0)
11月12日 神の愛に生きる マイ福音書22章34-40節
◆最も重要な掟
22:34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。22:35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
22:36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
22:38 これが最も重要な第一の掟である。22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
聖書の中には神様のお心が示されています。いろいろなお話が書いてあります。難しいお話もあります。けれども、内容は一つです。私が牧師になった初めの頃、ある先生を教会に招いてお話をしていただきました。その先生は、聖書の中はどこを開いても、神様の愛が書かれている、と言われました。聖書の最初には天地創造の後、最初の人間が、神様がしてはいけないと注意された事「エデンの園の中央にある善悪を知る木の実は食べてはいけない。」と言う命令を破って、おいしそうだと思ってとって食べてしまいました。その後すぐに、アダムさん達は神様を恐ろしく思うようになって、木の陰に隠れました。でも、神様はその様な心を持ってしまったアダムを心配して、「アダム、どこにいるの、私の前に出ておいで!」といわれました。悪い事をした人間ですが、神様は怒ることなく、心配して、どこにいるの?私の前に出ていらっしゃい!と呼びかけていてくださったのです。
当時、神様に仕える人達は、神様は正しい方で、罪を憎まれる方、だから、正しい行いをして神様に喜ばれる人間にならなければならない、と教えていました。律法学者はイエス様を陥れようとしてこのような質問をしました。イエス様は問いに応えて言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である、と。
イエス様のお考えは、神様がまず最初に人々を愛され、助けました。罪を犯した私達を見捨てない。「わたしはあなたの神、主である。」神様があなたの神、となって下さる方ですよ。だからこの神様に従い、その愛の中で生きなさいね。と教えられたのです。
さて次にイエス様は、新しイエス様の教えを与えられました。それは『隣人を自分のように愛しなさい。』とう事です。何故てしょう。
ガリラヤ湖と塩の海の話。
イエス様の住んでいた国にはヨルダン川がありました。その上流の方にはガリラヤ湖がありました。そこには魚が沢山住んでいて、周りで生活をしている人々を助けていました。
そのヨルダン川の下流にもう一つの湖がありました。そこは死んだ海、または塩の海と呼ばれていました。二つの湖の違いはなんでしょうか。同じ川につないでいるのにどうして違ってしまったのでしょうか。
ガリラヤ湖は山から水を貰いますが、その水を下流に流します。だから水はいつも新鮮で、魚が住んで、人々を助けています。しかし、死の海は同じ水を貰いますが、その先は砂漠で水を流せません。太陽の強い光で水分は蒸発してしまいます。海よりもずっと低いために塩分が多くなり、魚が住めないのです。受けるばかりで与えることが少ない人の心も同じです。人の愛も神様からいただきますが、使わないと腐ってきます。そして傲慢な心、自己中心の人間のにおいが出てきます。イエス様は、神様に心を向け、神様の愛をいただいて、ありがとうという感謝の思いを持ちながら、人を愛する人になる、その様な生き方をするように私達に、いや教会にも望んでおられるのです。
# by minitayori | 2017-11-11 20:44 | Trackback | Comments(0)
# by minitayori | 2017-11-11 20:34 | Trackback | Comments(0)
# by minitayori | 2017-11-04 17:57 | Trackback | Comments(0)
「みにたより326」
秋風と共にインフルエンザが流行しそうです。我が家でも幼児がいるので、早々と予防注射を打ちに行った。今年は予防接種用のワクチンの入荷が少ないとかで、その日に申し込んで注射して参りました、幼児の孫は保育園で早速軽い風邪を貰ってきました。目の前でクシャンとまともにくしゃみを浴びるが、インフルエンザではないようでよかったと胸をなぜおろしています。一緒に添い寝していた家内は移ったようだが。
それにしても我が家の近くの川越街道の風の強い事。台風前後の時など向かい風になると前に進まない。追い風になると突き飛ばされたようになってしまう。ベビーカーに乗せて帰宅しようとしていたお母さんが、飛ばされそうになっていた。
少子化対策、働き人改革主婦の方の力が用いようとされているが、保育園不足は切実な問題だと痛感した。娘も20箇所以上の保育園を見て回り断られて途方に暮れている時に、幸いにも無認可保育園で一人空きがあって受け入れてくれ、働き開始に間に合った。
本当にいろいろな問題があるものです。現役で遠方にいる時の長女の子供が生まれた時、途方に暮れたが、結局は一人で頑張った、とか。今改めてその苦労話を聞かされて、申し訳なかったと思っている。
こんな時にふと口づさむ歌がある。
♪いろんなことありましたよ。イエス様信じた後も。
だけど僕の心の中に、喜びがある。
悲しい事もありましたよ。苦しみ悩んだことも。
だけど、僕の心の中に、神様への感謝がある。
君もお出でよ、イエス様のもとへ。
そのままでいいんだよ。新しい人生だから。
*この作詞作曲は、湖浜先生と言う単立の牧師が作られた。不思議なご縁があってよく知っている先生だ。アバコで手話の講習会をしている時に初級のクラスに参加してくださったのだ。聖書の言葉の手話の解説をしているのを一生懸命聞いていてくださった。
# by minitayori | 2017-11-04 17:52 | Trackback | Comments(0)
# by minitayori | 2017-11-04 17:44 | Trackback | Comments(0)
11月5日 全聖徒の主日 ヨハネによる福音書15章1-17節
15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
