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礼拝に備えて 3月12日

 312日 四旬節第2主日 マタイ福音書201728

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20:17 イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。

20:18 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」

◆ヤコブとヨハネの母の願い

20:20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」

20:22 イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」 ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。

20:25 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、

20:27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。

20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

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「礼拝に備えて」

 今は四旬節(昔は受難節と呼んでいた)の季節。旬=10日のことで40日の間イエス様の合われた苦難を覚えて受難主日に備える。そして受難主日の次の日曜日に主の復活を祝う。復活から50日目の日には、弟子たちに約束の聖霊が下った聖霊降臨日を覚えることになる。そしてこの聖霊降臨日が、実は弟子達が恐れから勇気をもって宣教する人なった日でもある。

 この日のために弟子達を教育する教えが続く。まず今日は、イエス様がエルサレムに入って苦難をうけることが語られている。何を勘違いしたのか、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエス様のところに来てひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」

 弟子たちが、イエス様の心を理解せず、自分達のことだけを考えていることに気づかされる。イエス様が全ての人の救いのために苦難を受けようとするとき、人々は自分が天国でイエス様と一緒に、誰よりも高い位置に着きたいと願っていたのだ。今までのイエス様の教えは、弟子たちの心にしみこんではいなかったのだ。

 弟子達にはイエス様の心がわかっていなかった。それは今の教会でも一緒ではないだろうか。本当に苦しむ者、悲しむ者と共にあろうとする教会であっただろうか。障害者の委員会で全国の教会に「障害者のために必要な施設が整っていますか?」というアンケートを取ったことがある。「点字の聖書を整えています」とか、「エレベーターを設置しました」等々、いろいろな配慮が示されていることを知った。

 しかし、一つの教会からは驚くような答えが返ってきた。「幸いにも、私達の教会には障害者は来ていませんので、特別な用意はありません。」幸いにも・・・。

 イエス様は天に昇られる日に、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言っておられる。

 これは教会に対する厳命である。私たち一人一人への命令だと思う。人を差別しない教会、宣教の仕方を通して一人でも多くの人の救いを願う教会であり、私たちでありたいと思います。

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# by minitayori | 2017-03-11 20:27

青空に映える椿の花

近くのお宅の椿の木
もう一本あったが、いろいろな色の大きな椿の花が咲いていた。
次回に写せたらお見せします。青空をバックにした花はきれいです。
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# by minitayori | 2017-03-11 20:11

散歩道で出会った花

散歩道で出会った花
芝生の奥に咲いていたので、よく見えなかったが、名前もわからなかった。
でも、花の少ない季節に美しく語りかけてくれた。
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# by minitayori | 2017-03-04 21:50

「みにたより293」

「みにたより293」

人間と言うものは勝手なもので、自分がかわいいので、何とかして自分をかばおうとしている。亡くなられた三浦綾子さんが、対談の中で次のようなことを言っていた。「自分は、リンゴの皮もむけないほど役立たずであるにもかかわらず、ただ小説を書いていると言うだけで、大事にしてくれる人がいる。しかし、自分の役に立ってくれる人はかわいいが、じゃまする人をかわいいと感謝する、という思いにはなかなかいかない。どうも自分勝手な自分を見る」と言う。

「たとえば、自分が大切にしている高価な器があったとする。自分が留守の時、誰かが壊してしまったら、ものすごい形相で怒るだろう。しかし、その大事にしている器をだれも見ていないところで自分自身が壊したとしたら、他人が壊したと同じような形相で怒るだろうか。『あ、しまった』と言って頭を軽くたたくかなでるかして、あたりを見渡して、そそくさと後かたづけをして、しらんかをしているのではないか。一番恐ろしいのは、『すべての尺度は自分である』と言うように、自分がしたことはたいしたことはないと過小評価し、他人のことになると不当に評価すること」といっていた。

自分が中心になって、自分かわいさのあまり、ゴムのような「伸縮自在の物差し」を心に持って、自分で勝手に伸ばしたり縮めたりして測って、人を裁いてしまうのだ。イエス様はそんなわたしたちの心を知っていらしたから、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」と言われた。弟子たちはイエス様の憐れみの深さ、愛の広さを、なかなか理解できなかった。 また、ゴムひもの物差しでイエス様を測り、イエス様を十字架に追いやってしまったのが、ユダヤ人のパリサイ派の人々ではなかっただろうか。

 しかし、この自在の物差しを「赦しとして」神様がもたれたらどうだろう。その人にふさわしい赦しを与えてくださる神様の愛。老若男女、貧富、力の強弱に関わらず、神様の愛はその人に充分に注がれる。ありがたいことです。


 キリストは、すなわち神である

だからキリストの手は、 またわたしまで伸びてくる。

八木重吉

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# by minitayori | 2017-03-04 21:42

にらの花

にら花
私がこの花に出会ったのは、清瀬にある全生園という施設の庭だった。
広い敷地の片隅にあった焼却場の前、一面に真っ白に咲いていた。
偏見の中で隔離されていた人々の持ちモノでも燃やしたのかもしれない。
花が涙のようにも見えたし、天使の白い衣のように思えた。思わずこうべを
垂れて祈りを捧げました。
この花は近くの団地の片隅に咲いていたものです。
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# by minitayori | 2017-03-04 21:31