3月12日 四旬節第2主日 マタイ福音書20章17~28節
20:17 イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。
20:18 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」
◆ヤコブとヨハネの母の願い
20:20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」
20:22 イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」 ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。
20:25 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
20:27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。
20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
「礼拝に備えて」
今は四旬節(昔は受難節と呼んでいた)の季節。旬=10日のことで40日の間イエス様の合われた苦難を覚えて受難主日に備える。そして受難主日の次の日曜日に主の復活を祝う。復活から50日目の日には、弟子たちに約束の聖霊が下った聖霊降臨日を覚えることになる。そしてこの聖霊降臨日が、実は弟子達が恐れから勇気をもって宣教する人なった日でもある。
この日のために弟子達を教育する教えが続く。まず今日は、イエス様がエルサレムに入って苦難をうけることが語られている。何を勘違いしたのか、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエス様のところに来てひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」
弟子たちが、イエス様の心を理解せず、自分達のことだけを考えていることに気づかされる。イエス様が全ての人の救いのために苦難を受けようとするとき、人々は自分が天国でイエス様と一緒に、誰よりも高い位置に着きたいと願っていたのだ。今までのイエス様の教えは、弟子たちの心にしみこんではいなかったのだ。
弟子達にはイエス様の心がわかっていなかった。それは今の教会でも一緒ではないだろうか。本当に苦しむ者、悲しむ者と共にあろうとする教会であっただろうか。障害者の委員会で全国の教会に「障害者のために必要な施設が整っていますか?」というアンケートを取ったことがある。「点字の聖書を整えています」とか、「エレベーターを設置しました」等々、いろいろな配慮が示されていることを知った。
しかし、一つの教会からは驚くような答えが返ってきた。「幸いにも、私達の教会には障害者は来ていませんので、特別な用意はありません。」幸いにも・・・。
イエス様は天に昇られる日に、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言っておられる。
これは教会に対する厳命である。私たち一人一人への命令だと思う。人を差別しない教会、宣教の仕方を通して一人でも多くの人の救いを願う教会であり、私たちでありたいと思います。
# by minitayori | 2017-03-11 20:27