*中略(聖書を読んでください)
わたしあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
「礼拝に備えて」
ぶどうの実がたわわに実る季節になりました。店頭に並ぶ葡萄の房も少し安くなり、口に入るるようになりました。昔東京にいた時に、娘達を連れて勝沼のブドウ園でぶどう狩りをしたことがあります。ブドウ園に入ると、ぶどうの枝が縦横に伸びて、それを支えるために支えの棒があちこちに立っていました。
ブドウ園が持ち主によって愛され、丹精込めて育てられていることが分かりました。またこのぶどうの木は、接ぎ木されながら大きくなり、より甘く大きな実がなるように育てられている事を知りました。そのことを思うとひと房ひと房が農家の方の真心を込めた賜物に思えました。
こんな様子を知っておられたイエス様は、弟子達に最後の説教の中でぶどうの枝のように、神様につながって生きていなさいと教えられたのです。それだけでなく、良い木に結ばれたぶどうの実が甘くおいしかったように
良い木に接ぎ木されたぶどうの枝は、園丁の心を受けてその木にふさわしい実をを結ばなければならないと教えられているのです。またその様に生きる者のだけが、神様の国の一員となる事が出来るのです。 日曜日、教会では聖餐式が行われます。聖壇を囲んで天上に召された者、そして今地上に住む私達が、神様の家族として一つになることを信じ受け止める時でもあるのです。心して礼拝に参加したいものです。
# by minitayori | 2017-11-04 17:40 | Trackback | Comments(0)
# by minitayori | 2017-11-04 17:31 | Trackback | Comments(0)
# by minitayori | 2017-10-28 21:53 | Trackback | Comments(0)
「みにたより325」
先週は無断でお休みしてしまいました。心配してくださった方々に感謝します。日曜日の前後にいろいろありまして、思考が停止してしまい、とてもミニタヨリを書く気力がありませんでした。
人生いろいろありますね。でもその驚きに向かう勇気が、自分の中にまだまだ備わっていない信仰の弱さを痛感しました。先週の土曜日は、私の心友(親友)のコンサートに参加しました。この友は10数年も重い病と闘い、繰り返し手術をしつつ、不死鳥のように甦ってコンサートを続けてきました。今回はデビユー50周年の記念コンサート。その矢先に病が再発、点滴を打ちながら懸命に歌われる姿は、満員の観客の心を打つ素晴らしいコンサートになりました。
私は涙し、祈りながら聴いていました。与えられた才能を、限界のなかで見事に咲かせた大輪の花のようでした。「全ての時に神様は働いて、万事を益としてくださる。」このパウロの書いた聖書の言葉は、今年一年、私どもの家庭では、信じ、委ね、全てを受け止めようと祈り続けた祈りでもありました。
いくつになっても、無力になっても、私たちは命を与えられている限り、神様が必要としてくださっているのです。その立場、状況でしかできないことがあるのです。置かれたところで、置かれた状況の中で精一杯生きること、そのような私たちの生き方を、神様は神様のご栄光のために用いていてくださるのですから。
# by minitayori | 2017-10-28 21:47 | Trackback | Comments(0)
# by minitayori | 2017-10-28 21:44 | Trackback | Comments(0)
10月29日 聖霊降臨後第21主日 マタイ福音書22章1-14節
22:1 イエスは、また、たとえを用いて語られた。 22:2 「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。
22:3 王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。
22:4 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』:5 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、:6 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。:7 そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。
22:8 そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。:9 だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』 22:10 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。 22:11 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。:12 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、13 王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』 22:14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」
「礼拝に備えて」
聖書の中には現代の私達には理解できない出来事がよく書かれています。逆に、その時代の風習を知ると、非常に深い意味が理解できることがあります。今日の日課の例もその中の一つです。
王子の結婚式に招いた客が少なかったので、この父の王は「僕に、町の大通りに行って、誰でもいいからいっぱいになるまで連れてくるよう、」に命じました。僕はそのようにして、部屋にいっぱいになるように人を集めました。婚宴が始まって、王が入ってくると、婚礼の礼服を着ていなかった一人の人を見つけて、「なぜ婚礼の礼服を着ていないのか?」と叱責し、家の外に放り出した、と言うのです。
