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キリエ(聖画)展

キリエ(聖画)展
教会の役員、特に婦人会主催で下記のようにキリエ展を
開催していただくことになりました。6月24日より7月
1日までの一週間になります。主要なものは引越しの時
皆さんに差し上げたり、教会に残してきたり、お世話に
なった施設に寄贈してきましたので、充分なものでは
ありませんが、一枚一枚心を込めた作品です。
ご覧いただければ幸いです。週日は13時から16時までです。
私もできるだけ会場で皆さんとお話しできるようにしたいと
願っています。。

キリエ(聖画)展_e0191585_21593762.jpg
*会場は池袋西口寄り徒歩10分、光文社の角主曲がると正面が教会です。
 西口ビックカメラ前のバス停より池袋2丁目下車、少し戻って信号を渡り、光文社
 の横の道を入って正面に見えています。

# by minitayori | 2018-06-09 22:22

シャクヤクの花一輪

シャクヤクの花一輪
薄暗いお庭の一角に咲いたシャクヤクの花一輪、庭全体を
明るくしてくれる。そんな人間に私もなりたい。

シャクヤクの花一輪_e0191585_21435180.jpg

# by minitayori | 2018-05-26 21:46

「みにたより341」

「みにたより341」

 先週は池袋教会で6月24日から一週間予定されているキリエ展の準備で、わが部屋は足の踏み場もないほどになっていまった。引越しのままに押し入れの中にしまいこんでいたキリエ額を出し、一枚一枚点検をしながら、ずれている絵を直したり、修復したりの日々でした。

 作品名と聖画として作ってあるので、聖書の個所と作った時の意図などを書いてくれてお言われたが、なかなか記憶を引き出すのが難しい。目ぼしいものは学校や施設に寄贈してしまっているので、せっかく来てくださるひとびとに喜んでもらえる物が少ないのが残念だ。しかし、作品をしまう所がなくて額の裏に保管している物が何枚か出てきて、少し形が整いそうになった。

 教会の方が搬送のお手伝いに来てくださったので、22日やッと間にあわせて20点ほどの額を送り出した。気に入った絵には気にいった額装をしてやりたいので、ネットのオークションで見つけて、手に入れて送り出した。

 どんな飾り付けになるかわからないが、とにかく自分にとってこれを終りの展示会にしたい。キリエも小さなものを作って、楽しみながら出来る範囲にものにして行こうと思っている。そんな訳で前号は礼拝に備えてだけになってしまい、失礼しました。


# by minitayori | 2018-05-26 21:42

クレマチス

クレマチス
アパートの前の家には色とりどりのクレマチスが咲いていた。
建て替えられるのか今はさら地になってしまった。四季折々に
珍しい花を見せてくれたのに残念です。新しい家にもまた
花が咲いてくれるように願いつつ、さら地の横を通っている。

クレマチス_e0191585_21333081.jpg

# by minitayori | 2018-05-26 21:39

礼拝に備えて 5月27日 ヨハネ福音書3章1-12節

礼拝に備えて

 三位一体主日 527日 ヨハネ福音書31-12

礼拝に備えて 5月27日 ヨハネ福音書3章1-12節_e0191585_22421899.jpg


◆イエスとニコデモ

3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。

3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」

3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。

3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。

3:7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。

3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

3:9 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。

3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。3:11 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。3:12 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。

礼拝に備えて 5月27日 ヨハネ福音書3章1-12節_e0191585_21285290.jpg
「礼拝に備えて」

 自分が納得すると言う事と、信じると言う事との間には全く相いれない溝がある。私達は知っているから信じるのか、主を無条件で受け入れる心で信じるのか、自分自身で自問自答しなければならない。

 納得は自分の知識で理解できる範囲のことしか受け入れていない。しかし、信仰、信じると言う事は、私達の理解不能なことでもそのまま受け入れることではないだろうか。少なくとも聖書を見ると、神様の愛は理屈で理解してからの愛ではなく、まず受け入れてくださる事から始まっている。

 聖書の中の放蕩息子のたとえ話を思いだして見よう。父の財産を半分分けてもらった弟はその全財産を使い果たして、豚の餌さえ食べたいと思うようになりさがって、父のもとにとぼとぼと帰って来た。その息子を家の前で待ち続けた父親は、まだ遠く離れているのに走り寄り、抱きしめて、死んでいた息子が生き帰ったと喜んだ。これが私達に対する神様の真心なのです。この神様の愛を知る時、私達は神様が私達に注いでくださる愛のお心を、そのままに受け止める心=信仰の心が生まれるのです。この時に私達は本当の信仰を持つことが出来、全てを受け止めてくださる神様の懐に飛び込み、真実の平安を受けることがきるのです。神様のみ手の中で、日々を平安に生きて行きたいですね。


# by minitayori | 2018-05-26 21:32