私も、アメリカだったと思いますが、宣教師に連れて行ってもらった時に、突然結婚式に出ようと言われて、びっくりしたことがあります。旅の途中だし、当時は貧しく、安物のみすぼらしいものしか着ていなかった私だから、失礼にあたると思ったのです。
しかし、その宣教師は構わないからと言って、強引に連れていかれました。どうも、小さな村では当たり前の風習だったようなのです。日本では考えられないことだと思いました。それにしても、ここの聖書のお話はひどいと思います。大通りを歩いている人を突然、結婚式場に引っ張って来て・・礼服もあったものではないはずなのに、王は怒って「この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。」とは何事かと思うでしょう。しかし、当時の裕福な家の婚礼などでは、式場の入り口で礼服を与えていたようなのです。その与えられた礼服を着ていなかったから王は怒ったのでしょう。
神様の国の祝いの宴は、すべての人に平等に与えられています。しかも、その宴に出るのにふさわしい礼服を、神様はイエス様の十字架の犠牲により買い取り、招かれた人すべてに着るようにと無料で差し出されます。その時に、神様が準備してくださる「信仰」と言う礼服を着ていなさい、と言う警告をイエス様は教えられているのです。あなたのためにも、神様の国に入る礼服は用意されています。
# by minitayori | 2017-10-28 21:41 | Trackback | Comments(0)
# by minitayori | 2017-10-14 17:59 | Trackback | Comments(0)
「みにたより324」
病気と言う字は、病と気との言葉で出来ていますね。病を持っていてもその日を輝いて生きることが出来ますし、その生き方が人に感動を与え、他の人にも自分に喜びを与えます。
私は最近、身体の衰えや記憶力の衰えに負けそうな時があります。私がその様な状態に陥ると、必ず電話をくださり、励ましくださる方がいます。本当の心の友と言うのでしょうか。
その方は次々に大病を患いながらも、奇跡的に人に感動を与える大きな働きをして居られます。まさに私とは反対に、心が神様に満たされ委ねて、輝いて生きておられると、いつも自らを恥じています。
病にはかかっても、心を強く持って病気にはなるなと、よく病院訪問の時に励ましの言葉としてお話してきました。今その言葉を自分自身に語りながら、生きています。私は引退して、カメラを持って散歩に出るようにしました。野の草、道端の花を見ていると、いろいろなことを教えられます。
誰も見ていなくても、自分の置かれた場所で一生懸命咲いている小さな花。誰もかえり見てくれない様な花に、もっと人目につく様な所に咲いていたら、と見ていると、花が「ここは神様が置いてくださった所、ここで一生懸命咲きます。」と語っている声が聞こえたようでハッとしました。
# by minitayori | 2017-10-14 17:53 | Trackback | Comments(0)
# by minitayori | 2017-10-14 17:47 | Trackback | Comments(0)
10月18日 聖霊降臨後19主日 マタイによる福音書20章1-16節
20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
20:2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。:3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、:4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。:5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。:6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、:7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
20:8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。:9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。:10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。
20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』 20:16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
「礼拝に備えて」
人生の中で、神様に不満を言いたい時がなかったでしょうか。こんなに神様に仕えてきたのに、今の不幸は一体どうしたことだろうか・・など考えたことはなかったでしょうか。家族が病気になった時、仕事がうまくいかなかった時、また自分が身体が衰えてきて思うような働きが出来なくなった時、などなど。
でも命や健康は、神様からの恵み。今までどれだけ感謝もしないで神様からいただいた恵みを無駄に使ってきたことを自分では気がついてはいない。しかし、神様はすべてをご存知で今日まで黙って支えてくださった、その恵みを思い出すことが必要なのです。
今日の聖書では、ブドウ園の農夫が、一日1デナリで雇われ、朝から時間差を持って雇われた人がいた。彼らは皆、主人から一デナリのの約束をしていたが、長時間働いた農夫から不満が出た。働く時間が少ない人と同額であることが不満であったのです。仕事が与えられ、主人の約束通りに支払われたその恵みに気がつかないのです。人生の中で元気で働ける時も、病気の時も、老いて働けなくなってっも、神様は今日と言う日の報酬は同じ恵みを与えてくださっています。生きている事、今与えられている恵みを感謝を持って受け止めて、その心を祈りの中で神様に返すことです。
不満の心で今与えられている素晴らしい時を見過ごすことがないように、神様とイエス様に従って精一杯生きていたいですね。そんなあなたを神様はきっと支えていてくださいます。苦難の時を喜びの時に変えてくださいます。信じて今日と言う日を精一杯生きてください。神様が共に居てくださることを信じて!
# by minitayori | 2017-10-14 17:43 | Trackback | Comments(0)
# by minitayori | 2017-10-14 17:38 | Trackback | Comments(0)
# by minitayori | 2017-10-07 20:32 | Trackback | Comments(0)
「みにたより323」
聖歌521番“キリストにはかえられません”
アメリカで最も愛されているゴスペルシンガー、と言われるジョージ・ベバリー・シェーは、あの名曲“キリストにはかえられません”の作曲者でもある。2002年、九十二歳になるこの老人は、五万人の会衆を前に、“キリストにはかえられません”を力強く歌った。豊かな人生の秘訣をインタビューに答えて次のように語っている。
「私は一九〇九年、オンタリオ州のウインチェスターで生まれました。父は牧師でした。当時は六人兄弟。朝になると、母はよく、“歌いつつ歩まん”など古い聖歌を歌って子どもたちを起こすのです。ですから、讃美が生活の中に自然に溶け込み、私は本当に聖歌が好きな子どもになっていました。 sある日曜の朝、私の机の上に一編の詩が置かれていました。ピアノの前に座った瞬間、あのメロディが心の中にあふれてきたのです。私が最初の一節とコーラスの部分を弾き終えた時、母が目にいっぱい涙をためて部屋に入って来て、私をしっかりと抱き締めたのです。母は、当時、二十三歳の私の信仰を心配して、この詩が私の人生に影響を及ぼしてほしいと願っていたようです。ですから、この日曜の朝に、最もふさわしいことが起こったのです。私を変えたこの一編の詩は、レア・ミラーというクリスチャンが書いたもので、母が私のために持ち帰り、机の上においてくれたものでした。“キリストにはかえられません”という詩だったのです。」
私は21歳の時に、この讃美歌に出会いました。聖書学院の学生の時、男女4人のコーラスを作り、いろいろな教会の伝道集会で奉仕をしていました。歌いつつ、何度も涙をし、新たな思いをもって神様に仕える決心を確認したものです。ぜひ皆さんも歌ってほしいと思います。
# by minitayori | 2017-10-07 20:25 | Trackback | Comments(0)
# by minitayori | 2017-10-07 20:23 | Trackback | Comments(0)
10月8日 聖霊降臨後第18主日 マタイによる福音書18章21-35節
18:21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
18:22 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
「中略」 18:33 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
18:35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。。
「礼拝に備えて」
昔、神学校の先生から、赦すと言う言葉と、忘れると言う言葉とはよく似ていると言われました。なんとなくこの言葉が心に残っていました。ふと思い出して、スペルがうろ覚えなので、辞書を引こうと思ったが、残念ながら引っ越し段ボールの奥に入ってしまったようで見つかりません。もっともあの辞書の字は、今の私にはきっと見ることが出来ないでしょう。娘に確認して記しています。
forgive=許す forget=忘れる・・この教えが今日の聖書の教えに深くかかわっていると思うのです。ペトロはイエス様に聞きました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と。ペトロが「七回までですか?」と聞いたのは、旧約聖書の教えに従って、最大級の忍耐の心を持って許すことを覚悟している自分を、イエス様に誉めてもらいたかったからなのかもしれません。
しかし、イエス様は7回までですか?と問うペトロの心には、本当の赦しがない事を教えたかったのです。それは我慢をするだけで、その数を超えると7倍・8倍にして仕返しをするのが人間の心の醜さなのです。
昔「491」と言う映画があったそうです。その意味は7を7倍、つまり、490回を超えた、許されざる事柄がある、と言う意味だったそうです。私は見られませんでしたが、これを聞いて思いました。許すと言う事は、本当は忘れる事ではないかと。神様は、人間の裏切りと言う罪を忘れてくださるために、そのすべてをイエス様の十字架に架けてくださいました。
イエス様の十字架の故に、私達の全ての罪を忘れてくださったのです。
# by minitayori | 2017-10-07 20:16 | Trackback | Comments(0)
# by minitayori | 2017-10-07 20:02 | Trackback | Comments(0)
# by minitayori | 2017-09-30 21:07 | Trackback | Comments(0)
「みにたより322」
八木重吉と言う詩人の詩に「みんなもよびな」と言う詩がある。最近、特に思い出されるので紹介しよう。
「さて あかんぼは なぜに あん あん あん あん なくんだろう?
ほんとうに うるさいよ
あん あん あん あん
うるさかないよ、うるさかないよ。よんでいるんだよ。かみさまをよんでいるんだよ。
みんなもよびな、あんなにしつこくよびな」
先年ある方から、八木重吉のご夫人のとみ子さんは、私が通っている池袋教会の会員であられた、という話を聞いて、余計に親しみを感じるようになった。池袋教会の会員であられた岡安先生の講演の中でお話されたとのこと、私はその講演会に出られなかったので、ゆっくりお話を聞きたいと思っていたが、その先生も御病気で帰天されてしまった。それはともかく、私もこの八木重吉の詩が好きで、数冊持っており時折読んでいる。
今日紹介した「みんなもよびな」は、今、我が家に8月に生まれた孫が、しばらく一緒に住んでおり、朝に夕に、そして真夜中でも、遠慮なく泣き声をあげている、という現実の中で、思いだしたものである。
腕の中で涙を浮かべて泣いている幼子は、お乳が欲しいのか、おしめを替えて欲しいのか、ともかく心の願いを訴えて全身で泣いている。
# by minitayori | 2017-09-30 20:58 | Trackback | Comments(0)
# by minitayori | 2017-09-30 20:46 | Trackback | Comments(0)
10月1日 聖霊降臨後17主日 マタイによる福音書18章15-20節
18:15 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。
18:16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。
18:17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
18:18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
18:19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
18:20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
教会に与えられている職務と言おうか権限は大きい。以前、教会に遣わされた牧師が一国一城の主になったようだと言われた時期があった。戦国時代でいえば一国一城の主は、委ねられた国土とそこにいる民のために命を賭して守る者であった。民に仕える者であった。しかしある時期から、国や民から富を搾取して、自分の栄華の道を歩み始めた。一部の人であったろうが。私が神学校に入って、最初に遣わされた教会の老牧師が、しばしば神学生であった私を食事に招いてくれた。インスタントラーメンがほとんどだったが、その都度に語られる言葉は、それからの私の人生の中で大きな力となった。
「牧師は仕える者、魂の救いのために生涯をかけて仕える者となれ。」等々。この教会を離れる時、面白い事を言われた。「信徒を信用してはいけない、友達の様に思ってはいけない。自分にゆだねられた羊として、イエス様にならってどこまでも愛すること、これにつきる」と教えられた。
それからもうひとつ、「転任をして教会を離れたら、元の教会に顔を出してはいけない。五年、出来れば十年は顔を出してはいけない。」この意味は、当時はよくわからなかったが、次第に理解できるようになった。「信徒の方々は、長い牧会のよしみで前任者にいろいろ相談に行く。前任の牧師はよくわかっているから、新任の牧師より適切なアドバイスが出来る。すると新任の牧師と信徒の方々との距離が縮まらないで、教会に問題が起きることがある」と言う事だろう。
私自身は信徒の方の声は、「称賛」よりも「非難」の中に、神様の忠告があると思ってきた。非難する心が共に祈る心に代わり、共に神様の愛を伝えて行く仲間となる。その幸を数え切れないほど経験させていただいた。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」愛の祈り、人の救いとなる祈りと行いが出来る様な教会でありたいと願っている。
# by minitayori | 2017-09-30 20:38 | Trackback | Comments(0)
# by minitayori | 2017-09-30 20:32 | Trackback | Comments(0)
ファン申請 |
||
外部サイトRSS追加 |
||